首の擦れた牛
牛は大きかった。肩の高さが、カイの背丈ほどもある。灰褐色の毛並みに太くて短い角。
おとなしく曳き手に従っているが、首を動かすたびに皮膚がぴくりと震えた。
「荷牛のゴンだ。今夜、処分する予定だった」
牛を引いてきた男が言った。五十がらみの、日に焼けた大柄な男だ。
荷役組合の親方で、オルトという名だと、ヴェルナーが小声で教えてくれた。
「使えなくなったからな。ところが局の役人が言うんだ。処分の前に診察を経ろ、とな。規則だそうだ」
「あの規則が現場で使われるのはこれが初めてだ」
ヴェルナーが静かに言った。
「形だけの診察にしたくなければ、本気で診てくれ」
「はい。最初からそのつもりです」
カイは牛の前に回って、手の甲をゆっくりと差し出した。ゴンは鼻先でにおいを嗅いだ。大きな黒い目が、じっとこちらを見ている。
「ゴン、少し触るよ。痛かったら教えてくれ」
首から肩にかけて、毛が抜け落ちていた。皮膚は赤く擦りむけて、ところどころ膿が固まっている。
指先を近づけると、熱を持っているのが分かった。触れた瞬間、ゴンが体を引いた。
「ごめん。もう少しだけ」
傷の周りを丁寧に調べる。深い場所と浅い場所。膿の出ている部分。毛の流れ。
(病気じゃない。擦れてできた傷だ)
熱があるのは、傷が炎症を起こしているからだ。ゴンの体そのものはがっしりとして、食欲もありそうだった。
「親方。荷を引く時の鞍を、見せてもらえますか」
「鞍? 外にあるが」
オルトが怪訝な顔で、木の枠でできた荷鞍を持ってきた。カイは中の詰め物を指で押してみた。
「……固い」
詰め物の藁が、使い込まれて板のように固まっていた。しかも形が歪んでいる。
「この鞍の、ここが当たる場所と、ゴンの傷の位置がぴったり重なります」
カイは鞍の一点を指さした。
「荷の重さが一か所にかかり続けて、擦れているんです。汗が溜まって皮膚がふやけて、そこをさらに擦る。傷ができて、膿む。この牛が悪いんじゃない。使い方の問題です」
「使い方だと?」
オルトの眉が寄った。
「俺は二十年この商売をやってる。牛の扱いは、あんたより知ってるつもりだ」
「それは、そうだと思います」
カイは頭を下げた。
「だから教えてください。この傷は、いつ頃から?」
オルトはしばらく黙ってから、ぼそりと言った。
「……二か月前だ。最初は少し赤くなっただけだった。だが荷を引かせるたびにひどくなった」
「その間も、毎日荷を?」
「休ませたら稼げねえ」
低い声だった。
「組合に借りもある。ゴンが休めば荷が一つ落ちて、その分、他の牛が重い荷を引く。……分かっちゃいるんだ」
分かっていても止められない。そういう事情なのだ。カイは責める言葉を飲み込んだ。
「治療を始めます。傷を洗って、膿を出して、薬を塗ります」
馬屋の隅の竈で湯を沸かし、塩水を作った。清潔な布で傷をそっと拭う。ゴンは歯を食いしばるように耐えていた。
膿を押し出すと、赤黒い液が流れた。
「よく頑張るな、ゴン」
蜂蜜と薬草の軟膏を薄く塗って布を当てる。ミレーヌが持たせてくれた薬草が、さっそく役に立った。
「治療だけでは終わりません。鞍を直さないと、また同じ傷ができます」
カイは板に炭で、簡単な絵を描いた。
「詰め物を新しくして、当たる場所をずらします。荷の重さを背中の広い範囲に分けて、首元にはかけない。それから、傷が治るまでの三日間は、荷を引かせないでください」
「三日だと?」
「はい」
「馬鹿言うな。三日も稼げねえ」
オルトが声を荒げた。
「では、数字で話をさせてください」
カイは落ち着いて言った。
「この牛を買った時、いくら払いましたか」
「……金貨八枚だ」
「傷を放っておけば、膿は深くなります。治るまで一か月以上かかるかもしれませんし、最悪の場合は命に関わります。荷を引けない一か月と、買い替えの金貨八枚。三日休ませるのと、どちらが高くつくでしょう」
オルトは黙り込んだ。
「それに、新しい牛を連れてきても、慣れるまでは同じ荷を引けません。ゴンは、この道を何年も歩いてきた牛です」
長い沈黙があった。やがて、オルトが大きく息を吐いた。
「……三日だ」
「親方」
「三日だけ休ませてやる。三日で良くならなかったら、あんたが何を言おうと処分する」
「分かりました。三日で結果を出します」
カイはまっすぐに答えた。オルトは鼻を鳴らして、ゴンの首を軽く叩いた。
「鞍は、馴染みの革職人のところへ持っていく。あんた、詰め物の形を教えてくれ」
「はい。ご一緒します」
扉の外には、荷車を引いた魔獣たちが何頭か並んでいた。男たちが数人、こちらをのぞき込んでいる。
「あれが噂の獣医か」
「首の擦れたゴンを本当に診たのか」
ひそひそと声がする。ヴェルナーが隣で小さくつぶやいた。
「……見られているな」
「はい」
カイは苦笑した。
「大丈夫です。診てもらうことが当たり前になるまで、地道にやるだけです」
その日の午後、カイはオルトに連れられて、革職人の店を訪ねた。局の裏手から三本ほど通りを入った狭い店だった。
革の匂いが、店先までこもっている。
「親方の頼みでも、鞍の詰め直しは骨が折れるぞ」
白髪の老職人が、気難しそうに言った。カイは板に描いた絵を見せながら、荷の重さを分ける形を説明した。
老職人は絵をじっとのぞき込んでから、ぼそりと言った。
「……牛の肩の形を考えて作れってことか」
「はい。肩の骨の出っ張りを避けて、広い面で受ける形にしたいんです」
「五十年やってきて、そんなことを言われたのは初めてだ」
老職人は鼻を鳴らした。けれど、手元の革をなでる指には、さっきまでなかった熱がこもっている。
「明日の夜までに仕上げてやる」
「ありがとうございます」
オルトが横で、ふんと息を吐いた。
「……あんた、変わった獣医だな」
「よく言われます」
* * *
その夜、カイは馬屋の隅の小さな机で、ランプの灯りを頼りに手紙を書いていた。
『リナへ。着いたよ。診察室は、昔の診療所に少し似ている。最初の患者は牛だった』
そこまで書いて手が止まる。ゴンの傷のこと、オルトの事情、鞍のこと。書きたいことが、いくつも浮かんでくる。
(迷ったら、呼ぶ)
自分がリナに言った言葉だった。そして、カイ自身にも当てはまる。ここは村ではない。頼れる人間はまだ少ない。
隣の馬房で、ゴンが静かに寝息を立てていた。首には清潔な布が巻かれている。三日間。その間に、結果を出さなければならない。
『リナも、迷ったら呼んでほしい。僕も、そうするから』
カイはそう書き足して筆を置いた。窓の外で、領都の夜の灯りが、静かに瞬いていた。




