罠の道
出発は翌朝だった。
村人たちが、入口まで見送りに出てきた。ヨハンが、背負い袋に干し肉とパンを詰めてくれた。
ヨハンの妻が、温かい毛布を持たせてくれた。
「谷までは、歩いて二日だ。夜は冷える。無理をするな」
「ありがとうございます」
「バーサさんの地図は持ったか」
「はい」
カイは胸元から、折りたたんだ紙を出して見せた。
「獣医さん」
ニコが一歩前に出た。目に涙を溜めて、それでも唇をきゅっと結んでいる。
「ぼくも行きたい。でも、行かない。メイとばあさんを見てなきゃ」
「そうだな。留守を頼むよ」
「うん。毎日、体温を測って、記録を取る。獣医さんが帰ってきたら、全部見せる」
「楽しみにしている」
カイはニコの頭を撫でた。少年が葦の筒を、首にぶら下げていた。
「これ、お守り」
「いいお守りだ」
ニコは涙をこらえて笑った。
荷役組合の荷馬車が、村の入口に並んでいる。ペッポが御者台から、大きく手を振った。
「先生! 気をつけて!」
「ありがとう! 親方に、よろしく!」
ルカがカイの肩から、ぱっと飛び立った。村の上空を一周する。子どもたちが歓声を上げた。
それから、ルカはカイの前に降り立って「ぷる」と鳴いた。
行こう、と言っている。
カイはうなずいて歩き出した。
北へ向かう道は、次第に細くなっていった。
丘を越え、森を抜け、渓流の脇を登る。空気が澄んで、冷たくなってくる。足元の落ち葉が、霜でしゃりしゃりと音を立てた。
ルカは時おり先に飛んでは戻ってきた。そして、カイの歩く速さに合わせて肩や頭に乗った。
(道を、知っているみたいだ)
初めて通るはずの道なのに、迷う様子がない。
最初の夜は、岩の窪みで野営した。火を焚いて干し肉を炙る。ルカはカイの膝の上で、干し果物を嬉しそうにかじった。
「ホロ村で、もらいすぎたかな」
「ぷる」
「リナに怒られるよ」
そう言って笑った。それから、夜空を見上げた。満天の星が頭上にあった。遠くに三つの峰の黒い影が、くっきりと浮かんでいる。
(あの麓に、ミトラの谷がある)
カイは聴診器を握りしめた。冷たい金属が掌の中で、かすかに温かくなった気がした。
二日目の午後だった。
渓流沿いの細い道を登っていると、ルカが突然、翼を畳んで、カイの肩に降りてきた。耳をぴんと立てて、前方を睨んでいる。
「どうした」
ルカが低く唸った。
カイは足を止めた。耳を澄ます。風の音。水の音。その合間に何かが聞こえる。
ばさ、ばさ、と。
何かが、必死に羽ばたく音だった。
「あっちだ」
カイは藪をかき分けて進んだ。木々の間に、開けた場所が見えた。
そこに一羽の鳥が倒れていた。
細長い風切り羽。空の色を透かすように、薄青く光っている。風羽鳥だった。
片方の翼が、地面に張られた網に絡め取られていた。もがくたびに網が食い込んで、羽が抜け落ちる。
「動かないで。大丈夫」
カイは鳥のそばに膝をついた。風羽鳥は怯えた目で見上げた。嘴を開けて、威嚇するように鳴く。けれど、その声はかすれていた。
「怖くないよ。助けるから」
鞄から小さな鋏を取り出す。網の目を一本ずつ、慎重に切っていった。絡まった翼を傷つけないようにそっと広げる。
翼の付け根が赤く腫れていた。骨がわずかにずれている。
(骨折している)
ゆっくりと翼をたたむ。細い添え木と布を使って体に固定した。風羽鳥はじっとしていた。観念したように、目を閉じている。
「よし。少し休もう」
カイは鳥を、柔らかい布の上に寝かせた。そして、網を調べた。
丈夫な麻の網だった。地面に杭で固定されている。網の縁に小さな金属の札が、結びつけてあった。
指でつまんで裏返す。
鷲の形の印が刻まれていた。
(……鷲)
息が止まった。
ゼルクの指示書に押されていた印と同じだった。ベルクハイム伯爵の鷲の紋章。
カイは周囲を見渡した。木の根元。岩陰。少し離れた藪の中に同じような網が、いくつも張られていた。
どれも鷲の札がついている。
(罠の道だ)
谷へ向かう道に沿って、罠が張り巡らされている。風羽鳥のような希少な魔獣を、捕らえるために。
ここは伯爵の狩場なのだ。
「ぷる……」
ルカが低く唸った。毛が逆立っている。小さな体が怒りに震えていた。
「分かってる」
カイはルカの背に手を置いた。
「この子は、僕が診る。そして、罠は全部外していこう」
道端に打ち込まれた杭を、一本ずつ抜いた。網を切って積み上げる。罠にかかった魔獣は、他にはいなかった。
それだけが救いだった。
夕暮れ近く、風羽鳥は目を開けた。添え木を当てた翼を、ぱたぱたと動かそうとして、痛そうに止める。
「まだ、飛べないよ。数日は安静だ」
鳥は首を傾げて、カイを見つめた。それから、ルカの方を向いた。
二匹はしばらく、じっと見つめ合っていた。やがて、ルカが「ぷる」と短く鳴いた。風羽鳥が小さく鳴き返した。
「話してる、のか」
カイには分からなかった。けれど、風羽鳥の目から、怯えが消えていた。
その夜、カイは鳥のそばで野営した。火のそばに、柔らかい寝床を作ってやる。風羽鳥は時々羽を震わせて眠った。
翌朝、鳥はまだ飛べなかった。けれど、自分で水を飲んだ。
「ここから先は、連れて行けない。バーサさんの小屋に預けたい。でも、遠いな」
迷っていると、風羽鳥がふいに藪の方へ首を向けた。そして、小さな声で鳴いた。
ばさばさと音がして、藪の中から、別の風羽鳥が二羽現れた。
「仲間か」
二羽は怪我をした鳥に寄り添った。嘴でそっと翼を撫でる。それから、カイをじっと見た。
「連れていってくれるのか」
返事はなかった。けれど、二羽は傷ついた仲間の両脇に肩を貸すように並んだ。
ゆっくりと、森の奥へ歩き出していく。
その背中を見送りながら、カイは胸が熱くなるのを感じた。
(守っている。この子たちは、ちゃんと仲間を守ろうとしている)
そして、その仲間を狩ろうとする者が、いる。
カイは荷物を背負い直した。
「行こう、ルカ」
「ぷる」
その先に谷への最後の坂が続いていた。




