膨らんだ牛
出発の朝は薄い霧が出ていた。
カイは診察鞄を肩にかけて、診療所の前に立った。
背負い袋にはミレーヌの薬草。ドルンが仕立て直した細い管の道具。胸元には、聴診器と、母竜の鱗を入れた革のケースがある。
「本当に、お一人で大丈夫ですか」
リナが、まだ少し心配そうに言った。
「一人じゃないよ」
カイの肩でルカが「ぷる」と鳴いた。
昨日、ルカは診療所の屋根から降りようとしなかった。ところがカイが荷造りを始めると、ひらりと降りてきた。
そして鞄の上に、でんと座り込んだ。どかそうとしても動かない。
「ついてくる気だね、この子は」
ミレーヌがそう言って、それで決まったのだった。
「ルカさん。先生を、お願いしますね」
「ぷる!」
「えらそうな返事をするんじゃないよ」
ミレーヌが鼻を鳴らした。その横でソラがきゃんと鳴く。自分もついていくと言いたげだった。
「ソラは、リナと留守番だ」
「きゃん……」
「すぐ帰るよ。診療所を頼む」
カイはリナの頭に、ぽんと手を置いた。リナは、ぎゅっと唇を結んでうなずいた。
「いってらっしゃい、カイさん。手紙、書きますから」
「僕も書くよ」
乗合馬車の窓から、手を振るリナが見えなくなるまで見ていた。
* * *
北の街道を、馬車は一日半かけて進んだ。
ホロ村はその先にある。馬車が通じるのは、途中のヤルン宿までだった。そこから先は歩きになる。
ルカは窓枠にとまって、流れる景色をじっと見ていた。時おり北の空へ首を伸ばす。
(北に何かあるのか)
聞いてもルカは「ぷる」と答えるだけだった。
夕方に、馬車はヤルン宿に着いた。街道沿いの、小さな宿場町だ。石畳の広場に、旅人と荷車が集まっている。
その広場の隅が、ざわついていた。
「どけどけ! 暴れるぞ!」
人垣の中心に、一頭の牛が立っていた。
灰褐色の大きな牛だった。荷車につながれたまま、四本の脚を突っ張っている。
その左の腹が、異様に膨らんでいた。まるで、太鼓を詰め込んだようだった。
「もう駄目だ。毒草を食ったんだ」
小太りの男が頭を抱えていた。荷車の持ち主らしい。
「槍の兵さん。頼む。せめて、苦しませずにやってやってくれ」
「待ってください」
カイは人垣を押し分けた。
「その子を、診させてください」
「あんたは」
「獣医です。魔獣管理局の任命状もあります」
カイは鞄から、巻いた書状を出した。局長の署名を見て、槍を持った宿場の兵が目を丸くする。
「……巡回獣医官? 本当か」
「処分の前に診察を経ること。その規則は、聞いていますか」
「いや、聞いてはいるが」
「なら、少しだけ時間をください」
カイは牛に近づいた。鼻息が荒い。舌がだらりと出て、口の端からよだれが垂れている。
左の腹に手を当てた。
ぱん、と張っていた。指ではじくとぽん、ぽんと太鼓のような音がした。
(ガスだ。胃にガスが溜まっている)
牛の胃は人のそれとは違う。大きな第一胃で、草を発酵させる。その時に出るガスは普通なら、げっぷで逃げていく。
ところがガスが多すぎると逃げ場を失う。腹が膨らんで、肺と心臓を圧迫する。放っておけば窒息する。
「鼓脹症です。毒じゃありません」
「こちょう?」
「胃にガスが詰まる病気です。今朝は何を食べさせましたか」
「え、ええと」
男は慌てて答えた。
「この先の牧場で、青草をたっぷり食わせた。露に濡れた柔らかい豆草を腹いっぱい」
「それです」
カイはうなずいた。若くて湿った豆科の草は、胃の中で泡を作りやすい。泡がガスを閉じ込めて、出口をふさいでしまう。
「時間がありません。今から、ガスを抜きます」
診察鞄から、ドルンが作った細い管を取り出した。長さは腕ほど。先が丸く磨かれている。
「宿の主人はいますか」
「わ、わしだが」
髭の男が人垣から顔を出した。
「食用の油を、碗に一杯ください。それと、牛の口を開けておく棒を」
「油? 何に使う」
「泡を消すんです。急いで」
主人が走っていく。その間に、カイは牛の頭を持つ男たちに指示した。
「しっかり押さえてください。口を開けて、管を入れます」
牛の舌をつかんで、口の奥へ管をそっと滑らせた。喉の奥で、牛が嫌がって首を振る。
「ごめん。もう少しだ」
管が、ゆっくりと食道に入っていく。手に伝わる感触で、位置を確かめた。気管ではない。胃に向かっている。
その時だった。
しゅううっ。
管の端から、生臭い空気が噴き出した。
「うわっ」
周りの男たちが、思わず顔をそむけた。ルカがカイの肩でくしゃん、とくしゃみをした。
「出てる! 腹がへこんでいくぞ!」
「まだです。泡が残っている」
主人が、油の碗を持って戻ってきた。カイはそれを、管の端から少しずつ流し込んだ。
油が胃に届くと、泡がじわじわと崩れていく。
しゅう、しゅう、と。
ガスの音が長く続いた。やがて牛の腹が、元の形に戻っていった。
荒かった呼吸が静かになる。牛はふうっと長い息を吐いた。
「……立ってる」
誰かがつぶやいた。牛は四本の脚で、しっかりと地面を踏んでいた。そして大きな舌で、カイの手の甲をべろりと舐めた。
「助かりました。もう大丈夫です」
広場がしんと静まった。それから、わっと歓声が上がった。
「助けやがった!」
「毒じゃなかったのか!」
荷車の持ち主が、地面にへたり込んで泣き出した。
「ありがとう。ありがとうございます。俺は、この牛を殺すところだった」
「今夜は、柔らかい草を食べさせないでください。乾いた藁を少しだけ。それと、朝の露が乾いてから草を与えるようにしてください」
「はい。はい」
カイは管を布で拭いて鞄に収めた。ほっと息をつく。これが巡回獣医官としての、最初の診察だった。
「……あの」
背後から、小さな声がした。
振り向くと、人垣の隙間から、七つか八つくらいの女の子が顔を出していた。目が、カイの肩に釘づけになっている。
「その肩のは、何?」
カイははっとした。
ルカが肩の上で小さな翼を広げたまま固まっていた。金色の鱗が、夕日にきらきらと光っている。
広場のあちこちから、ひそひそ声が聞こえ始めた。
「あれ、竜じゃないか」
「竜だ。竜を連れてる」
槍を持った兵の手が、ゆっくりと持ち上がった。




