空へ
夜が明けるのを待たずに、一行は歩き出した。ルカは一晩中、眠らなかった。籠の中で、ずっと空を見上げていた。
東の空が、わずかに白み始めている。
「あともう少しだ」
ガルドが先頭で声をかけた。岩場を這うように登る。足元の石ががらがらと崩れる。
「気をつけて、リナ」
「は、はい!」
リナは必死に岩にしがみつきながら進んだ。やがて、視界がぱっと開けた。
「……!」
そこは雲の上だった。一面の真っ白な雲海。その向こうから、朝日がのぼってくる。空が金色に染まっていく。
「きれい……」
リナが立ち尽くした。足元には、広い平らな岩棚が広がっている。苔と小さな花が、風に揺れていた。
「ここが、竜の棲み処か」
イゼルダが静かにつぶやいた。
その時。
ごうと風が鳴った。
雲海の向こうから、巨大な影がゆっくりと浮かび上がってくる。
淡い金色の鱗。広げられた巨大な翼。朝日を浴びて、きらきらと輝いている。
全員が息を止めた。
影は旋回しながら、岩棚に降り立った。
地面がずしんと揺れる。
目の前に竜がいた。
家ほどもある巨大な体躯。金色の鱗が一枚一枚、朝日を反射している。額には一対の長い角。
そしてその瞳は、ルカと同じ金色だった。
「……っ」
ガルドが思わず、剣の柄に手をかけた。
「ガルドさん、待って」
カイが小声で制した。
「違います。この竜は敵じゃない。見てください、目が」
巨大な竜は、じっとこちらを見つめていた。敵意はなかった。ただ、深い悲しみと静かな期待がその瞳に宿っていた。
イゼルダがゆっくりと膝をついた。
「……雲居の竜よ。あなたの子をお連れしました」
声が震えていた。
竜の瞳が、イゼルダからカイの背中の籠に移る。
その瞬間。
ルカが籠の中から、身を乗り出した。
「ぷるるるるる!」
カイは籠をそっと地面に降ろした。ルカは籠から飛び出した。
小さな四本の足で岩の上を走る。転びそうになりながら、それでも必死に前へ。
「ぷる! ぷる! ぷるるる!」
巨大な竜がゆっくりと頭を下げた。大きな鼻先が、ルカの小さな体にそっと触れる。
ルカは母の鼻先に顔をすり寄せた。何度も何度もすり寄せて鳴いた。
「ぐるる……」
巨大な竜が低く喉を鳴らした。
それは世界で一番、優しい声だった。
「……お母さん」
リナが両手で口を押さえた。涙がぼろぼろと溢れて、止まらなかった。
ガルドは剣の柄から手を離した。大きな肩が小さく震えている。
イゼルダは膝をついたまま、母子の姿を見つめていた。頬を一筋の涙が伝っていた。
カイは何も言えなかった。
ただ胸の奥が熱くて苦しくて、そしてとても温かかった。
(……よかった)
(本当によかった)
やがて、巨大な竜が顔を上げた。金色の瞳がカイを見つめ、その視線が、胸元の聴診器に移る。竜はゆっくりと首を傾けた。
何かを確かめるように、聴診器をじっと見つめている。
(この竜も、聴診器を知っているのか)
カイは立ち上がり、竜の前に歩み出た。
「初めまして。僕はカイと言います。あなたの子は元気です。ここまで回復しました」
竜はじっとカイを見ている。その左の脇腹に、古い傷跡があることに気づいた。
鱗が不自然に剥がれ、盛り上がった皮膚が薄い線のように走っている。
(これは)
「もし、よろしければ。あなたの体を診させていただけませんか。その傷が、気になるんです」
竜は動かなかった。
やがて、ゆっくりと瞼を閉じた。許可の合図に思えた。
「ありがとうございます」
カイは聴診器を首から外し、竜の巨大な胸にそっと近づいた。鱗は温かかった。生きている大きな体温が伝わってくる。
銀色の円盤を、鱗の隙間に当てた。
耳を澄ます。
ごおん。
ごおん。
大きな太鼓のような音が響いた。力強く、深くゆっくりと。
(心臓はとても力強い。乱れもない)
次に、脇腹の傷に手を伸ばし指先でそっと触れた。傷は完全に塞がっている。けれど、周囲の皮膚が硬く引きつれていた。
(罠か何かにかかった跡だ。傷そのものは治っているけれど、動きは少し制限されてるかもしれない)
「傷はちゃんと治っています。ただ、少し硬くなっていますね。翼を動かす時に、違和感があるかもしれません」
竜は静かに目を開け、ゆっくりと翼を広げて見せた。
右の翼は大きく広がる。けれど左の翼は、途中で少し引っかかっているようだった。
「やっぱり。でも、飛べないほどではないですね」
カイは微笑んだ。
「ずっと子供を探していたんですね。……よく頑張りました」
竜は深く息を吐いた。その吐息があたたかい風になって、カイの頬を撫でた。
その時だった。
聴診器が、カイの手の中で金色の光を放った。
「……!」
光は今までより、ずっと強かった。竜の巨大な胸と聴診器の間に光の糸が走る。そして、脈を打つようにゆっくりと明滅した。
ごおん、ごおん。
竜の心臓の音と光の脈が、完全に重なっていた。
「竜と聴診器が、共鳴している……?」
イゼルダが息をのむ。
光は数秒で静かに消えた。
竜はゆっくりと頭を垂れた。
巨大な角がカイの目の前まで下りてくる。まるで敬意を示すかのように。そして竜は、自分の首元から何かをついばんだ。
一枚の鱗だった。
淡い金色の、手のひらほどの大きさ。朝日を浴びて、きらきらと輝いている。竜はその鱗を、カイの前にそっと置いた。
