メルツの条件
夜の村長の家は、暖炉の火だけが明るかった。
ヨハンの家の客間に、メルツが通されていた。机の上に灰色の外套と、眼鏡が置かれている。
カイは扉の前で立ち止まった。
「入りたまえ」
中から声がした。カイは一礼して部屋に入った。
メルツは書類を広げていた。眼鏡のない顔は、思っていたよりずっと疲れて見えた。
「話は聞こう。三日前から診察をしていたそうだな」
「はい。十二頭すべてを診ました」
カイは板の束を机に置いた。炭で書いた記録が、びっしりと並んでいる。
「原因は、感染症ではありません。湿った干し草がカビて、その毒が肝臓を傷めています。餌を替えれば、回復する可能性があります」
「可能性」
「はい。三日間、六頭の餌を替えました。残りの六頭は、そのままです。差が出ています」
メルツは板を一枚手に取った。目を走らせる。体温。食欲。便の状態。日ごとの変化。
しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……整っているな」
「え?」
「記録の書き方だ。日付、時刻、観察項目、処置。あの少女の板と同じ癖がある」
「リナのことですか」
「そうだ」
メルツは板を置いた。
「アルム村の件は、報告書に書いた。あの診察は適切だった。私は、見たままを書いた」
「ありがとうございます」
「礼は要らん。それより、これを見ろ」
メルツは、一枚の命令書を差し出した。地方管理局の印。日付は二か月前だった。
そこにはこう書かれていた。
『北の街道沿いの各村において、病の疑いのある魔獣は、巡察の上、速やかに処分すること。診察の有無を問わず』
「診察の有無を、問わず」
「そうだ。付記が採択される前に、出された命令だ。形の上では有効だ」
「でも、付記は局の正式な規則です。地方の命令より、上のはずです」
「その通りだ」
メルツはゆっくりうなずいた。
「だから、面倒なのだ。私が規則に従えば、この命令書に背く。命令書に従えば規則に背く。どちらを選んでも、誰かに咎められる」
カイは息をのんだ。この男が迷っているのを、初めて見た気がした。
「メルツさんは、どちらを選ぶんですか」
「それを、聞きに来たのではないのか」
「いえ。聞きたいのは、条件です。どうすれば、処分を止められますか」
メルツは眼鏡を取って、指で目頭を押さえた。
「……明朝、日が昇ってから、私と村人の前で示せ」
「何を」
「餌を替えた群れと、替えなかった群れ。その差を、誰の目にも分かる形で見せることだ。示せたなら、私の裁量で、執行を一日保留にする」
「一日」
「それ以上は、私の権限にない。それ以上を望むなら、局長宛ての報告で、決着をつけてもらうしかない」
「分かりました」
カイはまっすぐに答えた。
「示せなければ」
「執行する。予定どおりに」
沈黙が落ちた。暖炉の薪がぱちんと弾けた。
「……なぜ」
カイは思わず聞いていた。
「なぜ、僕に有利な条件を出してくれるんですか」
メルツは答えなかった。しばらく、火を見つめていた。
「あの少女は」
やがて、低い声が言った。
「リナ、といったな。あの子は、私に向かって言った。見殺しにするという命令は受け取っていない、と」
「はい。聞きました」
「あの時、私は思った。私の仕事は、命令を運ぶことだ。だが、命令の先に何があるかは考えていなかった」
眼鏡をかけ直す。
「それだけだ。借りを返しているだけだ」
メルツは、再び書類に目を落とした。話は終わりだ、という合図だった。
カイは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、示します」
部屋を出ると、廊下の暗がりに人影があった。
ヨハンだった。腕を組んで壁にもたれている。
「聞いていたんですか」
「……聞こえただけだ」
ヨハンはむっつりと言った。
「あんたの見立てが外れたら、十二頭は明朝、いなくなる」
「はい」
「それでも、やるのか」
「やります」
ヨハンはカイの顔をじっと見た。それから、ふいと顔をそむけた。
「……好きにしろ。だが、一つ言っておく」
「何でしょう」
「村の者は、あんたを信じていない。ニコだけだ。信じるのは」
「それで十分です」
カイは小さく笑った。
「一人でも信じてくれる人がいれば、前に進めます」
ヨハンは何も言わなかった。ただ、廊下の奥へ、足を引きずるように去っていった。
* * *
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
星が、びっしりと空に散らばっている。村の屋根の向こうに、青黒い山の影がそびえていた。
カイは肩の上で身じろぎするルカに、小さく話しかけた。
「明日が、勝負だ」
「ぷる」
答えるようにルカが鳴いた。それから、ふいにカイの外套の襟をくいくいと引っ張った。
「どうした、ルカ」
ルカは、カイの肩から飛び降りた。そして、村の奥の方へぱたぱたと走り出した。
ニコが言った。「誰もお参りには行かない」とバーサが言った、あの祠の方角だった。
「待って、ルカ。どこへ行くんだ」
ルカは、立ち止まって振り返った。金色の瞳が、闇の中で小さく光った。
そして、もう一度、「ぷる」と鳴いた。
ついてこい。そう言っているように見えた。
カイは少しだけ迷った。群れの様子を、見に戻らなければならない。けれど、ルカがこんなふうに自分を導くのは初めてだった。
(……少しだけ)
ランプを手に取る。カイはルカの後を追って、暗い村の奥へと歩き出した。




