三日の猶予
その夜、カイは眠らなかった。
村の外れの、空いた小屋を借りた。十二頭のうち六頭をそこへ移した。残りの六頭は、元の柵に置いたままだ。
カイは板の上に、二つの列を書いた。
『一群 干し草を止める。麦わらと乾いた牧草、炭』
『二群 干し草のまま。炭のみ』
どちらがどの子か、取り違えないように、足に色の違う布を巻いた。一群が青。二群が赤。
「ぼく、青の子のところを見る」
ニコが胸を張って言った。目は赤く、まぶたが重そうだった。
「君は寝なさい。明日の朝、また見てもらうから」
「でも、メイが」
「メイは僕が見ているよ。寝る前に、ミルクはあげたよね」
「うん。ちゃんと、二時間おきに」
「えらいな。それなら、あとは任せて」
ニコは、しぶしぶ小屋の隅の藁に潜り込んだ。数分で寝息が聞こえてきた。
カイはランプの灯りで一頭ずつ、様子を見て回った。呼吸。体温。糞の状態。
ルカは梁の上で丸くなって、時々こちらを見下ろしていた。
真夜中近く、小屋の扉が静かに開いた。
「……まだ、起きておったのかね」
しわがれた声だった。
入ってきたのは、背の曲がった老婆だった。毛皮の外套に、杖。頭に巻いた布の下から、白い眉がのぞいている。
手に、湯気の立つ小さな鍋を提げていた。
「あなたは」
「バーサという。羊飼いさ。山の放牧地から、さっき降りてきた」
老婆は鍋を床に置いた。
「ニコから聞いたよ。あんたが、獣医さんかい」
「カイと言います」
「ほう。変わった名前だ」
バーサは、小屋の中をじろりと見回した。梁の上のルカを見て、ふっと口の端を上げる。
「あれが竜かい。ずいぶん、かわいらしい」
「怖くはないですか」
「怖がることがあるかい。わしは、この年まで山で暮らしてる。熊も狼も見てきた。竜の子の一匹くらい」
老婆はからからと笑った。それから、鍋の蓋を取った。
「あんたに、持ってきたんだよ。薬草の汁だ。腹をこわした魔獣によく効く」
「ありがとうございます。でも、今は餌を比べる試験をしています。薬は、同じにしておかないと」
「ほう。そうかい」
バーサは、感心したように目を細めた。
「ちゃんと、考えてるんだね。若いのに」
老婆は杖を支えにして、床に腰を下ろした。
「干し草が悪いと言ったそうだね」
「はい。カビの毒だと考えています」
「腐れ穂、さ」
その言葉に、カイは顔を上げた。
「腐れ穂?」
「古い言い伝えだよ。わしの婆さんから聞いた」
バーサは、遠くを見るような目をした。
「雨の多い年に、草が腐る。白い粉が、穂に付く。それを食べさせると、魔獣が痩せて、乳が出なくなって子を流す。ひどい年には、群れごと消えた」
「消えた?」
「そうさ。死んだんだよ。でも昔の人は、魔獣が山に呼ばれたと言った。病気だとは、思わなかった」
老婆は、杖の先で床をとんとんと叩いた。
「だが、その話には続きがある」
「続き」
「ある年に、旅の者が来て、言ったそうだ。『干し草が悪い。捨てなさい』と。その人は、魔獣の腹に耳を当てて、病を聞き分けたと言う」
カイの手が止まった。
「耳を当てて」
「そうさ。変な道具を、首にぶら下げてな。村の者は、気味悪がって追い出した。でも、その年、その人の言う通りにした家の魔獣だけが助かったと」
「……その人は、どこから来たんですか」
「さあね。もう百年以上前の話だ。婆さんも、聞いた話だと言っていた」
バーサは肩をすくめた。
「ただ、不思議なことがあってね。その旅の者が泊まった祠がまだ残ってる。村の、一番奥。誰も、お参りには行かないが」
「祠」
カイの胸がどくんと鳴った。
(首にぶら下げた、変な道具)
無意識に、手が聴診器に触れていた。
バーサはその手元を見て目を細めた。
「ああ。あんたも、持っているのかい」
「……これは」
「いや。何も聞かんよ。わしには、関係のないことだ」
老婆は立ち上がった。杖をついて扉へ向かう。
「だがね、獣医さん。わしは、あんたの話が本当だと思う」
「バーサさん」
「山の群れは、あの干し草を食べていない。だから、元気だ。それが答えさ」
老婆はそう言って、闇の中へ消えていった。
扉が閉まる。カイはしばらく動けなかった。
梁の上でルカが「ぷる」と鳴いた。その瞳が、確かに村の奥を見ていた。
* * *
翌日、翌々日と、カイは寝る間を惜しんで世話をした。
一群の魔獣たちは、少しずつ食欲を取り戻していた。麦わらをゆっくりと噛む。炭を混ぜた水を飲み込む。
便の色が薄い黄色から、茶色に変わってきた。
けれど、全員が良くなったわけではなかった。
「ばあさん」と呼ばれた老いたヤギは、二日目の夜から、立てなくなった。
「どうして。ばあさんは、青の子なのに」
ニコが泣きそうな声で言った。
「毒が溜まりすぎていたんだ。餌を替えても、すぐには良くならない」
カイはヤギの首に手を当てた。脈は、弱い。熱はない。けれど、動こうとしない。
「ごめんね。必ず、助ける」
「二群は」
「見てみよう」
隣の小屋に行くと、赤い布の子たちは、さらに痩せていた。目の黄色みが濃くなっている。
一頭は、横になったまま起き上がらなかった。
(差は出ている。でも)
比較の結果は、まだはっきり形にならなかった。三日では、短すぎるのかもしれない。
(あと、一日)
四日目に巡察の役人が来る。それまでに誰の目にも明らかな差を、見せなければならない。
三日目の夕方だった。
村の入口が騒がしくなった。
「馬だ! 馬が来たぞ!」
子どもの叫ぶ声。カイは手を止めて外に出た。
夕日の中、三頭の馬が、村の坂を上ってきていた。先頭に灰色の外套の男。痩せて眼鏡をかけている。
後ろに兵が二人。槍を持っていた。
(まさか)
カイは息をのんだ。見覚えのある顔だった。
男は馬から降りた。村人たちが、遠巻きに集まってくる。ヨハンも、人垣の中から出てきた。
「ホロ村の村長か」
「は、はい」
「地方管理局書記官、メルツだ。通達に基づき、巡察に来た」
メルツは冷たい声で言った。それから、人垣の奥に立つカイに気づいた。眼鏡の奥の目が、わずかに見開かれた。
「……カイ殿。なぜ、ここに」
「呼ばれたので。診察を、していました」
「そうか」
メルツは、ほんの一瞬だけ黙った。それから、ヨハンに向き直った。
「予定を早めた。他の村の巡察が、先に終わったのでな」
「は、はあ。ですが、まだ」
「処分の対象は、柵の十二頭で間違いないな」
「はい」
メルツは柵を一瞥した。赤い札が夕風に揺れている。
「規則に従い、明朝、執行する」
カイの背筋が凍りついた。
「待ってください。まだ、試験の途中です」
「試験?」
「三日で結果を出すと、村長と約束しました。明日の朝までには」
「明日の朝に執行すると言っている」
メルツは、眼鏡を指で押し上げた。その顔には、何の表情もなかった。
「私も、貴殿には借りがある。だが、命令は命令だ」
夕日が、メルツの眼鏡に反射した。カイは拳を握りしめた。
(あと一晩しかない)




