聴診器の音
客間の暖炉に、ありったけの薪がくべられた。
ミレーヌが、湯を張った革袋を次々と布で包んでいく。ドルンが、毛布を何枚も運び込む。
カイは、ミオの小さな体を、そっと暖炉の前の寝床に横たえた。
「触ると冷たい。体温が、ひどく下がってる」
「ずっと眠らされて、袋に入れられて、夜の外気に晒されたんだ。弱った体には、こたえるよ」
ミレーヌが、湯の革袋をミオの脇腹に当てた。
「でも、急に熱くしちゃいけない。ゆっくりだ」
「はい」
カイはミオの耳に指を当て、足先をそっと握った。冷たい。手足の先まで、血が回っていない。
(低体温。ショック。それに薬の離脱。重なってる)
悪いことが全部、重なっていた。けれど、一つずつ、手を打つしかない。
前の世界の診察室でも、冷えきった子猫を、こうして夜通し温めたことがあった。あの時は、保温器と輸液のポンプがあった。
ここには、湯の革袋と細い針しかない。けれど、やることは変わらない。
「ドルンさん、湯冷ましに塩と砂糖を。体温より少し温かく」
「分かった」
ドルンがすぐに用意する。カイは細い針を、ミオの背中の皮にそっと刺した。
温めた水分を、ほんの少しずつ、皮の下に流し込んでいく。
「頑張れ、ミオ。もう少しだ」
小さな体は、ぴくりとも動かなかった。
胸の上に聴診器を当てる。銀色の円盤が、白い毛並みの上でひやりと光った。
耳を澄ます。
とく。
間が、空く。
とく……。
(弱い。それに間隔が、乱れてる)
鼓動は、ある。けれど、途切れそうに細く、ばらばらだった。このままでは、止まってしまうかもしれない。
その時だった。
円盤の中心が、ふわりと淡く光った。
「……?」
カイははっと目を見開いた。聴診器が、金色の光を帯び始めている。まるで小さな心臓の音に、呼応するように。
「それは」
ミレーヌが、息をのんだ。
「ルカの時と、同じです」
光はすぐに消えなかった。弱く、ゆっくりと明滅している。ミオの鼓動と、そのまま重なるように。
カイは首から下げた革のケースをそっと開けた。
淡い金色の鱗が、暖炉の火を受けて、ほのかに輝いている。母竜が、贈ってくれたものだった。
(竜は日光から、力を作る)
あの小さな竜が、日光浴で回復していった日々を思い出す。そして、母竜の鱗はいつも不思議なほど温かかった。
(石や湯よりも、優しい温もり)
カイは鱗を柔らかい布に包んで、ミオの胸のそばにそっと置いた。
その瞬間。
聴診器の光が、一段と強くなった。部屋じゅうが、金色の光に満たされる。ミレーヌもドルンも、言葉を失って見つめていた。
光の糸が、聴診器から鱗へ。鱗からミオの胸へ。ゆっくりと、脈打つように往復している。
とく。
とく、とく。
ミオの鼓動が少しずつ揃い始めた。
(整ってきてる)
間隔が短くなる。音がはっきりしてくる。細くて消えそうだった音が、一つまた一つと、確かな力を帯びていく。
「……脈が、強くなってる」
「こりゃあ、いったい……」
ミレーヌが首を振った。
「わしにも分からないよ。ただ、鱗は確かに温かいね。竜の力のこもったものだ。体をじわじわ温めてるのは確かだ」
「はい」
カイは冷静に考えようとした。
(保温と補液が、効いている。鱗の温もりは、石や湯の代わりになる。医療として、説明のつくこと)
けれど、光は。聴診器のあの光だけは、説明がつかなかった。
「獣医官殿」
その時、客間の扉が静かに開いた。イゼルダが、疲れた顔で立っていた。ゼルクの身柄を、兵に預けてきたらしい。
「ミオは」
「持ち直しています。まだ、油断はできませんが」
イゼルダは部屋の中の光景に目を見開いた。聴診器と鱗が放つ、金色の光。
「これは」
言いかけて、イゼルダはふとカイの手元に視線を落とした。
「……その聴診器を、見せていただけますか」
「はい」
カイは聴診器を、そっとイゼルダに渡した。光はすでに、静かに収まっていた。
イゼルダはランプの灯りに、円盤をかざした。
「集音部の縁に」
「縁に?」
「彫りがあります。細かい模様。……見えますか」
カイは顔を近づけた。
銀色の円盤の縁。普段は指に触れても気づかないほどの細い線。
ランプの光を斜めから当てると、確かに小さな刻印が、浮かび上がって見えた。
輪の形。その内側に小さな翼を広げたような、模様。
「これは」
「『守りの輪』です」
イゼルダの声が、わずかに震えていた。
「幻獣保護法の、最も古い写本の表紙に描かれている印です。幻獣を守る者の印と、伝えられています。今では、ほとんど忘れられていますが」
「幻獣を守る者の」
「どうしてこれが、あなたの聴診器に」
カイは首を振った。
「分かりません。ずっと、使ってきたものです。こんな印があるなんて、気づきもしなかった」
そして、胸の奥で小さな声が囁いた。
(前の世界では、こんな印はなかった)
十年以上、毎日握ってきた聴診器だ。縁の形も重さも冷たさも、知り尽くしていたはずだった。
けれど、この模様は見覚えがなかった。
(いつから)
あの日。転生した日。あるいはもっと前。
答えはどこにもなかった。
「……ミオが」
ミレーヌの声に、はっとして振り向く。
暖炉の前の寝床で、ミオが小さく身じろぎをした。長いまつ毛が、ゆっくりと持ち上がる。
銀色がかった瞳が、ぼんやりと天井を映した。
そして、その視線がカイの顔に焦点を結んだ。
「ミオ」
名前を呼ぶと、小さな耳がぴくりと動いた。
それはこれまで、一度も見せなかった反応だった。
カイは涙をこらえて、小さく笑った。
「……おかえり」
窓の外では、夜が少しずつ明けようとしていた。聴診器はイゼルダの手の中で、静かに冷たい銀色に戻っていた。
その縁に刻まれた小さな輪を、朝の光がほのかに照らしていた。




