ひとりの診察
朝いちばんに、リナは診療所の扉を開けて、空気を入れ替えた。
秋の朝の風は少し冷たい。ソラが足元を駆け回って、きゃんと鳴く。作業台の上は、昨日の夜のうちに片付けた。
鉗子も鋏も煮沸して、布の上に並べてある。
壁には、カイが書いてくれた板が掛かっていた。
『ここから先は、一人で診ない。
・熱が高くて、息が苦しそうな子
・血が止まらない子
・初めて見る症状
・迷った時』
(迷った時)
リナはその文字を、指でそっとなぞった。この板があると、不思議と心が落ち着く。カイがそばにいる気がするからだった。
前の日の朝、領都から早馬が来ていた。届いたのは、カイからの手紙だった。
『リナへ。村に、役人が行くかもしれない。診察を止める、という通達が出ている。もし来たら、無理に逆らわなくていい。迷ったら、必ず誰かを呼べ。君は、一人じゃない』
読み終えて、リナは手紙を胸に抱いた。それから、ぐっと顔を上げた。
(大丈夫。わたしは診療所を守るって、約束したんだから)
午前の診察は、いつも通りだった。ハンスの隣の家の、足をくじいた羊型の魔獣。トムのモコの定期の確認。
「リナ姉ちゃん、先生みたいだ」とトムが言って、リナは赤くなった。
昼前に、馬の蹄の音が村の入口に響いた。
四頭の馬が、診療所の前に止まった。先頭の男は痩せて、眼鏡をかけていた。濃い灰色の外套に、地方管理局の徽章。
後ろに兵が二人いる。
「こちらが、アルム村の診療所か」
「はい。わたしは、助手のリナです。獣医のカイは、いま領都にいます」
「知っている。書記官のメルツだ。通達を読み上げる」
メルツは、懐から丸めた書状を取り出した。村人たちが、遠巻きに集まってくる。ガルドが、いつの間にかリナの隣に立っていた。
グレイも、静かに足元に伏せている。
「魔獣管理令には、魔獣の診療を認める規定はない。したがって、アルム村の診療所による診察は、無認可の診療にあたる。直ちに診察を停止するよう命ずる」
読み終えて、メルツは書状をリナの前に差し出した。
「受け取りなさい。従わない場合は、診療所を閉鎖する」
リナは、両手でそれを受け取った。紙がざらりと重かった。
「……質問してもいいですか」
「何だ」
「診察を停止する間に、急な患者が運ばれてきたら、どうすればいいですか」
「停止命令だ。受け付けてはならない」
「その子が、死にそうだったとしても」
メルツは眼鏡の奥から、リナをじっと見た。
「命令は命令だ」
「分かりました」
リナは静かにうなずいた。胸の奥で、心臓が痛いほど鳴っていた。けれど、不思議と声は震えなかった。
(カイさんなら、どうするだろう)
答えが出る前に、遠くから、悲鳴のような声が聞こえた。
「リナちゃん! 診てくれ! 頼む!」
ハンスだった。大きな体で、全力で走ってくる。両腕に、ぐったりとした子牛を抱えていた。
「ホープが、今朝から水みたいなフンをして、立てなくなっちまった!」
ホープ。あの夜の難産で生まれた仔牛だった。
もう半年近く経って、体は大きくなっていたはずなのに、今はハンスの腕の中で、くたりと首を垂れている。
「診療所へ」
リナは考える前に動いていた。
「待て。停止命令だと、言ったはずだ」
メルツが前に立ちふさがった。
リナは、メルツをまっすぐに見た。
「命令は、聞きました。でも、この子を見殺しにするという命令は、受け取っていません」
「何だと」
「診察は、わたしがします。責任も、わたしが取ります。報告書には、書いてください。リナという助手が、命令を承知で診察をしたと」
メルツの眼鏡の奥の目が、わずかに見開かれた。リナは、返事を待たずに扉を開けた。
「ハンスさん、こっちへ!」
診察台にホープを寝かせる。リナはぎゅっと唇を結んで、手を洗った。
(落ち着いて。順番に。カイさんが、いつもやっていた通りに)
まず、体温。ホープの耳に指を当てる。熱はない。むしろ、少し冷たい。
次に、皮膚。首の後ろの皮膚をつまんで離す。いつもならすぐに戻るはずが、ゆっくりと戻らない。
(脱水。ひどい)
目がくぼんでいる。唇をめくると歯茎が乾いて、ねばついていた。
「ハンスさん。今朝から、何も飲んでいませんか」
「ああ。昨日の夕方から、ぐったりして、乳も飲まなくなって」
(下痢で水分が出て行って、飲めなくなって、さらに乾く。このままだと、ショックを起こす)
ホープのお腹に聴診器を当てる。ごろごろと、液体の動く音がした。
(必要なのは、水分。急いで)
リナは、棚から細い針を取り出した。老猫のチビに使ったのと同じ、羽根の軸のついた針。これで、皮の下に少しずつ水を入れる。
(でも、量はどれくらい?)
