巡回診察の朝
二日後の夕方、馬車はアルム村の入口に着いた。
窓の外に、見慣れた石の壁と緩やかな坂が見える。畑の麦はすっかり刈り取られて、黄金色の藁の束になっていた。
秋の空は高く澄んでいる。
「帰ってきたねえ」
ミレーヌが窓の外を眺めて、ぽつりと言った。ガルドは、グレイの背を撫でている。ドルンは相変わらず、黙って外を見ていた。
「ええ。……帰ってきました」
カイは胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。たった一か月足らず。それなのに、何年も離れていたような気がした。
馬車が止まる。扉を開けて降りると、診療所の前に小さな人影が立っていた。
首に木製の聴診器。腕に小さな青い毛玉。
「リナ」
「……おかえりなさい、カイさん」
リナははにかむように笑った。少しだけ背が伸びた気がする。
ソラが、腕の中から飛び出して、きゃんと鳴きながらカイの足元を走り回った。
「ただいま。診療所を守ってくれてありがとう」
「いえ。みんなが、助けてくれましたから」
リナは少しだけ俯いて、それから顔を上げた。
「手紙、全部読みました。ホープの時のことも、書いてくださって」
「うん。君が一人で診て、迷って人を呼んだ。全部、正しかったよ」
「えへへ」
リナの目に涙が浮かんだ。慌てて袖でぬぐう。
「あの、カイさん。これからは先生って、呼んだ方がいいですか」
「え?」
「トム君が、『リナ姉ちゃんも先生って呼ばなきゃ』って言うんです」
カイは思わず笑ってしまった。
「今まで通りでいいよ。カイさんの方が僕は好きだな」
「じゃあ、カイさんで」
リナは嬉しそうに笑った。
その後ろから、村人たちがわっと集まってきた。
ハンスが大きな手でカイの背中を叩き、トムが「カイ先生!」と叫んで飛びついてくる。
ミレーヌの顔を見るなり、誰かが「婆さんも無事で何よりだ」と言って笑った。
「ホープも元気だぞ」
ハンスが柵の向こうを指した。白と茶色の斑の子牛が、元気に走り回っている。
「ホープ!」
カイが呼ぶと、子牛はぶんと尻尾を振って駆け寄ってきた。
「すっかり、元気ですね」
「リナちゃんのおかげだ。あの子は、大した獣医さんだよ」
ハンスが誇らしげに言った。リナが耳まで赤くなる。
その時、村の入口から、見覚えのある灰色の外套の男が馬に乗って現れた。
「失礼する。診療所の責任者はおられるか」
「メルツさん」
リナが驚いて声を上げた。眼鏡の書記官は馬を降りて、懐から書状を取り出した。
「地方管理局からの通達を、お届けに上がった。先日の停止命令は本日付で取り消された」
「取り消し」
「領都の局長から正式な認可状が届いたのでな。アルム魔獣診療所は、管理局が認める、正規の診療所だ」
メルツは咳払いをして、少し目を逸らした。
「……先日は、失礼した。報告書は、見たままに書いた。いい診察だった」
リナの目に再び、涙が浮かんだ。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
メルツはそっぽを向いた。耳の先が少し赤い。カイはその様子を見てふっと笑った。
* * *
翌朝の診療所は、いつもより早く動き出した。
扉の上には、ドルンが彫った新しい看板が掛かっていた。『アルム魔獣診療所』の文字の下に、小さな板が、一枚足されている。
『巡回獣医官 駐在』
「……いい字だ」
カイが見上げて言うと、ドルンは無言でそっぽを向いた。耳が、赤い。
朝の診察は、リナとカイが並んで行った。最初の患者は、足を引きずるハンスの家の鶏型の魔獣だった。
「リナ、診てみて」
「はい」
リナは手を洗って、魔獣の足をそっと持ち上げた。指で一つずつ、骨と関節をたどっていく。
「熱はありません。腫れもほとんど。……爪の間に、とげが刺さっています」
「どうする?」
「まず、とげを抜いて洗って薬を塗ります。それから、数日、土の乾いた場所で休ませます」
「うん。やってみよう」
リナは鉗子で小さなとげを、慎重につまみ出した。魔獣がくくっと鳴く。傷を洗って軟膏を塗る。
一連の手つきは驚くほど滑らかだった。
(本当に、大きくなった)
カイは胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。最初に会った時は、泣きながら、ソラを抱いていた少女だったのに。
診察が終わるころ、ミレーヌが一通の手紙を持って入ってきた。
「あんた宛てだよ。北の街道の村から」
「北の街道」
カイは手紙を開いた。素朴な字で短く書かれている。
『魔獣の子が、お腹をこわして、困っています。診ていただけないでしょうか』
署名は、見知らぬ村の名前だった。カイは手紙をそっと閉じた。
「巡回獣医官の、初めての依頼ですね」
リナが目を輝かせて言った。
「うん。明日にでも出よう」
「一人で、行くんですか」
「ああ。リナには、診療所を頼みたい」
「はい」
リナはきりっと背筋を伸ばしてうなずいた。それから、小さな声で付け足した。
「……いつか、わたしも、一緒に行けるようになりたいです」
「行けるよ」
カイはまっすぐに答えた。
「リナならきっと」
リナの顔が、ぱっと明るくなった。
その時だった。
診療所の外で、トムの大きな声が響いた。
「大変だ! 空に何かいる!」
全員が外に飛び出した。
秋の青空に、金色の点が一つ。みるみる大きくなって、こちらへ近づいてくる。小さな、透き通った翼。
きらきらと陽光を反射する淡い金色の鱗。
「あれは」
リナが息をのんだ。ソラがきゃんと吠える。
金色の影はぐるりと診療所の上を旋回して、それから、屋根の上にふわりと降り立った。
猫ほどだった体は、少しだけ大きくなっていた。小さな犬ほど。額の角の芽が、一回り伸びている。
金色の瞳が、屋根の上からじっとこちらを見下ろしていた。
「ぷるる」
聞き覚えのある、小さな声だった。
「……ルカ」
カイは呆然とその名を呼んだ。ルカは翼をぱたぱたと動かして、屋根の端まで、とことこと歩いてくる。
そして、カイの胸元の聴診器にじっと視線を向けて、もう一度鳴いた。
「ぷる!」
「ルカ! ルカだ!」
リナが、両手を広げて駆け寄った。ソラが、嬉しそうに屋根の下で飛び跳ねる。
ミレーヌがふんと鼻を鳴らしながら、袖で目元を拭った。ドルンがそっぽを向いた。ガルドが豪快に笑った。
ルカがひらりと屋根から舞い降りて、カイの肩にとまった。小さいけれど確かな温かい重さ。
「おかえり、ルカ」
カイは、そっとその小さな頭を撫でた。ルカは目を細めて、ぷるると喉を鳴らした。
(どうして、戻ってきたんだ)
その疑問に答えはまだなかった。けれど、聴診器の縁の小さな輪が胸元で静かに光を返していた。
空の向こうで、白い雲がゆっくりと流れていく。診療所の窓から、秋の風が柔らかく吹き込んできた。
アルム魔獣診療所の新しい一日が、始まろうとしていた。
(第3章 完)




