ニコの聴診器
火を見届けた日から五日が過ぎた。
ホロ村の朝は、少しだけ明るくなっていた。畑の端で、村人たちが挨拶を交わしている。
柵の前では、世話をする人々の声が絶えない。
赤い札はすべて外されていた。
「獣医さん、おはよう!」
「おはよう。メイの様子は」
「すっかり元気だよ! 今朝はぼくの手から、ミルクを全部飲んだ!」
ニコが、跳ねるように走ってくる。後ろから子ヤギのメイが、ぴょこぴょこと追いかけてきた。
白かった毛は泥を洗い落として、ふわふわになっている。
「見せてごらん」
カイは膝をついて、メイの体を確かめた。腹を触る。皮膚をつまむ。目を見る。
(下痢は止まっている。目の黄色みも消えた)
母ヤギも、乳が出るようになっていた。毒のない餌を食べた体が、少しずつ回復している証拠だった。
「もう大丈夫だよ。母さんのお乳を飲ませて、しっかり育てよう」
「うん!」
ニコは満面の笑みを浮かべた。それから、少しもじもじしてカイを見上げた。
「あのさ。獣医さん」
「どうしたんだい」
「ぼくにも、できるかな」
「何が?」
「獣医さんがやってた、あれ。耳を当てて、聞くやつ」
カイは、胸元の聴診器に手をやった。
「聴診器のことかな」
「うん。ばあさんの、心臓の音を聴いてた。ぼくも、聴いてみたい」
カイは少し考えてから笑った。
「ちょっと、待っていて」
小屋の裏に回る。そこに、バーサが分けてくれた、細い葦が束になって転がっていた。中が空洞になっている。
カイは節のないところを選んで、掌ほどの長さに切った。端を小刀でなめらかに削る。
「はい。これを耳に当てて」
「えっと、これ、葦?」
「そう。簡単な聴診器だ。もう片方の端を、メイの胸に当ててごらん」
ニコはおそるおそる、葦の筒を受け取った。片方の端を、自分の耳に押し当てる。もう片方をメイの胸の毛の間にそっと当てた。
「……」
少年はじっと息を止めた。
カイは黙って待った。風の音。鳥の声。遠くで鳴く、牛の声。
やがて、ニコの目がまんまるに開いた。
「……聞こえる」
「何が聞こえる?」
「どくどくって。速い。すごく速い」
「それが、メイの心臓の音だ」
「生きてる。メイが、ちゃんと生きてる」
ニコの声が震えた。目の縁に涙が溜まっていく。
「ぼく、手紙を書いた時、怖かったんだ。メイが、死んじゃうんじゃないかって。村の誰も、助けてくれないって」
「うん」
「でも、獣医さんが来てくれた。こうやって、音を聴いてくれた」
ニコは葦の筒を、大切そうに両手で握った。
「ぼくもなりたい。獣医さんに」
カイは少年の頭に、そっと手を置いた。
「なれるよ」
「ほんとに?」
「ただ、簡単ではない。勉強がいる。本を読んで観察して、たくさんの子を診る。間違えることもたくさんある」
「それでも、やりたい」
ニコはまっすぐな目で言った。
「メイが、助かったから。ばあさんも、みんなも。ぼくも、誰かを助けられる人になりたい」
カイは一瞬、言葉を失った。それから、静かに微笑んだ。
(この目を、知っている)
初めて診療所で、骨折したソラを抱いて泣いていた少女の目。
「ニコ君。実はね、僕のところに、リナという弟子がいる。君より少し年上だけど、同じことを言ったんだ」
「リナ、さん?」
「うん。今は、一人で診療所を守っている。いつか、君にも会わせたいな」
「会いたい!」
「手紙を書こう。君が、獣医になりたいと言っていると」
「うん!」
ニコは跳び上がった。その勢いでメイが驚いて、ぴょんと逃げた。
笑い声が響いた。
その様子を少し離れた場所から、バーサが見ていた。杖にもたれて目を細めている。
「いい弟子ができたね、獣医さん」
「まだ弟子では」
「あの子の目は、決まっているよ。わしには分かる」
老婆はにやりと笑った。
「ところで」
バーサは声を落とした。
「あんたに、話しておきたいことがある。夜に、わしの小屋へ来ておくれ」
「祠の件ですか」
「それも、ある」
老婆は杖で遠い山を指した。
「あの山のことだよ」
* * *
昼からは子どもたちが、ルカを囲んで遊んでいた。
あれほど怖がられていた竜は、すっかり人気者になっていた。
背中に子どもを乗せようとして断られ、尻尾を引っ張られて逃げ回り、最後は、ミーナにもらったのと同じ干し果物で買収された。
「ルカ、こっち!」
「ぷるる!」
小さな翼で低く滑空する。子どもたちが、わっと歓声を上げて追いかける。
その輪の外で、カイは紙と筆で手紙を書いていた。
『リナへ。ホロ村の群れは、回復に向かっている。原因は、カビた干し草だった。ニコという少年が、獣医になりたいと言っている。いつか、リナに会わせたい。診察の記録も、同封する』
そこまで書いて少し考えた。
『リナが診療所で、一人で判断したことを、ミレーヌさんから聞いた。ホープのこと。迷って、人を呼んだこと。それは、弱さじゃない。僕がずっと、リナに教わっていることでもある』
(教わっている)
その言葉を自分で書いて、不思議な気持ちになった。
教えているつもりで教わってきた。ソラを抱いて泣いていた少女に。眠り蔓の毒を見破ったミレーヌに。
無口な手で、道具を作ってくれたドルンに。
(僕は一人じゃない)
筆を置く。窓の外で、子どもたちの声がはしゃいでいた。
夕暮れの鐘が鳴った。




