祠
祠は村の一番奥にあった。
畑の端を過ぎて、細い獣道を上る。木立の間に苔むした石の小屋が、ひっそりと立っていた。
屋根には枯れ葉が積もり、入口には蔓が垂れている。
「ここ、だよね」
カイはランプをかざした。ルカは、もう入口の前に座っていた。小さな尻尾を、ゆっくりと揺らしている。
「待って」
背後から息を切らす声がした。
「獣医さん! どこ行くの!」
ニコだった。寝巻きの上に上着を羽織って、裸足に靴をつっかけている。
「ニコ君。寝ていなさいと言ったのに」
「だってルカと一緒に、出ていくのが見えたから」
少年はぜえぜえと息をついた。それから、祠を見上げてごくりと唾を飲んだ。
「ここ、誰も来ないんだよ。母さんが、近づいちゃいけないって」
「どうして」
「分かんない。昔から、そうなんだ」
「じゃあ、君は外で待っていて。僕が見てくるから」
「やだ。ぼくも行く」
ニコはカイの袖をつかんだ。小さな手が震えていた。それでも、離そうとしなかった。
カイは苦笑した。
「分かった。離れないで」
蔓をかき分けて、石の扉を押した。きいと重い音を立てて、扉が内側に開く。
埃と湿った石の匂いがした。ランプの光が、狭い室内を照らした。
何もない、がらんとした部屋だった。床は土。壁は石。正面の壁に大きな平らな石板が、はめ込まれている。
その石板に、何かが刻まれていた。
「……これは」
カイは一歩、近づいた。
石板の中央に、丸い輪が彫られている。輪の内側には、小さな翼を広げたような模様。
見覚えがあった。
胸元の聴診器をそっと外す。集音部の縁に、ランプの光を斜めから当てた。細い線が浮かび上がる。
輪の形。その内側の、翼のような模様。
「同じだ」
声がかすれた。
「ぴったり、同じだ」
「何が?」
ニコが不思議そうに聞いた。
「この聴診器に、同じ印があるんだ。守りの輪、と呼ばれているらしい」
「守りの、輪」
「うん」
カイは石板をさらに見つめた。輪の下に、小さな絵が彫られている。
一人の人物が膝をついていた。首から丸いものを下げている。その丸いものを、横たわる四つ足の獣の脇腹に当てている。
獣の周りには、他の獣たちが寄り添っていた。
(聴診器を、当てている)
百年以上前の話だと、バーサは言った。旅の者が、魔獣の腹に耳を当てた。変な道具を首に下げて。
その人物は、確かにこの村に来たのだ。
石板の下の方に、文字が刻まれていた。苔に覆われて、半分以上は読めない。カイは、指で苔をそっとこすり落とした。
『声なき者の鼓動を聴け』
その一行だけが、はっきりと読めた。
「声なき者の鼓動を」
カイは小さくつぶやいた。
魔獣は言葉を話さない。痛くても、苦しくても、訴えられない。だから、体の音を聴く。脈を、呼吸を、心音を。
それはカイが前の世界で、毎日やってきたことだった。
(同じことを、この世界でも、誰かが)
胸の奥がじんと熱くなった。
「ぷる」
足元でルカが鳴いた。
ルカは石板の前に座っていた。金色の瞳で、輪の模様をじっと見上げている。
そして、ゆっくりと首を伸ばして鼻先を石に触れさせた。
何も起きなかった。
聴診器が光ることも、石板が動くこともない。ただ、小さな竜が古い石にそっと鼻を寄せているだけだった。
けれど、その姿はどこか祈りに似ていた。
「ルカ。これを、見せたかったのかい」
「ぷる」
ルカはカイを振り返った。それから、石板の一番下を前脚でちょんちょんと叩いた。
カイはしゃがんで、ランプを近づけた。
石板の最下部に、小さな絵が彫られていた。山の形。三つの峰が並んでいる。その真ん中の峰の麓に、小さな丸が一つ。
輪の形をしていた。
「山と、輪」
「北の山だよ」
ニコが、後ろからのぞき込んで言った。
「あの三つの山。ぼくの村から見える一番高い山だ。『三つ角』って、呼んでる」
「三つ角」
昼間、ルカがずっと見つめていた、青い稜線。あれがこの絵の山なのだ。雲居山とは別の峰だが、同じ北の山並みに連なっている。
(ルカは最初から、これを知っていた?)
考えても答えは出なかった。けれど、一つだけはっきりしたことがあった。
聴診器の印は偶然ではない。この世界のどこかに、同じ印を持つ者たちがいた。そして、その場所は北の山の麓にある。
「獣医さん」
ニコが袖を引いた。
「ぼく、聞いたことがあるよ。母さんが言ってた。昔、山の向こうに、不思議な人たちが住んでたって」
「不思議な人たち?」
「魔獣と、話せる人たち。でも、いつの間にかいなくなったって」
魔獣と話せる人たち。
カイは、石板に刻まれた輪を見つめた。それから、静かに首を横に振った。
(話せるんじゃない。聴いていたんだ)
声なき者の鼓動を。
その時、ルカがはっと顔を上げた。耳がぴんと立った。祠の外へ鋭い視線を向ける。
「ルカ?」
次の瞬間、遠くから、声が聞こえた。
「……獣医さん! どこだ! 獣医さんはいるか!」
男の声だった。必死に叫んでいる。
「あれは小屋の方だ」
ニコの顔がさっと青ざめた。
カイは、聴診器を首にかけ直した。ランプを握って、祠の外へ駆け出した。
「ニコ君、来い!」
「うん!」
暗い獣道を転がるように下る。畑の向こうに小屋のランプの灯りが、ちらちらと揺れていた。
小屋の前で村の若い男が、大きく手を振っていた。
「獣医さん! 来てくれ! あの、ばあさんヤギが!」
カイの足が止まりかけた。
「ばあさんが、息をしていないんだ!」




