↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界で獣医を開業しました ~魔獣は処分するものだと言われても、治せるなら治します~  作者: おはぎだんご


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/75

首の擦れた牛

牛は大きかった。肩の高さが、カイの背丈ほどもある。灰褐色の毛並みに太くて短い角。

おとなしく曳き手に従っているが、首を動かすたびに皮膚がぴくりと震えた。


「荷牛のゴンだ。今夜、処分する予定だった」


牛を引いてきた男が言った。五十がらみの、日に焼けた大柄な男だ。

荷役組合の親方で、オルトという名だと、ヴェルナーが小声で教えてくれた。


「使えなくなったからな。ところが局の役人が言うんだ。処分の前に診察を経ろ、とな。規則だそうだ」


「あの規則が現場で使われるのはこれが初めてだ」


ヴェルナーが静かに言った。


「形だけの診察にしたくなければ、本気で診てくれ」


「はい。最初からそのつもりです」


カイは牛の前に回って、手の甲をゆっくりと差し出した。ゴンは鼻先でにおいを嗅いだ。大きな黒い目が、じっとこちらを見ている。


「ゴン、少し触るよ。痛かったら教えてくれ」


首から肩にかけて、毛が抜け落ちていた。皮膚は赤く擦りむけて、ところどころ膿が固まっている。

指先を近づけると、熱を持っているのが分かった。触れた瞬間、ゴンが体を引いた。


「ごめん。もう少しだけ」


傷の周りを丁寧に調べる。深い場所と浅い場所。膿の出ている部分。毛の流れ。


(病気じゃない。擦れてできた傷だ)


熱があるのは、傷が炎症を起こしているからだ。ゴンの体そのものはがっしりとして、食欲もありそうだった。


「親方。荷を引く時の鞍を、見せてもらえますか」


「鞍? 外にあるが」


オルトが怪訝な顔で、木の枠でできた荷鞍を持ってきた。カイは中の詰め物を指で押してみた。


「……固い」


詰め物の藁が、使い込まれて板のように固まっていた。しかも形が歪んでいる。


「この鞍の、ここが当たる場所と、ゴンの傷の位置がぴったり重なります」


カイは鞍の一点を指さした。


「荷の重さが一か所にかかり続けて、擦れているんです。汗が溜まって皮膚がふやけて、そこをさらに擦る。傷ができて、膿む。この牛が悪いんじゃない。使い方の問題です」


「使い方だと?」


オルトの眉が寄った。


「俺は二十年この商売をやってる。牛の扱いは、あんたより知ってるつもりだ」


「それは、そうだと思います」


カイは頭を下げた。


「だから教えてください。この傷は、いつ頃から?」


オルトはしばらく黙ってから、ぼそりと言った。


「……二か月前だ。最初は少し赤くなっただけだった。だが荷を引かせるたびにひどくなった」


「その間も、毎日荷を?」


「休ませたら稼げねえ」


低い声だった。


「組合に借りもある。ゴンが休めば荷が一つ落ちて、その分、他の牛が重い荷を引く。……分かっちゃいるんだ」


分かっていても止められない。そういう事情なのだ。カイは責める言葉を飲み込んだ。


「治療を始めます。傷を洗って、膿を出して、薬を塗ります」


馬屋の隅の竈で湯を沸かし、塩水を作った。清潔な布で傷をそっと拭う。ゴンは歯を食いしばるように耐えていた。

膿を押し出すと、赤黒い液が流れた。


「よく頑張るな、ゴン」


蜂蜜と薬草の軟膏を薄く塗って布を当てる。ミレーヌが持たせてくれた薬草が、さっそく役に立った。


「治療だけでは終わりません。鞍を直さないと、また同じ傷ができます」


カイは板に炭で、簡単な絵を描いた。


「詰め物を新しくして、当たる場所をずらします。荷の重さを背中の広い範囲に分けて、首元にはかけない。それから、傷が治るまでの三日間は、荷を引かせないでください」


「三日だと?」


「はい」


「馬鹿言うな。三日も稼げねえ」


オルトが声を荒げた。


「では、数字で話をさせてください」


カイは落ち着いて言った。


「この牛を買った時、いくら払いましたか」


「……金貨八枚だ」


「傷を放っておけば、膿は深くなります。治るまで一か月以上かかるかもしれませんし、最悪の場合は命に関わります。荷を引けない一か月と、買い替えの金貨八枚。三日休ませるのと、どちらが高くつくでしょう」


オルトは黙り込んだ。


「それに、新しい牛を連れてきても、慣れるまでは同じ荷を引けません。ゴンは、この道を何年も歩いてきた牛です」


長い沈黙があった。やがて、オルトが大きく息を吐いた。


「……三日だ」


「親方」


「三日だけ休ませてやる。三日で良くならなかったら、あんたが何を言おうと処分する」


「分かりました。三日で結果を出します」


カイはまっすぐに答えた。オルトは鼻を鳴らして、ゴンの首を軽く叩いた。


「鞍は、馴染みの革職人のところへ持っていく。あんた、詰め物の形を教えてくれ」


「はい。ご一緒します」


扉の外には、荷車を引いた魔獣たちが何頭か並んでいた。男たちが数人、こちらをのぞき込んでいる。


「あれが噂の獣医か」


「首の擦れたゴンを本当に診たのか」


ひそひそと声がする。ヴェルナーが隣で小さくつぶやいた。


「……見られているな」


「はい」


カイは苦笑した。


「大丈夫です。診てもらうことが当たり前になるまで、地道にやるだけです」


その日の午後、カイはオルトに連れられて、革職人の店を訪ねた。局の裏手から三本ほど通りを入った狭い店だった。

革の匂いが、店先までこもっている。


「親方の頼みでも、鞍の詰め直しは骨が折れるぞ」


白髪の老職人が、気難しそうに言った。カイは板に描いた絵を見せながら、荷の重さを分ける形を説明した。

老職人は絵をじっとのぞき込んでから、ぼそりと言った。


「……牛の肩の形を考えて作れってことか」


「はい。肩の骨の出っ張りを避けて、広い面で受ける形にしたいんです」


「五十年やってきて、そんなことを言われたのは初めてだ」


老職人は鼻を鳴らした。けれど、手元の革をなでる指には、さっきまでなかった熱がこもっている。


「明日の夜までに仕上げてやる」


「ありがとうございます」


オルトが横で、ふんと息を吐いた。


「……あんた、変わった獣医だな」


「よく言われます」


* * *


その夜、カイは馬屋の隅の小さな机で、ランプの灯りを頼りに手紙を書いていた。


『リナへ。着いたよ。診察室は、昔の診療所に少し似ている。最初の患者は牛だった』


そこまで書いて手が止まる。ゴンの傷のこと、オルトの事情、鞍のこと。書きたいことが、いくつも浮かんでくる。


(迷ったら、呼ぶ)


自分がリナに言った言葉だった。そして、カイ自身にも当てはまる。ここは村ではない。頼れる人間はまだ少ない。


隣の馬房で、ゴンが静かに寝息を立てていた。首には清潔な布が巻かれている。三日間。その間に、結果を出さなければならない。


『リナも、迷ったら呼んでほしい。僕も、そうするから』


カイはそう書き足して筆を置いた。窓の外で、領都の夜の灯りが、静かに瞬いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。