ホロ村の依頼
ヤルン宿を出てから、半日。
街道は、なだらかな丘の間を縫って続いていた。道の両側には刈り入れの終わった畑と白い岩。遠くに青い山の稜線が見える。
ルカはカイの肩で、その稜線をじっと見つめていた。
「あれが、気になるのかい」
「ぷる」
答えるように、ルカが小さく鳴いた。
昼を過ぎたころ、丘の向こうに屋根が見えてきた。石積みの家が三十ほど。煙突から細い煙が上がっている。
けれど、村に近づくにつれてカイは違和感を覚えた。
静かすぎる。
放牧地に、魔獣の姿がほとんどない。柵の中は空っぽで、わずかに数頭が、ぼんやりと座り込んでいるだけだった。
畑で働く人々が、手を止めてこちらを見る。その目は疑うようで、どこか怯えていた。
「獣医さん!」
道の向こうから、小さな影が駆けてきた。
十歳ほどの、日に焼けた少年だった。髪はぼさぼさで、袖が擦り切れている。息を切らして、カイの前で止まった。
「獣医の、カイさんですか」
「そうだよ。君が、手紙をくれたのかな」
「うん。ニコ。ぼくが書いたんだ」
少年は、ほっとしたように顔をくしゃりとゆがめた。
「ほんとに、来てくれた。みんな、来ないって言ってたのに」
「手紙をもらったからね。行くと決めたんだ」
カイは膝をついて、目線を合わせた。
「どの子が、お腹をこわしてるんだい」
「メイ。こっち。早く」
ニコがカイの袖を引いた。ルカを見て目を丸くする。
「それ、竜?」
「ルカ。僕の仲間だよ。怖くないから」
「ふうん」
ニコは、珍しそうにルカを眺めた。けれど、すぐに首を振ってまた歩き出した。ルカよりも、メイのことで頭がいっぱいなのだ。
村の外れの小屋に、ニコは走って入っていった。藁の山のそばに、小さな影が横たわっている。
子ヤギに似た魔獣だった。体は猫より少し大きいくらい。額に小さな角の芽。白かったはずの毛が、泥と糞で汚れている。
目は半分閉じていた。
「メイ」
ニコが声をかけると、子ヤギは耳をぴくりと動かした。
「三日前から、水みたいなフンをするんだ。何も食べないし、ミルクも飲まない」
カイは子ヤギのそばに、そっと膝をついた。
(痩せている。軽い脱水もある)
首の皮をつまんで、離す。戻るのが少し遅い。歯茎を見ると色は悪くない。熱を測るために耳に指を当てた。熱くはない。
聴診器を腹に当てると、ぐるぐると水の音がした。
「ニコ君。メイは、何を食べてたかな」
「母さんヤギのお乳と、あとは干し草。ちょっとだけ」
「お乳をくれる母さんヤギは、どこ?」
ニコの顔が曇った。
「向こうの柵にいる。でも、母さんも具合が悪いんだ。お乳が、全然出なくなって」
(母親も、不調)
カイは、胸の奥に何かが引っかかるのを感じた。けれど、今は目の前の子を助けるのが先だった。
「まず、水分を足そう。お湯を沸かしてもらえるかな。塩と蜂蜜も」
「うん!」
ニコが飛び出していく。戻ってきた時には、湯の入った鍋と、小さな袋を抱えていた。
カイは湯冷ましに、ほんの少しの塩と蜂蜜を溶かした。体温に近い温かさまで冷ます。
それをスプーンの先で、少しずつ口元に運んだ。
「飲んで、メイ。ゆっくりでいい」
子ヤギは嫌がったが、やがて舌が動いた。こくり、と飲み込む。
「飲んだ!」
「少しずつ、何度も与えるんだ。一度にたくさんは入れない。夜も二時間おきに」
「ぼく、やる。絶対やる」
ニコは大きくうなずいた。小さな手を握りしめていた。
その時、小屋の入口に大きな影が差した。
「ニコ。何をしている」
低い声だった。
振り向くと五十がらみの、背の高い男が立っていた。日焼けした顔に深い皺。灰色の髭を短く刈っている。
後ろに、村の男が二人ついていた。
「村長」
ニコがはっと立ち上がった。
「その人は、誰だ」
「獣医さん。ぼくが、手紙で呼んだんだ」
「手紙?」
村長は、ゆっくりとカイに視線を移した。
「ホロ村の村長、ヨハンだ。あんたがそうか」
「アルム村のカイです。魔獣管理局の、巡回獣医官をしています」
カイは書状を見せた。ヨハンは、一瞥しただけで返した。
「悪いが必要ない。お引き取り願おう」
「村長!」
ニコが叫んだ。けれど、ヨハンは動じなかった。
「うちの魔獣は、もう駄目だ。診ても無駄だ。それより、あんたに病が移ったらこっちが困る」
「病気が、移るかどうか。それは、診てからでなければ分かりません」
カイは静かに言った。
「ニコ君が、僕を呼びました。僕は、来た。せめて子ヤギ一頭でも、診させてください」
ヨハンはしばらく黙っていた。それから、顎で外を指した。
「……見ろ」
小屋の外へ出た。
村の端に、粗末な柵が組まれていた。その中に、魔獣たちが固まっていた。ヤギに似たもの。羊に似たもの。毛の長い、牛型のもの。
数えると十二頭。どの子も痩せて、背を丸めている。
そして柵の一頭ごとに、木の札がぶら下がっていた。
赤い墨で短く書いてある。
『処分』
「……これは」
「管理局の規則だ。病気の魔獣は、広がる前に始末する。巡察の役人が、四日後に来る。それまでに、準備を済ませておけと言われた」
ヨハンの声は乾いていた。
「村の暮らしは、魔獣の乳と毛で立っている。それが半分になった。残りを守るにはこれしかない」
「村長は、それで良いと思っているんですか」
カイが聞くと、ヨハンの眉がわずかに動いた。
「良いも悪いもない。村を守るのが、俺の務めだ」
ニコがうつむいた。小さな肩が震えている。
カイは柵の中の魔獣たちを、じっと見つめた。
痩せた背。力のない目。けれど、どの子も誰かに必死に世話をされた跡があった。毛が丁寧に梳かれている。
水桶がきれいに洗われている。
この村の人々は、見捨てているわけではない。ただ、他に方法を知らないのだ。
(診てから、決める)
胸の奥で、いつもの言葉を唱えた。
「ヨハンさん」
「何だ」
「巡察は、四日後でしたね。それまでに、僕に診させてください」
「無駄だと言っている」
「規則には、処分の前に診察を経る、という付記があります。局の新しい運用です。巡察の役人も、それを無視はできません」
ヨハンは眉を寄せた。
「……そんな話は聞いていない」
「辺境の村には、まだ届いていないのかもしれません。ですが本当です。診た結果、処分が必要だと判断すれば、僕も反対はしません」
カイは、まっすぐにヨハンを見た。
「四日間。それで、答えを出します」
ヨハンは長い間、何も言わなかった。風が柵の札を揺らして、かたかたと音を立てた。
「……日が暮れるまでに、見ろ」
「ありがとうございます」
「ただし、変なことをしたら、すぐに追い出す」
ヨハンはそれだけ言って、きびすを返した。後ろの男たちが、ちらりとカイを見て去っていく。
ニコが、カイの袖をぎゅっと握った。
「ありがとう、獣医さん」
「お礼はまだ早いよ」
カイはニコの頭に、そっと手を置いた。
肩の上でルカが低く、喉を鳴らしていた。柵の向こうの、村の奥。干し草の小屋が並ぶあたりを、じっと見つめながら。




