白い別邸
最後の坂は険しかった。
岩だらけの斜面を、四つん這いに近い姿勢で登る。吐く息が白く凍った。ルカはカイの前を低く飛びながら、時々振り返った。
こっちだよ、と言うように。
日が傾き始めたころ、尾根の上に出た。
「……ここが」
カイは息を整えながら、顔を上げた。
目の前に、深い谷が広がっていた。
三つの峰が、谷を取り囲むようにそびえている。真ん中の峰の麓に、薄い霧が漂っていた。夕日が、霧の上を金色に染めている。
その霧の中に、白いものが見えた。
「……館」
カイは岩陰に身を伏せた。
谷の底に、大きな白い建物が建っていた。三階建ての石造りで、屋根には青い瓦が並んでいる。周りを、高い塀がぐるりと囲んでいた。
塀の上には、鉄の飾りが等間隔に並んで、夕日を鈍く反射している。
(ベルクハイム伯爵の館に似ている)
領都で見た、あの美しい屋敷。庭の緑、白い石。ただ、こちらの方がずっと大きかった。そして、ずっと閉ざされていた。
塀の入口には、鉄の大きな門があった。その前に槍を持った兵が四人立っている。灰色ではなく、深い緑の制服だった。
「ぷる」
ルカがカイの袖を引いた。
「見てる。大丈夫」
カイは声を潜めた。
館の裏手に目をやる。谷の奥に向かって、緩やかな斜面が続いていた。その斜面に何か、規則的な影が並んでいる。
石、だった。
背の高い石が、輪の形に立っている。十数本。苔に覆われて、半分は倒れていた。その輪の中心にも、石が積まれている。
崩れた壁のように見えた。
「あれは」
カイの喉が鳴った。
(祠の石板と同じ、輪の形)
ミトラの里の、跡だ。一夜にして失われたという、守り手たちの暮らした場所。
その石の輪のすぐ隣まで、館の塀が迫っていた。
(里の上に、館を建てたのか)
胸の奥で冷たいものが、静かに広がっていった。
偶然のはずがなかった。伯爵は知っていたのだ。ここに何があったのか。そして、何を隠すためにこの谷を買ったのか。
その時、谷の入口の方から車輪の音が聞こえた。
ごとごとごとごと。
荷馬車だった。幌をかけた大きな馬車が、一台。ゆっくりと、館の門へ近づいていく。
門が開いた。馬車は、そのまま中へ入っていく。幌の隙間から、一瞬だけ、中が見えた。
籠のようなものが積まれていた。布で覆われている。その布の下から何かが、動く気配があった。
「ぷるる……」
ルカが低く唸った。毛がぶわりと逆立っている。
その時、カイは聞いた。
きゅう、と。
高く、細い、鳴き声。馬車の中から風に乗って微かに届いた。助けを求めるような、子どもの声だった。
(あの中に、いる)
足が前へ出かけた。カイは慌てて、岩にしがみついた。
(だめだ。ここで飛び出しても何もできない)
兵が四人。塀の中にはもっと多いだろう。丸腰の自分が、門を叩いても捕まるだけだ。
イゼルダの手紙が頭に浮かんだ。
『決して一人で入らないこと』
奥歯を噛みしめた。
胸元で聴診器が、かすかに温かくなった。まるでカイの焦りを、なだめるように。
(……落ち着け)
深く、息を吸う。それから、ゆっくりと吐いた。
(診てから、決める)
今、できることは何か。見ること。覚えること。持ち帰ること。
カイは、鞄から板と炭を取り出した。館の位置。塀の形。門の兵の数と交代の間隔。馬車が入っていった時刻。
一つずつ、書き留めた。
ルカはカイの肩で、じっと館を睨んでいた。その金色の瞳が夕日を受けて、燃えるように光っていた。
「ルカ」
「ぷる」
「大丈夫。必ず、戻ってくる。今度は、一人じゃない」
ルカはカイの頬に、小さな頭を押しつけた。
その時だった。
館の三階の窓がぱっと開いた。バルコニーに、一人の男が出てきた。
遠くて顔までは見えない。けれど、深紅の上着が夕日にはっきりと映えた。男は手すりに片手を置いて、ゆっくりと谷を見渡した。
(まさか)
カイの背筋に、冷たいものが走った。
男は何かを手に持っていた。細長い、金属の筒。望遠鏡だった。それをゆっくりと持ち上げる。
向けられた先は谷の入口の、あの尾根だった。
カイはとっさに、岩陰に身を沈めた。ルカを胸に抱き寄せる。
(見られた?)
心臓がどくどくと鳴った。耳の奥で血の音がうるさい。
どれくらい、そうしていただろう。やがて、おそるおそる、岩の隙間から、のぞいた。
バルコニーは空だった。窓が静かに閉じられていた。
(……気づかれなかったのか。それとも)
分からなかった。けれど、ここに長くいるのは危険だった。
「戻ろう。ホロ村まで」
カイは板を鞄にしまった。ルカを肩に乗せて、尾根を後にしようとした。
その時、ルカがはっと顔を上げた。
「ぷる!」
小さな体がぴんと緊張する。金色の瞳が、館の裏手の石の輪の方を見つめていた。
「どうした」
カイもそちらを見た。夕闇が谷を覆い始めている。石の輪の影が長く伸びていた。
その中に動くものがあった。
石の輪の、さらに奥。館の塀の根元に小さな穴が開いている。水を流す、排水の溝のようだった。
その穴から何かが、這い出してきた。
白い、小さな影。
月も出ていないのに、毛並みがぼんやりと光っていた。四本の脚で、ふらふらと立ち上がる。
そして、あたりをきょろきょろと見回すと、石の輪の陰へよろめきながら駆け込んでいった。
「……子ども?」
カイは目を疑った。
あの小さな白い体。ふらつく足取り。それはどう見ても、幻獣の子だった。館から逃げ出してきたのだ。
「ルカ!」
ルカはすでに、カイの肩から飛び立っていた。夕闇の谷へまっすぐに降下していく。
「待て、ルカ!」
カイは岩を飛び降りた。ランプも持たず、闇の斜面を駆け下りる。
背後で館の門から、誰かの叫び声が聞こえた気がした。けれど、振り返らなかった。
谷の底で、守りの輪が静かに待っていた。
(第4章 完)




