メルツの報告書
その日の午後、メルツは村長の家の机で、筆を走らせていた。
窓から差す光が、紙の上の文字を照らしている。カイは向かいの椅子に座って、その手元を見ていた。
「……『診察は、巡回獣医官カイにより適切に行われた』」
メルツが口に出しながら書く。
「『原因は、湿った飼料に生じたカビであり、感染性の病ではない。餌を替えた群れに、明らかな回復が認められた。よって、処分は不要と判断する』」
「ありがとうございます」
「まだ書き終えていない。礼は後にしろ」
メルツは顔を上げずに言った。
「だが、これだけでは足りない。私の保留は、あくまで一時的なものだ。地方管理官が、この報告を認めるとは限らない」
「地方管理官」
「あの命令書を出した人物だ。ベルクハイム伯爵の縁戚にあたる」
メルツは筆を止めた。
「実は、気にかかっていることがある」
「何でしょう」
「この巡察で、私は北の街道沿いの村を五つ回った。どの村にも、同じ文言の命令書が出ていた。病の疑いのある魔獣は、即時に処分せよと」
「五つの村すべてにですか」
「そうだ。しかも、病気でもない魔獣まで、数に入れさせようとした村もあった。『念のため』という名目で」
カイは眉を寄せた。
「なぜ、そんなに急いで」
「分からん」
メルツは首を横に振った。
「だが、妙だと思った。北の街道から、魔獣を減らしたい理由が、誰かにあるのではないか」
カイの胸に、ひやりとしたものが走った。
(北。伯爵)
ゼルクの持っていた指示書。『三頭を、速やかに別邸へ移送せよ』。別邸はどこにあるのか。あの時は、領外としか分からなかった。
(もし、別邸が北にあるのなら)
魔獣が多い村は、人の目も動物の出入りも多い。伯爵が何かを隠したいなら、周囲が静かな方が好都合だ。
けれど、それはまだ憶測に過ぎなかった。
「メルツさん。その話、局長に伝えていただけますか」
「そのつもりだ」
メルツは書き上げた報告書に署名をした。
「私は明朝、領都へ発つ。報告書を、局長に直接届ける。地方管理官を通さずに」
「それは、危なくないですか」
「危なくないとは言えん」
メルツは、わずかに肩をすくめた。
「だが、私の仕事は命令を運ぶことだと思っていた。今は、少し考えが変わった。運ぶ前に、中身を確かめる。それも、仕事のうちだ」
「メルツさん」
「それと」
メルツは懐から、一枚の紙を取り出した。
「私が戻るまで、執行は保留とする。巡察の予定が延びた、ということにしておく」
「そんな、屁理屈みたいな」
「規則に、屁理屈はつきものだ」
真顔で言って、メルツは紙を机に置いた。カイは、思わず吹き出しそうになった。
「ありがとうございます。僕からも、手紙を書かせてください。局長に」
「いいだろう。持っていく」
カイは紙と筆を取り出した。局長宛ての手紙。ホロ村の状況と診断の経緯。そして、冬を越す餌が足りないという事情。
(餌)
筆が、ふと止まった。
「メルツさん。もう一通、お願いできますか。領都の、荷役組合の親方宛てに」
「荷役組合?」
「オルトさんという方です。麦わらや飼い葉の余りを、回してもらえないかと」
「……なるほど。あの組合は、人脈が広いからな」
メルツは、感心したようにうなずいた。
「伝えよう。局長の許可が出れば、補助の荷馬車も出せるかもしれん」
「お願いします」
カイは、手早く二通の手紙を書き上げた。封をしてメルツに託す。
メルツは、それを大事そうに書類鞄にしまった。
窓の外から、子どもたちの笑い声が聞こえた。ルカを追いかけて、走り回っている。
竜を怖がっていた村の子どもたちが、いつの間にか、一緒に遊んでいた。
「あの竜は」
メルツがぽつりと言った。
「危険はないのか」
「ありません。ただ、食いしん坊です」
「そうか」
メルツは窓の外を眺めた。眼鏡の奥の目が、少しだけ緩んでいた。
「アルム村の少女に伝えてくれ」
「リナにですか」
「あの診察は、私の報告書の中で今も一番の見本だ。そう言っていた、と」
「必ず、伝えます」
カイは深くうなずいた。
* * *
翌朝、メルツは馬に乗って村を発った。
村の入口まで、ヨハンとカイが見送った。朝の霧が、丘の上に薄く残っている。
「確認だが」
馬上から、メルツが言った。
「二群の六頭も、餌を替えたな」
「はい。昨日から、麦わらです」
「結構。では、私が戻るまで、診察を続けろ」
「はい」
「ヨハン殿」
メルツは村長に向き直った。
「この村の記録は、今後私が預かる。カビのことは、他の村にも伝える必要がある」
「ああ。頼む」
ヨハンは短く答えた。それから、少しだけ、言い淀んだ。
「……すまなかった」
「何がだ」
「三日前、あんたを敵のように思っていた。あんたは、命令を運んできただけなのに」
メルツは、眼鏡を指で押し上げた。
「謝ることではない。運んだのは、命令だ。だが、私も考えを改めている」
馬の手綱を引く。
「カイ殿」
「はい」
「気をつけろ」
メルツは前を向いたまま言った。
「地方管理官は、貴殿の名を知っている。獣医官の席に反対している一派ともつながりがある」
「分かりました」
「それと」
メルツは、振り返らずに付け加えた。
「あの聴診器は、飾りではないのだな。昨夜、ばあさんの胸に当てているのを見ていた」
カイははっとした。
「……はい」
「いい道具だ。大事にしろ」
それだけ言って、メルツは馬の腹を軽く蹴った。蹄の音が、霧の中へ遠ざかっていった。
ヨハンが腕を組んで、その背を見送っていた。
「……変わった役人だな」
「ええ。でも、いい人です」
カイは笑った。肩の上でルカが、小さく伸びをした。