そこでリナの手が止まった。
仔牛の体重は、大人の人の半分以上ある。猫とは桁が違う。多すぎれば体に負担がかかる。少なければ足りない。
(迷った時、だ)
壁の板が目に入った。
リナはごくりと唾を飲んだ。恥ずかしいという気持ちが、一瞬、胸をかすめた。けれど、すぐに頭を振った。
(呼ぶことは、弱さじゃない)
「トム君、ミレーヌさんを呼んできて! 大急ぎで!」
「うん!」
トムが、風のように飛び出していった。メルツは腕を組んで、その様子を黙って見ていた。
その間にも、リナは手を動かし続けた。湯冷ましを沸かして、ほんの少しの塩と蜂蜜を溶かす。体温に近い温かさまで冷ます。
針を清潔にして、ホープの背中の皮をそっとつまんだ。
「ホープ。ちょっと、チクッとするよ」
ミレーヌが駆けつけた時には、最初の一回分が、ちょうど入ったところだった。
「リナ。状況を話しな」
リナは息を整えて、見たこと、聞いたこと、判断したことを、順番に話した。
ミレーヌはホープの皮膚をつまんで、目を確かめて、うなずいた。
「見立ては、合ってるよ。脱水だ。量は、この大きさなら、これくらいを、何回かに分けるんだ」
ミレーヌが指で、おおよその量を示した。リナは板に急いで書き留める。
「いいかい、一度に入れちゃいけない。時間をあけて、様子を見ながら、少しずつ。あんたの診たては、間違ってない」
「はい!」
それから、一時間。二時間。リナは、ホープのそばを離れなかった。皮の下に、柔らかなふくらみができていく。
少しずつ体に吸収されていく。
(お願い。持ち直して)
やがて、ホープの目に、ぼんやりと光が戻ってきた。首がぴくりと持ち上がる。
「……め、ぇ」
か細い声が一つ、漏れた。
「ホープ!」
ハンスが、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。リナも思わず涙ぐんだ。ホープはゆっくりと身を起こして、リナの手をぺろりと舐めた。
「飲めますか。少し湯冷ましを」
スプーンの先で、少しずつ与える。ホープはこくりと飲み込んだ。
「……よし」
リナは大きく息を吐いた。その場にへたり込みそうになるのを、ぐっとこらえる。
その様子を、ずっと見ていた者がいた。メルツだった。いつの間にか、眼鏡を外して、目をこすっている。
「書記官さん」
「……見ていた。全部」
メルツは低い声で言った。
「診断。判断。処置。それから、迷った時に人を呼ぶこと。すべてが、整っていた。私は、医療のことは分からないが、少なくとも、これを無認可と呼ぶのは間違いだと思う」
「え」
「報告書には、見たままを書く。『診察は、適切に行われていた』と。停止命令の件は、局の判断を待つ。……それが、私の仕事だ」
リナは目を見開いた。それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、いい」
メルツは眼鏡をかけ直して、そっぽを向いた。耳の先が少し赤かった。
* * *
その夜、診療所の灯りの下で、リナはカイへの手紙を書いていた。
『カイさんへ。今日、役人が来ました。ホープが、倒れました。わたしは、一人で診ました。途中で、迷って、ミレーヌさんを呼びました。ホープは、助かりました』
そこまで書いて、リナは筆を止めた。涙がぽとりと紙に落ちた。
(怖かった)
でも、逃げなかった。逃げずにやり切った。そのことが、胸の奥で少しずつ、誇らしさに変わっていく。
「泣くのは後にしな」
背後でミレーヌの声がした。老婆は湯気の立つ茶を、リナの前に置いた。
「あんたは、ようやった。迷った時に呼べたのが一番えらい」
「ミレーヌさん」
「あの男は、一人で抱え込む癖がある。向こうで、今頃、青い顔で気を揉んでるだろうよ」
ミレーヌは、ぶっきらぼうに続けた。
「わしが領都へ行く」
「え」
「あの子たちを治すのに、眠り蔓の知識がいるんだろう。手紙で書くより、わしが行って見る方が早い」
「俺たちも行く」
扉の方から、低い声がした。ガルドとグレイが、戸口に立っていた。その隣に、大きな革の包みを抱えたドルンが、無言で立っている。
「道中の護衛は、俺がやる」
「器具は俺が運ぶ」
リナはぽかんと三人を見て、それから、ふふっと笑った。
「……みんな、準備が早いですね」
「あんたの先生が、一人で背負い込まないようにするためさ」
ミレーヌはにやりと笑った。窓の外で、秋の月が静かに診療所を照らしていた。




