難産の夜
バーサの小屋は山の麓にある、石積みの小さな家だった。
屋根は低く、壁には干した薬草がずらりと吊るされている。暖炉の上で、鍋がことことと音を立てていた。
「座りな。茶を淹れよう」
カイは、暖炉のそばに腰を下ろした。ルカは膝の上で丸くなる。
バーサが出してくれた茶は少し苦くて、不思議な甘みがあった。
「祠を見たんだろう」
「はい。守りの輪の印を」
「あの印は昔、この辺りの者なら、誰でも知っていた」
バーサは遠くを見る目をした。
「輪の者は山の向こうの谷に、里を持っていた。魔獣を診て、育てて、人と獣の間を取り持つ者たちだった。わしの婆さんはそう話していた」
「谷に」
「三つ角の、真ん中の峰の麓だ。『ミトラの谷』と呼んでいた」
ミトラ。カイはその名を、胸の中で繰り返した。
「その人たちは、どうなったんですか」
「分からん。ある年、谷に何かあった。山崩れとも、疫病とも言う。以来、輪の者の姿を見た者はいない」
バーサはぽつりと続けた。
「ただ、近頃、おかしな話がある」
「おかしな話」
「五年ほど前から、その谷に立派な館が建った」
カイは息を止めた。
「館」
「白い、大きな館だ。高い塀で囲んで、兵が立つようになった。谷への道は、閉ざされた。猟師の一人が迷い込んで、追い返されたそうだ」
「誰の館か、分かりますか」
「領都のお偉いさんの別邸だとは聞いたが、名までは」
別邸。
メルツの言葉が頭をよぎった。北の街道沿いから、魔獣を減らしたがっている者がいる。
(伯爵の、別邸)
確証はなかった。けれど、点と点が一本の線になりかけていた。
「バーサさん。その谷への道を、教えてもらえますか」
「行く気かい」
「はい。ただ、ホロ村の群れが、もう少し落ち着いてから」
「慎重だね」
老婆はにやりと笑った。
「それなら、安心だ。道は、地図に描いてやろう。ただし、一人では行くな」
「ルカがいます」
「竜の子がいても、子は子だ」
バーサは、釘を刺すように言った。カイは苦笑した。
その時、小屋の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「獣医さん! 獣医さん!」
ニコの声だった。扉が勢いよく開く。少年が、真っ青な顔で立っていた。
「ハンナさんの羊が、子どもを産むんだけど、出てこないんだって!」
「難産か」
カイは、すでに立ち上がっていた。
「どこだ」
「村の南の小屋。早く!」
外は雨が降り始めていた。冷たい、細かい雨だった。
カイとニコは、ぬかるんだ道を走った。ルカが肩の上で、振り落とされまいと爪を立てている。
小屋に着くと中年の女が、羊のそばでおろおろしていた。
「獣医さん、助けてください。昨日の晩から陣痛が始まって、もう半日も」
羊型の魔獣が、藁の上で横たわっていた。荒い息をして時々、いきむ。けれど、何も出てこない。
「ニコ君。桶に湯を。石鹸と清潔な布。それから、油を」
「うん!」
カイは袖をまくって手を洗った。羊の後ろに回り、膝をつく。
「ごめんね。少し触るよ」
手に油を塗って、慎重に産道へ指を入れる。温かい。狭い。その奥に何かが触れた。
小さな蹄だった。
(前脚が、一本)
もう一本を探る。ところが見つからない。さらに奥へ手を伸ばして気づいた。
(もう一本が、後ろに折れ曲がっている)
子の頭は手前にある。だが、片方の前脚が後ろに引っかかって肩がつかえているのだ。これでは出られない。
「胎位異常です。脚が、折れ曲がっています」
カイは息を整えた。
(落ち着いて。押し戻して、脚を引き出す)
指先で子の頭を、そっと奥へ押し戻した。少しだけ、余裕ができる。その隙間に手を滑り込ませる。折れ曲がった脚を探り当てた。
蹄を手のひらで包んで、傷つけないようにゆっくりと前へ導く。
「ニコ君。ランプを、もう少し近くに」
「うん」
少年はランプを持ち上げた。手が小刻みに震えている。けれど、目は逸らさなかった。
「……よし、揃った」
二本の前脚が、頭とともにまっすぐ並んだ。カイはそっと脚をつかんだ。
「いくよ。母さんが、いきむ時に合わせて」
羊がぐっと息を詰める。カイは同じ瞬間に、ゆっくりと引いた。
ずる、と。
湿った音がして、小さな体が滑り出てきた。
「出た!」
ハンナが叫ぶ。ところがカイの顔が険しくなった。
子羊は藁の上に、ぐったりと横たわっていた。動かない。鳴かない。
「息をしていない」
「えっ」
「ニコ君、こっちへ。手伝ってくれ」
カイは子羊の鼻と口を指で拭った。粘液が、べったりと詰まっている。
清潔な布でそっと吸い取る。それから、子羊の体を藁で強く擦り始めた。
「こうやって体を擦って刺激を与える。呼吸を促すんだ。ニコ君も、同じように」
「う、うん!」
ニコが小さな手で、子羊の背中を擦った。ごしごしごしごし。
「死なないで。生きて。お願いだから」
少年の声が震えていた。
カイは子羊の鼻先に藁の先を、そっと差し入れた。くすぐるように動かす。
反応はなかった。
(もう、一回)
胸に聴診器を当てる。かすかな鼓動が聞こえた。生きている。
「ニコ君。強く擦ってくれ。もっと」
「はいっ!」
その時、ルカが肩から飛び降りた。子羊のそばに、ぴたりと寄り添う。小さな体を丸めて、子羊を包み込むように体温を分けた。
雨音が、小屋の屋根を叩いている。ランプの炎が、ゆらゆらと揺れた。
「ぷる」
ルカが小さく鳴いた。
その瞬間。
「……めえ」
か細い声が、藁の上から聞こえた。
子羊が小さく鳴いた。それから、ぶるりと体を震わせて大きく息を吸い込んだ。
「めえ! めええ!」
「生きた!」
ニコが叫んだ。ハンナが顔を覆って泣き出した。母羊がゆっくりと首を持ち上げて、子を舐め始める。
カイは全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。手が小刻みに震えている。
「ニコ君」
「はい」
「今夜は君が、僕の助手だったね」
少年はきょとんとして、それから、顔をくしゃくしゃにした。
「ぼく、役に立った?」
「ああ。君が擦ってくれたから、あの子は息をした」
「やった……やったあ!」
ニコは泣きながら、笑った。
雨はいつの間にか、小降りになっていた。小屋の屋根をぽつぽつと叩く音が、子守唄のように聞こえた。
ルカが子羊のそばで、満足そうに目を細めていた。




