専門家たち
診察室の前には、毎朝、荷役の魔獣たちが列を作るようになっていた。
角の欠けた牛。咳をする荷馬。足の爪が伸びすぎた大型の鳥。どの子も、どこかしら傷んでいる。
カイは一頭ずつ、手と目で確かめた。治せるものは治し、休ませるものは休ませる。
難しいものは親方のオルトと相談して、荷の分け方を変えた。
「先生、うちの牛も頼む!」
「順番ですよ。みなさん、順番に」
馬屋の外に、人の声が絶えなくなった。ヴェルナーは扉の陰から様子を見て、黙って帰っていく。
何も言わないのは、これで足りている、ということらしかった。
そんなある日の昼前だった。
「失礼いたします。こちらが、獣医官殿の診察室でございますね」
扉の前に、一人の男が立っていた。四十前後。深い青の上質な上着に白い手袋。丁寧に頭を下げる姿に隙がない。
「伯爵家で飼育係頭を務めております、レンデルと申します。獣医官殿の診察を、少し拝見させていただきたく」
(伯爵家の)
カイは一瞬、息を止めた。けれど、すぐにうなずいた。
「構いません。診察は、見ていただいて困るものではありませんので」
「ありがとう存じます」
レンデルは柔らかく微笑んだ。目の奥は笑っていなかった。
ちょうどその時、次の患者が運び込まれた。荷馬車を引く、鹿毛の馬型の魔獣だ。しきりに頭を振って、足を踏み鳴らしている。
「どうも昨日から、様子がおかしいんだ。飼い葉を、ぽろぽろ口からこぼして」
馬の持ち主が言った。口の端から、ねばついた唾液が垂れている。
(食べ方がおかしい。口の中か)
カイは、馬の顔にそっと手を当てた。馬は頭を大きく振って嫌がった。何度か、ゆっくりと手を近づけては離す。
やがて馬が落ち着いたところで、頬に指を当てて、口の中の様子を探った。
「……ああ、やっぱり」
奥の歯の縁が、ぎざぎざと尖っていた。頬の内側に赤い擦れた傷が、いくつもできている。
「歯の縁が尖って、頬に刺さっているんです。食べるたびに痛いから、飼い葉をこぼしていたんですね」
「歯? そんなことで」
「馬の歯は、一生伸び続けます。擦り減り方が偏ると、こうして鋭い縁ができるんです」
診察鞄から、ドルンが入れてくれた細長いやすりを取り出す。馬の口を静かに開かせて、一本ずつ歯の縁を丁寧に削った。
その様子を、レンデルがじっと見ていた。そして、薄い笑みを浮かべたまま口を開いた。
「獣医官殿。失礼ながら、お時間がかかりすぎではございませんか」
「そうでしょうか」
「私どもでは、暴れる子には眠り薬を使います。眠らせてしまえば、口でも足でも、好きなだけ調べられる。二十年、そうしてまいりました」
「眠らせると、痛い場所が分からなくなることがあります」
カイは手を止めずに答えた。
「体は起きている時の反応が一番正直です。どこを触ると嫌がるのか。どこを見ると目が動くのか。そういうものが、診断の手がかりになります」
「それは、素人考えですよ」
レンデルは穏やかに言った。
「獣は眠らせてこそ静かに、安全に扱えます。貴重な生き物ほど、傷つけないよう、眠らせておくのが優しさというものです」
(眠らせておくのが優しさ)
カイはその言葉の奥に、何か引っかかるものを感じた。けれど、今は目の前の馬を診なければならない。
最後の歯を削り終えて、そっと手を離す。馬はゆっくりと口を動かした。さっきまでのような、嫌がる素振りは見せない。
「どうですか。食べてみてもらえますか」
持ち主が飼い葉を差し出した。馬は一口二口と食べて、ぱくぱくと口を動かした。こぼれない。
「食べた! 食べたぞ!」
「歯の縁が当たらなくなったので、もう痛くないはずです。数日で、頬の傷も治ります」
持ち主が頭を何度も下げた。馬は満足そうに鼻を鳴らす。レンデルは、それを黙って見ていた。
やがて、手袋の指先をゆっくりと直した。
「……なるほど。今日は、勉強になりました」
「いえ。こちらこそ、見ていただいて」
「獣医官殿」
レンデルは、扉の前で振り返った。
「私は、貴重な幻獣を、何頭も、静かに、元気に飼っております。いつか、ご覧になっていただく機会があるやもしれません」
「幻獣を」
「ええ。では、失礼いたします」
丁寧に頭を下げて、レンデルは去っていった。カイは、しばらく扉を見つめていた。
(幻獣を、静かに)
その言葉が頭の中で、いつまでも響いていた。
* * *
夕方、診察室の片付けをしていると、扉が静かに開いた。イゼルダだった。いつもの灰色の制服ではなく、書類の束を抱えている。
顔が少し強張っていた。
「お時間は、よろしいですか」
「はい。どうぞ」
イゼルダは作業台の上に書類を広げた。
「先日、お話しした記録の洗い直しです。第一に、あの倉庫で保護された幻獣の数を確認しました。全部で八頭でした」
「八頭」
「うち四頭は、保護の時点で死亡。一頭はルカです。残りの三頭は」
イゼルダは、書類の一枚を指で押さえた。
「保護の翌日、局の保護施設に移送する途中に死亡した、と記録されています」
「……記録の上では、ですね」
「はい」
イゼルダは、別の紙を取り出した。
「こちらは伯爵家が納入している、飼料の記録です。毎週、決まった量の幻獣用の餌が、運び込まれています。三頭分と、一致する量です」
カイの手が止まった。
「搬送中に死んだはずの三頭が生きている」
「確かめたわけではありません。ですが、そう考えるのが自然です」
イゼルダは静かに言った。
「死亡の記録を書いたのは、伯爵に近い担当官です。そして、先ほどあなたの診察を見に来たのは、その施設の飼育係頭でしたね」
カイは、レンデルの言葉を思い出した。
『私は、貴重な幻獣を、何頭も、静かに、元気に飼っております』
静かに。眠らせておく優しさ。
(あの人が言っていたのは本当のことだ)
胸の奥が冷たくなっていった。
「イゼルダ殿」
「はい」
「その子たちを、診たいです」
それは獣医としての、まっすぐな願いだった。イゼルダはわずかに目を伏せ、静かにうなずいた。
「分かっています。そのための準備を、私も進めています」
窓の外は、夕焼けの色に染まっていた。生きているはずのない三頭の命が、どこかで、静かに眠らされている。
カイは拳をそっと握りしめた。




