脚を引きずる馬
翌朝、診察室の扉が乱暴に叩かれた。
「獣医さん! 助けてください!」
飛び込んできたのは十六、七歳の少年だった。手綱を握りしめて、息を切らしている。
その後ろで、一頭の馬が右の前脚を地面につけずに、よろよろと立っていた。
「ナギが、昨日から歩けなくなって……」
少年の名はペッポ。荷馬車の御者で、このナギの世話係らしい。
「昨日の夕方、急に脚を引きずり始めたんです。でも荷が残っていたから、鞭で歩かせて。そうしたら今朝は、全然体重をかけられなくなって」
鞭という言葉に、カイは眉を寄せかけた。けれど、少年の顔が真っ青なのを見て、言葉を飲み込んだ。責めても仕方がない。
「分かった。すぐに診よう。まず、ナギを落ち着かせてあげて」
ナギは栗毛の馬型の魔獣だった。体は大きいが、目が不安に揺れている。右の前脚をかばって、全身がこわばっていた。
(足を痛がっている。骨折ではなさそうだ)
立たせたまま、前脚に手を当てる。蹄のあたりが熱い。
指を球節の後ろに当てると、血管がどくどくと強く脈打っているのが分かった。
「蹄が熱を持ってる」
「ひづめ、ですか」
「うん。蹄の中で、何かが起きてるんだと思う」
次に蹄そのものを調べる。診察鞄から、ドルンが入れてくれた小さな金槌を取り出した。蹄の底をこつ、こつ、と軽く叩く。
ある場所で、ナギがびくりと跳ねた。
「ここだ」
蹄の裏を持ち上げて、土を丁寧に削り取る。黒ずんだ線が一本、見えた。蹄の溝に沿って、細い筋が走っている。
(蹄の膿瘍だ。釘か何かを踏んだか、汚れが入り込んだか)
蹄の中に膿が溜まって逃げ場がない。内側から圧がかかって激しく痛む。
「ペッポ君。ナギは最近、釘や尖ったものを踏まなかった?」
「えっと……一週間前に、工事の現場を通りました。木材がたくさん落ちていて」
「それだ」
カイはうなずいた。
「蹄の中に膿が溜まってる。このままだと、もっと痛くなる。今から蹄に小さな穴を開けて膿を出すよ。少し痛いけど、その後はすごく楽になるはずだ」
「穴を……」
ペッポの顔がこわばった。
「大丈夫。ナギをしっかり支えていてくれ」
少年がナギの首に腕を回した。カイは前脚を膝の上に乗せて、小さな刃物を火であぶる。刃先を、黒い線の上にそっと当てた。
「ナギ、ごめん。一瞬だけだ」
薄く、慎重に削っていく。蹄の角質が少しずつ剥がれて、薄い層の下から、じわりと黒いものが滲んだ。
その瞬間。
ぷしゅ、と音がして、黒い膿が勢いよく噴き出した。
「うわっ」
ペッポが思わず声を上げた。ナギが、全身の力が抜けたようにふうっと長い息を吐いた。
「……出た。もう大丈夫だ」
カイは刃物を置いて、膿を清潔な布で受けながら、穴の奥を丁寧に洗った。塩水を流し込むと、膿が洗い流されていく。
「ナギ。足を下ろしてごらん」
前脚をそっと地面に下ろす。ナギは恐る恐る、蹄を地面につけた。そして、ゆっくりと体重をかけた。
「あ……立ってる」
ペッポが目を丸くした。ナギは右の前脚に、普通に体を預けている。さっきまでの痛がり方が、嘘のようだった。
「すごい。さっきまで、あんなに痛がってたのに」
「膿が出て、圧がなくなったからだよ。痛みの原因が、中に溜まっていたんだ」
カイは蹄に薬を塗り、清潔な布で包んだ。
「三日間は、塩水で足を浸けてあげて。濡れた地面や、汚い場所は避ける。荷を引くのは、傷が閉じてからだ」
「はい!」
ペッポは大きくうなずいた。それから、少し言いにくそうに俯いた。
「あの……鞭で歩かせたのは、俺が悪かったんですよね」
「痛がっている子を、鞭で歩かせるのは良くない。ナギは、歩きたくても歩けなかったんだ」
カイは穏やかに言った。
「でも、ペッポ君はちゃんとここに連れてきた。それが一番大事なことだよ」
少年は唇を噛んで涙をぬぐった。
* * *
三日後の朝。
ゴンの傷は、目に見えて良くなっていた。膿は引いて、皮膚は乾いて、周りの赤みが薄くなっている。熱ももうない。
「……本当に、治ってきてやがる」
診察室に来たオルトが、ゴンの首を何度も確かめて、低くつぶやいた。
「膿が出なくなって、新しい皮膚が張ってきています。あと数日休ませれば、鞍も使えるようになります」
「鞍はできてる。昨日、あの爺さんが仕上げた。見てみろ」
オルトが持ってきた新しい荷鞍は、詰め物が柔らかく、肩の形に沿って少しくぼんでいた。カイは手で押して形を確かめる。
「いい鞍です。これなら、肩に当たりません」
「……あの爺さん、あんたの絵を見て、夜通し作ってたんだとよ」
オルトは、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「俺はな、獣医なんて、役人のお飾りだと思ってた。診たって、結局は使えなくなれば処分だ。そういうもんだと思ってた」
「はい」
「だが、あんたの言うことは本当だった」
オルトはまっすぐカイを見た。
「三日休ませて、ゴンは使える牛に戻った。金貨八枚が、浮いた。ついでに、ナギの話も聞いた。蹄の膿とやらで、馬が一頭死ぬところだったのを、あんたが救ったとな」
「ペッポ君が、すぐに連れてきてくれたからです」
「そういうところだ。あんたは、手柄を取らねえ」
オルトはふっと笑った。
「うちの組合には、荷を引く魔獣が四十頭いる。みんな、どこかしら傷んでる。診てもらえるか」
「もちろんです。喜んで」
カイは胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。領都に来て、わずか数日。けれど、確かに何かが動き始めていた。
その時、診察室の扉が叩かれた。顔を出したのは、灰色の制服の局員だった。
「獣医官殿。ダリウス局長がお呼びです」
「局長が?」
「はい。今すぐ、とのことです」
局員の表情は固かった。オルトが、不思議そうに眉を上げる。
「お偉いさんの呼び出しか。……あんた、何かやらかしたのか」
「さあ。心当たりは、ないんですが」
カイは診察鞄を手に取った。窓の外では、ゴンが気持ちよさそうに日向で目を細めていた。




