獣医官という席
獣医官の席に座るには、条件がある。そう告げられたのは、領都に来て四日目、ゴンの傷が治ったその日だった。
魔獣管理局の局長室は、思っていたより質素だった。
壁には古い地図と、歴代の局長の小さな肖像画が掛かっている。大きな机の向こうに、痩せた初老の男が座っていた。
白髪をきちんと撫でつけて、目元は穏やかに笑っている。
「ダリウスです。ようこそ、獣医官殿」
「アルム魔獣診療所のカイと申します。まだ、獣医官ではありませんが」
「ええ。試験赴任の方、でしたな」
ダリウス局長は、ゆったりとうなずいた。
「正直に申し上げましょう。獣医官という席は、本来なら三年かかる話です。それをヴェルナー君とイゼルダ君が、三か月で通してしまった。あなたの名前と、先の審問の記録を盾にしてね」
「そうだったんですか」
「ええ。ですから、席は用意しました。しかし、座るかどうかはあなた次第です」
局長は、机の上に一枚の書類を置いた。
「試験赴任の条件です。二か月の間に、三つのことを示していただきたい」
一つ、診察の記録を残すこと。二つ、荷役組合など現場の署名を集めること。
三つ、局の担当官と協力して、診察の結果を実際の運用につなげること。
「現場の署名、ですか」
「ええ。局の中の人間だけでは、獣医官は不要だと言われかねません。現場が必要としている、という証拠が欲しいのです」
「それから、もう一つ。アルム村の診療所は、まだ、正式な認可を受けておられませんな」
「はい。診療を認める規定が、管理令にないと聞いています」
「近いうちに、手続きを進めましょう。ただ、今は少々、局内の風向きが良くない。しばらく、お待ちください」
局長はさらりと言った。その言い方が、少しだけ引っかかった。
その時、扉が乱暴に開いた。
「失礼する」
入ってきたのは五十代の、顎の張った男だった。深緑の制服に審問官の徽章。
審問の場で、伯爵に近い立場として、カイに冷たい目を向けていた男だった。
「グランツ審問官。扉も叩かずに」
「局長。獣医官の試験赴任について、私は改めて反対を申し上げに来ました」
グランツはカイを一瞥して、すぐに目を逸らした。
「処分の前に診察を経る、という付記も、すでに現場で混乱を招いている。荷役の魔獣一頭の処分が、獣医の判断で、三日も遅れたそうではないか」
「三日遅れて、牛は一頭助かりました」
カイは静かに口を挟んだ。
「現場の負担にもならず、結果として、損失は減っています。数字は、お見せできます」
「結果論だ」
グランツは吐き捨てるように言った。
「幻獣のような貴重な個体は、専門の飼育係に任せるべきだ。どこの馬の骨とも知れぬ獣医に、触らせるものではない」
局長は表情を変えなかった。
「ご意見は、記録しておきましょう。グランツ君、他にご用は」
「……それだけです」
審問官は、足音を立てて出ていった。扉が閉まる。局長は小さく息をつき、苦笑した。
「失礼。あれでも、真面目な男なのですよ。ただ、伯爵の後援を長く受けてきましてね」
「……そうですか」
「カイ殿」
局長はふと声を落とした。
「あの伯爵は、あなたを覚えている。審問の日、彼は笑っていなかった。気をつけられるがよい」
「はい」
カイはうなずいた。覚えておこう、と言った冷たい声が、また耳の奥によみがえった。
* * *
昼過ぎ、カイは局の食堂で、ヴェルナーとイゼルダと同じ席に座っていた。
長い木の机に硬そうなパンと薄いスープ。壁際の席では、書記官たちが黙々と食べている。
ヴェルナーは、背筋を伸ばしたまま、無言でスープに口をつけていた。
「……豆を、よけていませんか」
カイがそっと言うと、ヴェルナーの手がぴたりと止まった。
「よけていない」
「皿の端に、豆が積み上がっていますが」
「これは、置いているだけだ」
向かいで、イゼルダがため息をついた。
「子供ですか。毎回、豆だけ残すんです、この人。管理官の威厳が台無しです」
「必要ない栄養を、摂らなくていいだけだ」
「必要ない栄養なんてありません」
カイは思わず笑ってしまった。ヴェルナーがほんの少し耳を赤くして、視線を逸らした。
イゼルダは咳払いをして話を変えた。
「アルム村は、どんなところですか。私は一度、通っただけで」
「小さな村です。みんな無愛想で、お人好しで。ミレーヌさんは薬草で人を脅かして、ドルンさんは三日に一度しか喋りません」
「それは、にぎやかそうだ」
ヴェルナーがぽつりと言った。
「……いつか、ゆっくり行ってみたいものだ」
(この人にも、こういう顔があるんだな)
食事を続けながら、カイは局長の話をした。席を用意するまでの経緯を、改めて聞いてみる。
「ダリウス局長から、三か月で通したと聞きました。大変だったでしょう」
「……借りは、ずいぶん作った」
ヴェルナーは、パンをちぎりながら言った。
「借りの大半は、私が肩代わりしましたけれど」
「イゼルダ殿には感謝している」
「感謝は、いつか具体的な形でお願いします」
軽口を叩き合う二人の間に、静かな信頼があるのが分かった。ヴェルナーは少し黙ってから、低い声で言った。
「君に来てもらいたかったのは、私の都合だ」
「ヴェルナーさん」
「診る者がいなかった村を、せめて一つでも減らしたい。そのために、席が必要だった。それだけだ」
窓から差し込む光が、ヴェルナーの横顔を照らしていた。カイは、スープの湯気越しに言った。
「僕も、そのために呼ばれたんだと思います。ここに来たのは、領都を診るためです。診てから、決めます」
「……ああ。それでいい」
ヴェルナーはほんの少しだけ、口の端を上げた。
食事が終わりかけた頃、イゼルダが、器をそっと置いた。
「カイ殿。食後に、少しだけ時間をいただけますか」
「構いませんが」
「今は局内の記録を、洗い直していましてね。気になることがあるんです」
イゼルダの声は、いつもより低かった。ヴェルナーが、黙って彼女を見る。
「確かめてから、お話しします。そう遠くないうちに」
窓の外では、昼の鐘が鳴っていた。カイは、嫌な予感とは違う、何かが動き出す気配を、胸の奥に感じていた。




