期限の旅
出発の朝は薄曇りだった。診療所の前に、ヴェルナーが用意した、大きな馬車が止まっている。
黒塗りではなく、頑丈そうな茶色の幌馬車だった。
「ルカの寝床はこっちに」
カイが馬車の荷台に柔らかい藁と、布を敷き詰める。その周りに温めた石を布で包んで並べた。
「ルカ、これから少し長い旅になるよ」
ルカは金色の瞳で、カイを見上げた。
「怖くないかい」
ルカはぷるると小さく鳴いた。そしてカイの胸元の聴診器に、鼻先をちょんと当てた。
(大丈夫、って言ってるのかな)
不思議とそんな気が、した。
「リナ、荷物は持った?」
「はい! 記録の板と、道具と、ルカの餌と、日光浴用の布と……」
リナが大きな背負い袋をよいしょと担いだ。
「重そうだね。僕が持とうか」
「だ、大丈夫です! これくらい、持てます!」
リナは胸を張った。
その横で、トムがソラを抱きしめていた。
「ソラはぼくが、預かるよ」
「ありがとう、トム君」
「でも……ソラ、リナ姉ちゃんと離れるの嫌がってる」
ソラはリナに前脚を伸ばして、悲しそうに鳴いた。
「ソラ……」
リナがソラをそっと抱き上げた。
「ごめんね。今度は一緒に行けないの。トム君と、お留守番しててね」
ソラはリナの顔をぺろりと舐めた。
「すぐ、帰ってくるから。約束」
リナはソラをトムに渡した。ソラはじっとリナを見つめていた。その青い瞳が、うるうると揺れていた。
「リナ、行こう」
カイがそっと声をかけた。
「はい」
リナは涙をぐっとこらえて、馬車に乗り込んだ。
村の人たちが見送りに集まっていた。
「気をつけてな、先生」
「ルカを頼んだぞ」
「無事に、帰ってこいよ」
ハンスが大きな手で、カイの肩を叩いた。
「こっちは任せとけ。診療所はミレーヌ婆さんと俺たちで、守る」
「ありがとうございます」
ドルンが無言で、小さな包みをカイに渡した。
「これは?」
「……針と、鉗子の予備だ。旅先で、要るかもしれん」
「ドルンさん……ありがとうございます」
「礼はいらん」
ドルンはそっぽを向いた。
耳が、赤い。
ミレーヌが小さな壺を差し出した。
「蜂蜜の軟膏と、竜に使えそうな薬草をいくつか入れておいた。使う前に、ちゃんと確かめるんだよ」
「はい。必ず」
「それから」
ミレーヌはぶっきらぼうに続けた。
「あんた、また無理するんじゃないよ。ちゃんと寝て、ちゃんと食べな」
「分かりました」
カイは苦笑した。
「約束します」
「ふん。破ったら、承知しないよ」
老婆はくるりと背を向けた。その肩が、少し震えているのをカイは見て見ぬふりをした。
「出発しよう」
ヴェルナーが御者台から声をかけた。ガルドがグレイを連れて馬車の後ろに回る。馬車がゆっくりと動き出した。
「いってきまーす!」
リナが窓から身を乗り出して手を振った。村人たちが手を振り返す。ソラがトムの腕の中で「きゃん」と鳴いた。
その声が遠ざかっていく。
* * *
旅は二日間の、道のりだった。街道は緩やかな丘陵地帯を縫うように続いている。
緑の草原。点在する、小さな林。遠くに青く霞む山並み。
「わあ……」
リナが窓の外を見て、感嘆の声を上げた。
「こんなに遠くまで来たの、初めてです」
「アルム村から、出たことがなかった?」
「はい。生まれてから、ずっと」
リナは少し照れたように笑った。
「ちょっとだけ、わくわくしてます。ルカのことがあるから、不謹慎かもしれないけど」
「そんなことない。わくわくしていいんだよ」
カイは優しく、言った。
「ルカもきっと外の景色が見たいはずだ」
ルカは荷台の縁に前脚をかけて、窓の外を見つめていた。金色の瞳が風に揺れる草原を追っている。
「ルカ、きれいだね」
リナがそっと声をかけた。ルカはぷるると鳴いた。小さな翼がぱたぱたと動く。
(……飛びたいのかな)
カイは胸が締めつけられた。
(必ず、帰してあげよう。この空に)
昼過ぎ、馬車は街道沿いの小さな丘で止まった。
「ここで少し休もう」
ヴェルナーが声をかけた。
「ルカの日光浴の時間だ」
「はい。ありがとうございます」
丘の上の日当たりのいい草地に布を広げる。ルカをそっと降ろした。
「ルカ、今日の日光浴だよ」
ルカは金色の鱗に日光を浴びて、気持ちよさそうに目を細めた。鱗がほんのりと金色に、輝く。
「きれい……」
リナが見とれていた。ガルドが少し離れた場所から、周囲を見張っている。グレイがその足元で伏せていた。
ヴェルナーは馬の世話をしながら、ちらりとルカを見た。
「……不思議な、光景だな」
「何がですか」
「私は今まで、竜が日光を浴びる姿を見たことがなかった」
ヴェルナーはぽつりと言った。
「幻獣は国の財産。その言葉の意味を私はわかっているつもりだった。だが、こうして生きている姿を見ると」
「……」
「財産という言葉がどれほど冷たいものか、思い知る」
カイは何も言えなかった。ただヴェルナーの横顔を静かに見つめていた。
* * *
夕方、馬車は街道沿いの小さな宿場町に着いた。宿の主人はルカを見て目を丸くした。
「り、竜、ですかい……?」
「保護している幼体です。部屋に暖炉と、日当たりのいい窓があれば助かります」
カイが丁寧に頼んだ。
「ご、ございますとも……!」
宿の主人は慌てて、奥の一番いい部屋を用意してくれた。夜、暖炉の火を絶やさないように薪をくべる。
石を温め直す。
リナは旅の記録を板に書いていた。
「今日の日光浴は三十分。餌は跳ね虫を四匹と、練り餌を小さじ一杯。体温は安定。呼吸も問題なし」
「リナ、ありがとう。助かるよ」
「いえ。わたしの、仕事ですから」
リナは板から、顔を上げた。
「カイさん。審問、うまくいくでしょうか」
「分からない」
カイは正直に答えた。
「でも僕たちができることは全部やった。ルカは立てるようになった。自分で、食べられるようになった。それをありのままに見せるだけだ」
「はい」
「それに、一人じゃない。ガルドさんもヴェルナーさんもイゼルダさんもいる。村のみんなも待ってる」
「はい」
リナは小さくうなずいた。ルカは暖かい寝床で、すやすやと眠っていた。金色の鱗が暖炉の火に淡く、照らされている。
翌日の夕方。
馬車は丘を一つ、越えた。その向こうに見えてきた。
巨大な、石の城壁。
その内側にひしめく、屋根、屋根、屋根。空に向かって伸びるいくつもの、塔。
「あれが」
リナが息をのんだ。
「領都、ですか」
「そうだ」
ヴェルナーが静かに答えた。
「あれが、この国の中心だ」
馬車がゆっくりと城壁に近づいていく。カイはルカをそっと抱き寄せた。ルカは金色の瞳で、前方をじっと見つめていた。
その瞳の奥に何かが揺れた気が、した。




