雲居山
審問の翌々日、一行は領都を発った。朝霧の中、城門の前に馬車が止まっている。今度は見送りに来てくれた人が、いた。
「ルカを頼む」
ヴェルナーがカイの前に立った。
「私は領都に残る。伯爵の件の捜査に、立ち会わなければならない」
「分かっています。気をつけてください。伯爵はきっと黙っていません」
「ああ。覚悟の上だ」
ヴェルナーは少しだけ口の端を上げた。
「それよりも君たちのほうが、危険かもしれない。山は人里とは違う」
「ガルドさんと、グレイがいます」
「そうだったな」
ヴェルナーは後ろのガルドを見た。
「ガルド殿。二人を頼みます」
「任せろ」
ガルドは短く、答えた。馬車の隣にはもう一台、小さな馬車が止まっていた。灰色の制服の女性が、御者台の隣に座っている。
「イゼルダさん」
「幻獣保護法では野生返還の際には、担当官の立会いが義務付けられています」
イゼルダは淡々と言った。
「ご同行します。よろしいですね」
「もちろんです。心強いです」
カイは頭を下げた。
イゼルダは小さくうなずいた。けれど、その視線はすでにルカの方へ向いていた。
* * *
北への旅は三日間、続いた。最初の日は緑の、なだらかな丘陵。二日目には草の色が薄くなり、岩がごろごろと見え始めた。
三日目には空気が冷たく澄んでいった。
「寒い……」
リナが毛布にくるまった。
「山に、近づいてるんだよ。空気も薄くなってくる」
「ルカは大丈夫でしょうか」
「うん。ちゃんと温めてあるよ」
荷台の寝床には温かい石が、ずらりと並べられている。けれど、ルカは寝床にはあまりいなかった。
荷台の縁に前脚をかけて、窓の外をじっと見つめている。金色の瞳が遠くの雲を追っていた。
「ルカ、何を見てるの?」
リナが隣に座った。
ルカの視線の先に青く霞む巨大な山並みが見えていた。その中でもひときわ高く、白い雲をまとっている山があった。
「あれが雲居山、でしょうか」
「たぶんそうだね」
ルカの小さな翼が、ぱたぱたと動いた。
「ぷるる……ぷるる……」
低く、柔らかな声で鳴く。それはこれまで聞いたことのない声だった。
「故郷が分かるんだ」
カイがぽつりと言った。
「うん。きっとそうなんだ」
リナの目に涙が浮かんだ。
「よかった。……よかったね、ルカ」
そう言いながら、リナは唇を噛んだ。
* * *
山麓の小さな村に着いたのは、夕方だった。霧に包まれた、石造りの村。家々の屋根には苔が生えている。
「霧の里、というそうだ」
イゼルダが説明した。
「雲居山に最も近い、人の住む村だ。ここから先は馬車では登れない」
村の入口に、眉の白い、背の曲がった老人が立っていた。
「お客人か。こんな時期に、珍しい」
「領都魔獣管理局のイゼルダです。竜の幼体をお連れしました」
「竜……?」
老人は馬車の中を覗き込んだ。ルカが金色の瞳で、老人を見つめ返した。
「……おお」
老人の目が見開かれた。そしてゆっくりと膝をついた。
「雲居の御子じゃ……」
「え?」
「この山の竜の子じゃ。ああ、よくぞ戻ってきなされた」
老人は深々と頭を下げた。村人たちがぞろぞろと集まってくる。みんなルカを見て手を合わせた。
「竜のお帰りじゃ」
「山の守り神が、子を取り戻した」
リナが目を丸くしていた。
「みんな、ルカのことを……」
「この村では竜は守り神なんだ」
イゼルダが静かに言った。
「雲居山の竜は何百年もこの地を守ってきたと、伝えられています」
老人がカイの前に進み出た。
「あんたが、この子を助けてくだすったのか」
「はい。診療所のカイと申します」
「ありがとう。ありがとう……」
老人はカイの手を両手で握りしめた。
「半年ほど前のことじゃ」
老人はゆっくりと語り始めた。
「冬の夜、山の上から、恐ろしい咆哮が響いた。悲しみと、怒りに満ちた声じゃった。それから、竜の姿は見ておらん」
「……」
「だが、あの咆哮は今でも耳に残っておる。きっと子を奪われた母の叫びだったのじゃろう」
カイは胸が締めつけられた。
(やっぱり)
ルカの母は生きている。そしてずっと子を探している。
「お母さんはまだ山に?」
