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異世界で獣医を開業しました ~魔獣は処分するものだと言われても、治せるなら治します~  作者: おはぎだんご


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朝の比較

小屋に駆け込むと、藁の上で、ばあさんヤギが横たわっていた。


四本の脚を投げ出して、ぴくりとも動かない。腹の動きが見えなかった。

カイはその場に膝をついて、ヤギの鼻先に手をかざした。


(息がほとんどない)


聴診器を胸に当てる。耳を澄ます。


とく。


間が、空く。


とく……。


(心臓は動いている。でも、弱い)


首筋に触れると冷たかった。体温が下がっている。口の中を見る。歯茎が、白い。


(低体温。それに、血の糖が足りない)


肝臓が傷んだ体は、糖を蓄えられなくなる。食べられない夜が続けば、体の燃料が尽きてしまう。


「毛布を。ありったけ!」


「は、はい!」


若い男が飛んでいった。カイは、荷物から小さな蜂蜜の壺を引っ張り出した。


「ニコ君。お湯を沸かして。熱くない、人肌の温かさまで冷まして」


「うん!」


蜂蜜を指ですくい、ヤギの歯茎にそっと塗りつける。何度も、何度も。舌の根元にも。

口の中から、少しずつ糖が染みていく。


毛布が来た。ヤギの体をすっぽりと包む。その上から、湯を詰めた革袋を脇腹に当てる。


「ばあさん。頑張れ。頑張ってくれ」


ニコが、ヤギの耳元でささやいた。小さな手で、冷たい脚をごしごしとさすっている。


カイは、胸に聴診器を当て続けた。


とく……とく。


(まだ、いける)


湯冷ましが届く。蜂蜜を溶かして、スプーンの先で、少しずつ口の端から流し込む。喉が動かない。

流れ込んだ液が、口の端から漏れた。


「飲み込めない」


「もう一回。ゆっくり」


また、少し。また、少し。


何度目かに、喉がごくりと動いた。


「飲んだ!」


ニコが叫ぶ。ヤギの腹が、ふわりと膨らんでしぼんだ。長く止まっていた息が、一つ戻ってきた。


はあっ。


ヤギが大きく息を吸った。まぶたが、ゆっくりと持ち上がった。


「ばあさん!」


ニコの目から、涙がぽろぽろと落ちた。


その夜は誰も眠らなかった。若い男も小屋に残って、湯を沸かし続けた。ルカがヤギの毛布の上に丸くなって、体を温めていた。

明け方、東の空が白んだ頃。


ばあさんはニコの手のひらから、蜂蜜の混じった湯冷ましを、自分で舐めていた。


* * *


朝日が昇ると、村の広場に人が集まった。


村人たちが、ぐるりと輪を作っている。その真ん中に、メルツが立っていた。灰色の外套を羽織って、眼鏡を光らせている。

ヨハンは腕を組んで、少し離れたところにいた。


柵の前に、二つの群れが並べられていた。


青い布の一群が六頭。赤い布の二群が六頭。


「始めたまえ」


メルツが言った。


カイは広場の真ん中に立って、息を吸った。


「これから、二つの群れを比べます。餌の違いだけです。他の世話は、すべて同じにしました」


カイは、青い布の子たちを指した。


「一群は三日前から、干し草を止めました。代わりに、麦わらと乾いた牧草を与えています」


次に、赤い布の子たちを指す。


「二群は、これまでと同じ干し草です。毒を吸う炭だけを与えました」


ざわめきが起きた。村人たちが顔を見合わせる。


カイは鞄から、白い布を取り出した。


「まず、目の色を見てください。肝臓が傷むと、白目が黄色くなります」


一群の一頭を連れてきて、まぶたをめくる。その目の横に白い布を並べた。


「白い布と、比べます。見えますか。わずかに、黄みがあるだけです。三日前は、もっと濃かった」


続いて二群の一頭。


「こちらは、どうでしょう」


布の白とヤギの白目。違いは一目で分かった。黄色がはっきりと濃い。


「……本当だ」


誰かが小さくつぶやいた。


「次に、食欲です。昨日一日で、麦わらを食べた量は、一群が平均でこれだけ」


カイは板に書いた数字を掲げた。


「二群は、その半分以下です。しかも二頭は、ほとんど口にしていません」


「便は」


メルツが鋭く聞いた。


「一群は、茶色で固さが戻りつつあります。二群は、緑がかった泥状のままです」


カイは村の女を呼んだ。三日前から、世話をしていた人だった。


「あなたの目で、見てください。どちらが、良くなっていますか」


女はおずおずと前に出た。青い布の子と、赤い布の子を見比べる。ゆっくりと近づいて触れた。


その手が止まった。


「……青の子たちは」


声が震えていた。


「毛が、柔らかくなってる。目が、ちゃんとこっちを見てる」


「はい」


「赤の子たちは、昨日より痩せてる」


女は振り返って、村人たちを見た。


「違うよ、みんな。この獣医さんの言う通りだ。餌を替えた子だけが良くなってる」


広場が静まり返った。


その時、小屋の方から、ニコの声がした。


「獣医さん! ばあさんが、立ったよ!」


人垣が割れた。


ニコがヤギを連れて、広場へ歩いてくる。ばあさんは四本の脚をふらふらと震わせながら、それでも、自分の足で歩いていた。

昨夜、息が止まりかけた、あのヤギだった。


「昨日の夜、息が止まりかけたんです」


カイは静かに言った。


「でも、助かった。麦わらを食べ始めて、毒を吸う炭を飲んで、体が戻ろうとしている。まだ、時間はかかりますが」


「ばあさん……」


誰かが涙声で呼んだ。老いたヤギは、ゆっくりと呼んだ人の方へ首を向けた。


ヨハンが人垣の前に歩み出た。


組んでいた腕をほどく。そして、ばあさんの首にそっと手を置いた。


「……この子は、俺の親父が、子の頃から飼っていた魔獣の孫にあたる」


誰にともなく、ぽつりと言った。


「処分の札を、俺が自分で書いた。何もできなかった」


「村長」


「あんたの見立ては正しかった」


ヨハンは、カイをまっすぐに見た。


「二群の六頭にも、今すぐ餌を替えてくれ。村の麦わらは、ありったけ出す」


「はい」


カイは深くうなずいた。


メルツが咳払いをした。


「規則に従い、執行は保留とする。理由は、診察の結果が、処分の必要を否定しているためだ」


眼鏡を指で押し上げた。


「ただし、これは私の裁量の範囲内に限る。正式な決着は、報告書の提出後だ」


「ありがとうございます」


「礼はまだ早い」


メルツは、わずかに口の端を上げた。それは、笑みとも呼べないほど小さな動きだった。


広場にざわめきが戻った。今度は安堵のざわめきだった。


ニコがばあさんの首に、ぎゅっと抱きついた。ばあさんは、迷惑そうに耳を振った。

その様子に、誰かがくすりと笑った。やがて、笑いが広場中に広がった。


肩の上で、ルカがぷるると喉を鳴らした。


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