返事の前に
朝の診療所は、いつもより静かだった。ソラも、まだ寝床で丸くなっている。
カイは作業台の前に座って、一通の手紙を広げていた。もう何度読み返したか分からない。
ヴェルナーの几帳面な字で、領都の魔獣管理局に「獣医官」の職が設けられたこと、国として自分を招きたいと考えていることが書かれている。
返事は急がない、と手紙には書いてあった。けれど、あれから二週間が過ぎている。
「おはようございます、カイさん」
リナが扉を開けて入ってきた。首には、ドルンが作った木製の聴診器が下がっている。作業台の手紙をちらりと見て小さく言った。
「まだ、返事を書いてないんですね」
「……分かるかな」
「その手紙、折り目がもう柔らかくなってますから」
カイは苦笑した。観察眼の鋭い弟子を持つと、隠し事ができない。
「領都に行けば、診られる子が増えると思う。あの街の通りで見た牛や馬を、僕は忘れられない。診てやりたいと思ったのに、あの時は何もできなかった」
「はい」
「でも、ここにも診る子がいる。リナも、村の皆もいる。どちらかを選ぶ話にしたくないんだ」
リナは少し考えてから言った。
「カイさんは、いつも言ってますよね。診てから決める、って」
「うん」
「じゃあ、領都も診てから決めたらいいんじゃないですか」
カイは目を瞬いた。
(診てから、決める)
自分で言い続けてきた言葉なのに、自分のことには使っていなかった。
「……リナには、かなわないな」
「えへへ。弟子ですから」
リナは照れたように笑った。その笑顔が、ほんの少しだけ無理をしているように見えたのは、気のせいではなかったかもしれない。
* * *
その夜、診療所に仲間が集まった。ミレーヌ、ドルン、ハンス、トム。ガルドはグレイを連れて、扉のそばに立っている。
カイは手紙のことを順番に話した。
話し終えると、ハンスが腕を組んで唸った。
「獣医官か。国のお墨付きってことだろう。すげえじゃねえか、先生」
「でも、先生がいなくなっちゃうの?」
トムが不安そうに見上げてきた。
「いなくならないよ。二か月だけ領都に行って、様子を見てくる。それから、返事をするつもりだ」
「二か月……」
誰もすぐには何も言わなかった。やがて、ミレーヌがふんと鼻を鳴らした。
「行ってきな」
「ミレーヌさん」
「診てから決めるんだろう。あんたの口癖じゃないか。ここで悩んでても、答えは出やしないよ」
老婆はぶっきらぼうに続けた。
「それにね、あんたがいない間のことは、わしらが何とかする。この村は、もうあんたが来る前の村じゃない」
ガルドが低い声で言った。
「領都には、あの伯爵がいる。気をつけろ、カイ殿」
「分かっています」
覚えておこう、と言い残したあの冷たい声を思い出す。カイはうなずいた。
その時、ドルンが無言で立ち上がった。奥から大きな革の包みを持ってきて作業台に置く。
「……これを」
「ドルンさん?」
開くと、使い込んだような色の革の診察鞄が入っていた。中には鉗子、鋏、細い針、小さな刃物がきちんと収まっている。
どれも、これまでにドルンが作ってくれた道具だ。
「旅先で道具が足りなくなるだろう」
ドルンはそっぽを向いた。耳が、赤い。
「持っていけ」
「……ありがとうございます」
カイは鞄を胸に抱いた。重さ以上のものが、そこに詰まっていた。
「リナ」
「はい」
カイは板を一枚手に取って、炭でゆっくりと書いていった。
ここから先は一人で診ない。
・熱が高くて、息が苦しそうな子
・血が止まらない子
・初めて見る症状
・迷った時
リナが板をのぞき込んだ。
「迷った時、も入ってるんですか」
「一番大事なところだよ」
カイはリナを見た。
「呼ぶことは、弱さじゃない。僕が倒れた時、みんなが教えてくれた。ミレーヌさんを呼んでもいいし、手紙で僕に聞いてもいい。迷ったら、必ず誰かを呼ぶ。約束してほしい」
リナは板を両手で受け取った。
「……約束します。毎週、診察の記録を手紙に書いて送ります。わたし、診療所を守ります」
声は震えていた。けれど、目はまっすぐだった。
足元でソラがきゃんと鳴いた。リナの足にぴたりと寄り添う。
* * *
出発の朝はよく晴れていた。
村の入口に、村中の人が見送りに集まっていた。ハンスが大きな手でカイの背中を叩き、トムが「カイ先生、早く帰ってきてね!」と叫ぶ。ミレーヌは薬草を詰めた小さな袋を、押しつけるように渡した。
「使う前に、ちゃんと確かめるんだよ」
「はい。必ず」
トムが、丸めた紙を差し出してきた。開いてみると、下手な絵が描いてある。ソラとモコ、それに診療所。
その下に、大きな字でこう書いてあった。
「かいせんせい がんばれ」
「ぼくが描いたんだ。向こうでさみしくなったら見てね」
「……ありがとう、トム君。大事にするよ」
最後にリナが、少し離れた場所に立っていた。何か言おうとして言えずにいる。カイはリナの前に立った。
「診療所を頼むよ」
「はい。……いってらっしゃい、カイさん」
リナは泣き笑いの顔で手を振った。
馬車が動き出す。村が遠ざかっていく。窓の外で、リナとソラがいつまでも見送っていた。
カイは首から、薄い革のケースを取り出した。これもドルンが、鞄と一緒に作ってくれたものだ。
中には、母竜が贈ってくれた淡い金色の鱗が入っている。
窓から差し込む日差しを受けて、鱗はほんのりと温かかった。
(診てから、決める)
聴診器を握りしめる。二か月後、自分はどんな顔で、この村に戻ってくるのだろう。
二日後の夕方、馬車は領都の城門をくぐった。出迎えたのは、黒い外套のヴェルナーだった。
「来たか」
「お世話になります、ヴェルナーさん」
「……来てくれて、助かる」
ヴェルナーは短く言って、先に立って歩き出した。案内されたのは、魔獣管理局の裏手にある、古い石造りの建物だった。
扉の上に、色褪せた馬の飾りがついている。
「診察室はここだ」
「ここ、ですか」
「元は局の馬屋だ。広くはない。急ごしらえですまないが、作業台と診察台は運び込んである」
ヴェルナーは少し言いにくそうに言った。
カイは建物の中を見回した。窓から夕日が斜めに差し込んでいる。使い込まれた木の柱と藁の匂い。
(村の診療所を、初めて開けた日に似ている)
「十分です」
カイは笑った。
「ここで診られるなら、十分です」
ヴェルナーはわずかに肩の力を抜いた。
「早速で悪いが、最初の患者だ」
扉の向こうから、重たい足音が聞こえてくる。ごとり、ごとり、と。大きな牛が、男に引かれて入口に現れた。
首の周りの皮膚が、赤く擦れて腫れている。
あの日、領都の通りで見かけた牛と同じ傷だった。
(診たい)
あの日はそう思って、何もできなかった。
(今度は、診られる)
カイは診察鞄を、作業台の上に置いた。