リナが震える声で尋ねた。
「分からん。だが、山の上の雲の上には人が立ち入れぬ岩場がある。竜はそこに、棲んでおるはずじゃ」
老人は遠くの山を見上げた。
「あんたたちがルカを連れて行ってくださるなら、わしらは祈ろう」
* * *
翌朝、一行は徒歩で山に入った。
馬車は村に預けた。
ルカは柔らかな布の籠に入れてカイが背負う。
「ここから先は足場が悪い。慎重に」
ガルドが先頭を歩く。グレイがその隣で、鼻をひくひくと動かしている。道は細く、急だった。
岩と苔と湿った土。
「はあ、はあ……」
リナが息を切らせてついてくる。
「リナ、無理しなくていいよ。休もう」
「いえ、大丈夫です。わたし、最後までルカと一緒に行きたいんです」
リナはぐっと歯を食いしばった。しばらく登ると、霧が晴れてきた。木々の間から日光が差し込む。
その瞬間、背中の籠の中でルカが動いた。
「ルカ?」
カイは籠をそっと降ろした。ルカは籠から、よじ登るように顔を出した。金色の瞳が日光を浴びて、きらきらと輝いている。
鱗がほんのりと光り始めた。これまでの、日光浴の時とは違う。もっと強く、もっと鮮やかな、金色の光だった。
「山に、反応してるんだ」
イゼルダが驚いたように言った。
「雲居山の魔力が、ルカの鱗に響いている」
ルカが翼を広げた。
薄い、透き通った翼が日光に透けて、虹色に輝く。
「きれい……」
リナが息をのんだ。
その時、カイの胸元の聴診器が淡く脈打つように光った。
「……!」
ほんの一瞬のこと。
光はすぐに消えた。
ルカはカイを見上げた。金色の瞳が静かに何かを語りかけているようだった。
(……分かってる。もうすぐ、だね)
カイはそっとルカの頭を撫でた。
その日の夕方、一行は山の中腹の岩場で野営した。焚き火がぱちぱちと燃えている。
イゼルダが鍋で、スープを温めていた。ガルドが岩にもたれて、グレイの背を撫でている。リナはルカを膝に乗せて座っていた。
「ルカ」
小さな声で話しかける。
「もうすぐ、お別れ、だね」
ルカはリナを見上げた。金色の瞳が焚き火の炎を映して揺れている。
「わたし、ルカに会えてよかった」
リナの声が震えた。
「最初はすごく小さくて冷たくて。このまま死んじゃうんじゃないかって怖かった」
「ぷる……」
「でもちゃんと食べて立って歩いて。……すごく頑張ったね」
リナはルカの背中をそっと撫でた。
「お母さんに、会えるよ。きっと。会っていっぱい、甘えるんだよ」
ルカはリナの手に、顔をすり寄せた。その小さな頭が、リナの頬にちょんと触れた。
「うっ……うう……」
リナはルカをぎゅっと抱きしめた。涙が、ぽろぽろと止まらなかった。カイは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
「……帰すのが、一番いい。分かっているんです」
ぽつりとカイが言った。
「それでも寂しい」
「当然だ」
ガルドが低く、答えた。
「誰かを見送るのはいつでも辛い」
「はい」
イゼルダがふと空を見上げた。
「あれは……」
その声に全員が顔を上げた。
夜空に満天の星が瞬いている。
その星々を遮るように。
巨大な影が、ゆっくりと頭上を横切っていった。
「……!」
翼を広げた、巨大な、影。家ほどもある、体躯。月明かりに淡い金色の鱗が、きらりと光った。
「竜だ……」
誰かがかすれた声で言った。その時、ルカがリナの腕の中から顔を上げた。金色の瞳が夜空の影をじっと見つめる。
そして。
「ぷるるるるる……!」
これまでで一番大きな声で鳴いた。その声は山々に響き渡った。
しばらくの、静寂。
遠くの、雲の向こうから。低く、深い咆哮が返ってきた。大地が震えるような重い声。けれど、そこには確かに優しさがあった。
「……お母さんだ」
リナが泣きながら、つぶやいた。
「お母さんが、答えてくれた」
ルカは翼をぱたぱたと動かした。小さな体が、ぶるぶると震えている。
「ぷる、ぷる、ぷるるるる!」
何度も何度も空に向かって鳴いた。カイは胸がいっぱいになった。
(……届いたんだ)
遠い夜空の向こうに母の気配が確かにあった。




