診てから、決める
五日後の朝、ミオは自分の足で立った。
白い体がふるふると震えながら、四本の脚で床を踏みしめる。銀色がかった小さな角の芽が、朝日を受けてきらりと光った。
「立った」
レンデルが、両手で口を押さえた。その肩が小さく震えている。
「ミオ、おいで。ゆっくりでいい」
カイが手を差し出すと、ミオは一歩、また一歩と、おぼつかない足取りで近づいてきた。
そして、カイの手のひらに鼻先をちょんと押し当てた。
「よく頑張ったな」
三頭の回復は、少しずつ、確かなものになっていた。眠り蔓の抽出液は五日かけて完全に止めた。木炭とミレーヌの薬草。
毎日の日光浴。栄養のある餌。
風羽鳥のリンは、止まり木の上で自分の翼をぱたぱたと動かすようになった。まだ飛べないが、羽ばたきの力が戻りつつある。
影猫のヨルは、昼間に目を開けて、日向で大きく伸びをした。
「ヨルが、あくびをしました」
レンデルが、ひどく嬉しそうに報告した。目の下のくまは、まだ消えていない。
けれど、顔つきは初めて会った頃より、ずっと穏やかになっていた。
「記録は」
「つけております。体温、食欲、体重、毎日」
レンデルが、分厚い帳面を差し出した。丁寧な字が、びっしりと並んでいる。リナの板を思い出して、カイは小さく笑った。
「いい記録ですね。これからも、お願いします」
「はい」
レンデルは深く頭を下げた。
* * *
その日の午後、魔獣管理局の大会議室で、局の審議が開かれた。
円卓の中央にダリウス局長。両脇に局の幹部たち。グランツ審問官の顔もある。その正面にベルクハイム伯爵が、悠然と座っていた。
カイはヴェルナー、イゼルダと並んで証言席にいた。
「では、審議を始めます」
局長が静かに宣言した。
「議題は、伯爵家の保護施設における、三頭の幻獣の飼育の件。および、三頭の搬送中の死亡、とされていた記録の件。そして、先日の施設への襲撃の件です」
最初にイゼルダが、記録の確認結果を報告した。搬送中に死亡したとされた三頭の生存。それを記録した担当官の聴取結果。
飼料の納入記録。
続いてカイが、三頭の診察と治療の経過を報告した。薬の正体。症状。回復の過程。
「以上が、診察の結果です」
「ふむ」
局長がうなずいた。
「では、伯爵。ご意見を」
伯爵は、ゆっくりと立ち上がった。柔和な笑みを浮かべて、両手を広げる。
「いやはや、実にお恥ずかしい話だ。私は飼育の実務を、すべて飼育係に任せておりました。まさか、そのような薬が使われていようとは」
「伯爵は、ご存じなかったと」
「ええ。何も」
「ではこの書面は、どう説明されますか」
イゼルダが、一枚の紙を円卓の中央に置いた。
『三頭を、速やかに別邸へ移送せよ。余人に知られるな。 B』
鷲の印が赤く押されている。
「ゼルク、という男が持っていたものです。施設を襲撃した際に確保しました」
「ああ。それは」
伯爵は紙をちらりと見た。
「偽造でしょうな。私の名を騙って何者かが」
「印の照合を、行いました」
ヴェルナーが静かに言った。
「審問の際に提出された、黒鱗商会の帳簿の符号。そして、この指示書の印。鷲の形、押し方の癖、紋章の彫りの深さ。すべて一致します」
円卓の空気が冷たくなった。グランツが何か言いかけて口を閉じる。
伯爵はしばらく、紙を見つめていた。そして、ふっと小さく息をついた。
「……なるほど。詰めがお早い」
笑みは消えていなかった。
「よろしい。私は局に対して一つ提案をしたい」
「提案とは」
「当家の保護施設を、局に寄付いたします」
ざわめきが起きた。
「幻獣の飼育は、私の手に余るものでした。専門の機関に、お任せする方がよい。三頭の幻獣とともに、施設をすべて局に譲り渡す。それが、私の償いです」
「償い、ですか」
「ええ。私は収集家として、幻獣を愛するあまり、判断を誤ったのです。お恥ずかしい」
芝居がかった口調だった。それでも、局にとっては悪い提案ではなかった。施設と幻獣が、そのまま手に入る。
伯爵の責任追及は、後回しにできる。
ダリウス局長は、しばらく黙って考えていた。
「……受けましょう」
「局長!」
イゼルダが思わず声を上げた。
「責任の追及は別途、行います」
局長は静かに続けた。
「ただし、施設の管理権は本日付で局に移ります。三頭は、局の保護のもと、獣医官の判断で治療を続ける。そして伯爵、あなたへの聴取は、引き続き行わせていただきます」