「これを、僕に?」
竜は静かに目を細めた。カイは膝をついて、鱗を両手で拾い上げた。温かかった。まだ竜の体温が残っている。
「ありがとうございます。……大切にします」
そっと胸に抱いた。
* * *
別れの時が来た。
ルカは母竜の足元で、ひとりずつ順番に挨拶をした。
最初は、ガルドの前。
「……おう。元気でやれよ」
ぶっきらぼうな声で、大きな手がルカの頭をそっと撫でる。
グレイがルカの顔をぺろりと舐めた。
次に、イゼルダの前。
「……健やかに」
それだけ言った。けれど、その声は震えていた。
そして、リナの前に立った。
「ルカ」
リナは膝をついて両腕を広げた。
ルカはその胸に飛び込んだ。
「ぷるる、ぷるる……」
「うん……うん……ありがとう、ルカ。会えて、本当によかった」
涙が、ルカの金色の鱗にぽたぽたと落ちた。
「元気でね。ずっとずっと、元気でね」
リナはそっと腕を緩めた。
最後に、カイの前に立つ。
ルカは金色の瞳で、カイをじっと見上げた。
「ルカ。君は本当に頑張ったね」
カイは膝をついて、そっと頭を撫でた。
ルカは小さくぷるると鳴いた。
そして、カイの胸元の聴診器に鼻先をちょんと当てた。
「うん。ありがとう」
カイの視界がにじんだ。
「どうか元気で。いつかまた会えたら嬉しい」
ルカは金色の瞳を細めた。
それから、くるりと背を向け母竜の元へ歩いていった。
母竜がゆっくりと翼を広げる。
ルカは母竜の隣に立ち、小さな翼をぱたぱたと動かした。
「ぷる……」
大きく息を吸う。
その場にいた全員が息を止めた。
ルカは地面を蹴った。
ぱっと小さな体が宙に浮いた。
透き通った小さな翼が、朝日にきらきらと輝く。
一回。二回。三回。
羽ばたく。
小さな竜が風に乗った。
「飛んだ……」
リナがかすれた声で言った。
「ルカが飛んだ!」
ルカは母竜の隣を、ふわふわと飛んでいた。
まだ不格好で、危なっかしい飛び方だった。けれど、確かに空を飛んでいた。
母竜が巨大な翼を羽ばたかせる。風がごうと吹き荒れる。
母と子が並んで、空へ舞い上がった。
雲海の上を金色の影が二つ滑っていく。
「……いってらっしゃい」
カイは空を見上げてつぶやいた。
ルカが一度だけ、振り返った。
金色の瞳がこちらを見つめた気がした。
そして母竜と共に、雲の彼方へ消えていった。
* * *
下山の道は静かだった。誰も多くを語らなかった。リナは時々、鼻をすすりながら、空を見上げた。
「……また、会えますか」
ぽつりと尋ねる。
「さあ、分からない」
カイは正直に答えた。
「でも、空を見上げればそこにいるよ」
「はい」
リナは小さくうなずいた。その手にはルカの小さな鱗が一枚握られていた。別れ際に、ルカの背中からふわりと落ちたものだった。
アルム村に戻ったのは、それから数日後だった。村の入口で、トムが待ちかまえていた。
「おかえりなさーい!」
その腕の中から、青い影がぴょんと飛び出す。
「きゃんっ!」
ソラがリナの胸に飛びついた。
「ソラ……! ただいま。ごめんね、寂しかったよね」
ソラはリナの顔を、ぺろぺろと舐め回した。
診療所の前にはミレーヌ、ドルン、ハンス、村長。みんなが集まっていた。
「ちゃんと帰ってきたね」
ミレーヌがぶっきらぼうに言った。
「約束、ちゃんと守ったよ」
「ふん。当たり前だよ」
そう言いながらも、老婆の目は赤かった。
「ルカは」
村長が静かに尋ねた。
「故郷に帰りました。母竜と再会できました」
「そうか。よかった。おかえり、カイ殿」
「ただいま戻りました」
カイは深く頭を下げた。
* * *
その夜。
カイは診療所の窓辺に座っていた。手には一通の手紙。帰りの道中、ヴェルナーから届けられたものだった。
封を切る。
『カイ殿
先日の審問の件、改めて礼を言う。
伯爵の捜査は継続している。黒鱗商会の幹部も数名、拘束された。
規則の付記についても、局内で採択された。「処分の前に診察を経ること」。君が示した形が、正式な規則になった。
そしてもう一つ。
領都の魔獣管理局に、新たな職が設けられることになった。「獣医官」だ。
診察と治療に専念する職で、国として君を正式に招聘したいと考えている。
返事は急がない。ゆっくり考えてほしい。
アルム村の診療所も、君にとって大切な場所だろうから。
ヴェルナー』
カイは手紙を読み終えて、静かに折りたたんだ。窓の外には、星空が広がっている。
(領都の、獣医官……)
胸の奥がざわめいた。
あの街で見た、傷だらけの魔獣たち。
誰にも診てもらえず、道具として使い潰されていく命。
(もし、僕があそこで診ることができたら)
けれど、アルム村にはリナがいる。ミレーヌもドルンもガルドも村のみんなも。
(どうしよう)
カイは手の中の淡い金色の鱗を、そっと窓辺に置いた。
月明かりが鱗を照らす。鱗はほんのりと金色に輝いていた。
まるで遠い空のどこかから、見守ってくれているかのように。
カイは胸元の聴診器を握りしめた。
(診てから、決める。……それが、僕のやり方だ)
窓の外で風がそっと吹いた。
その風の向こうで、小さな竜がどこかで羽ばたいている気がした。
(第2章 完)