局長は、続けた。
「なお、記録を書いた担当官は、本日付で職務を停止します。グランツ審問官。記録の経緯について、あなたにも聴取を行います」
グランツの顔から、血の気が引いた。
「……承知、いたしました」
伯爵は、それを横目に見て、肩をすくめた。
「結構。いつでも、お呼びください」
伯爵は優雅に一礼した。そして、立ち去る前にカイの前で足を止めた。
「獣医官殿」
「はい」
「貴殿は実に、面白い男だ」
穏やかな声だった。けれど、その奥に冷たいものが沈んでいた。
「また、お目にかかる日もあるだろう」
伯爵はそれだけ言って、ゆっくりと会議室を出ていった。扉が閉まる。ヴェルナーが、小さくつぶやいた。
「……逃げ切ったな」
「完全に、ではありません」
イゼルダがきっぱりと言った。
「この記録は、消えません。私が必ず、追います」
* * *
審議の後、カイは局長室に呼ばれた。
ダリウス局長は窓辺に立って、領都の街並みを眺めていた。
「カイ殿。二か月、とのことでしたが、まだ半分も経っておりませんな」
「はい」
「それでも、実績は十分に出ました。荷役の魔獣の診察。蹄の膿瘍。褥瘡。そして、幻獣三頭の救命」
局長は机の上の書類を指先で叩いた。
「もう一つ。こちらも、見ていただきたい」
差し出されたのは、分厚い巻物だった。広げると、名前がびっしりと連なっている。
「これは」
「荷役組合の署名です。親方のオルト殿が、持ってこられた。組合の者、全員。四十二名」
署名の一番上に、太い字でオルト、と書いてあった。
(オルトさん)
カイは胸が熱くなった。あの無愛想な親方が、一人ずつ頭を下げて回ったのだろう。
「約束の三つの条件はすべて満たされました」
局長は静かに言った。
「獣医官の席は、あなたのものです。ただし」
「ただし?」
「あなたは、アルム村の診療所を、離れたくないのでしょう」
カイは息をのんだ。局長は穏やかに笑っていた。
「ヴェルナー君から、聞いています。あなたの本音は村にある、と」
カイは少し黙って、それから、静かに口を開いた。
「……領都に来て分かりました」
「何がですか」
「この街にも診られる子が、たくさんいます。診てもらえずに、苦しんでいる子が。僕は、ここで診たい。でも」
カイは胸元の聴診器にそっと触れた。
「アルム村には、リナがいます。ミレーヌさんもドルンさんもガルドさんも。診療所は、僕の居場所です。どちらかを、選びたくない」
「欲張りですな」
「はい。欲張りです」
カイは少しだけ笑った。
「だから、お願いがあります。獣医官ではなく、巡回する獣医としてお受けしたい。村を拠点にして、領都と各地の村や町を回る。必要なところへ診に行く」
局長は目を細めた。
「巡回獣医官」
「はい」
「前例は、ありませんな」
「前例がないのは、診察室がなかったからです。席を作ってくださったのは局長です。もう一歩だけ、作っていただけませんか」
しばらくの沈黙があった。やがて、局長は声を上げて笑った。
「……面白い。実に面白い」
局長は机の引き出しから、一枚の書状を取り出した。
「巡回獣医官の任命書です。既に、準備しておりました」
「え」
「あなたなら、そう言うと思いましたよ」
局長は書状に署名をして、さらにもう一枚の紙を添えた。
「それから、これも。アルム村の診療所の、正式な認可状です。ずいぶん長い宿題でしたな」
カイは震える手で、二枚の紙を受け取った。
『アルム魔獣診療所 診療を認可する』
その文字がじわりとにじんだ。
「ありがとうございます。……診てから、決める。その通りに、決められました」
「結構。実に、結構」
局長室を出ると、廊下でヴェルナーとイゼルダが待っていた。
「決めたのか」
「はい。巡回獣医官としてお受けしました」
「そうか」
ヴェルナーは短く言った。けれど、その口元はほんの少しだけ上がっていた。
「……村に帰るのか」
「はい。でも、また来ます。何度でも」
「楽しみにしている」
イゼルダが静かに微笑んだ。
カイは診察室に戻って、窓辺に立った。夕日が領都の屋根を赤く染めている。
(診てから、決める)
胸元の聴診器を、そっと握りしめた。縁に刻まれた、小さな輪。その意味はまだ、分からない。
けれど、これから、少しずつ分かっていく気がした。




