夜の侵入
夜が更けていった。
村は静まり返っている。灯りはほとんど、消えていた。診療所の中にだけ暖炉の火が、小さく揺れている。
カイはルカの寝床の隣に座っていた。毛布を肩に掛けて、眠らないように目を開けている。ソラもルカの隣で、丸くなっている。
けれど、その耳はぴくぴくと動いていた。
「ソラ?」
小さく声をかけた。
ソラが顔を上げた。
青い瞳が、窓の方をじっと見ている。
(何か、いるのか)
カイは息を殺した。
静寂。
風の音。
遠くで虫が鳴いている。その中にごくかすかな、ざりという音が混じった。
(来た)
カイは立ち上がった。ルカをそっと抱き上げる。骨に負担がかからないように胴体全体を両手で支えた。
「ルカ、静かにね」
ルカは金色の瞳を大きく開けて、カイを見上げた。怯えてはいなかった。ただ何かを感じ取っているように、じっと見つめていた。
その時。
きいと窓の木戸が、わずかに動いた。
黒い影が窓の隙間から、すうっと滑り込んできた。
一つ。二つ。三つ。
全員が黒い布で、顔を覆っている。手には麻袋と細い縄。
(やっぱり)
カイは素早く診察台の影に身を隠した。影の一人が、ルカの寝床を覗き込んだ。
「いない」
「どこだ」
「探せ」
低い声が飛び交う。
その時、ソラが跳ねた。
「きゃんっ!」
小さな体で、影の一人の足に飛びついた。
「うわっ、なんだ、この犬……!」
「構うな! 竜を探せ!」
影がソラを蹴り払おうとする。
「やめろ!」
カイは思わず、飛び出していた。ルカを片腕でしっかりと抱きしめて、もう片方の手で近くにあった、木の桶をつかむ。
「そこに、いやがった!」
影の一人がカイに向かって突進してきた。
「渡せ!」
縄がぶんと振られる。
(まずい)
とっさに桶を投げつけた。
がんと鈍い音。
影がよろめく。
「このっ……!」
別の影が背後から、カイの腕をつかんだ。
「くっ……!」
ルカがカイの腕の中で、びくりと震えた。
(骨がまだ弱い。強く、握られたら、折れる)
カイは必死に体を丸めて、ルカをかばった。
「離せ!」
「渡せばいいんだよ、そのガキを!」
ぎりと腕に爪が食い込む。
もうだめかと思った瞬間。
扉がばんと開け放たれた。
「そこまでだ」
低い声が診療所に響き渡った。
ガルドだった。
その後ろからグレイが牙を剥いて、飛び込んでくる。
「ぐおおおっ!」
グレイが影の一人に飛びかかった。
「ぎゃあっ!」
大柄な体が、床に叩きつけられる。ガルドがカイをつかんでいた影の腕をぐいとひねり上げた。
「ぐっ、いてえ!」
「離せと、言われただろう」
ガルドの声は静かだった。けれど、その手には鋼のような力が込められている。影は悲鳴を上げてカイから手を離した。
「ガルドさん!」
「無事か、カイ殿」
「はい、ルカも無事です」
カイはルカをそっと確かめた。骨に異常はないようだった。ただ小さな体が、ぶるぶると震えている。
「大丈夫。もう、大丈夫だよ」
ルカはカイの胸に顔をうずめた。三人目の影が慌てて、窓の方へ逃げようとした。
「待て!」
ガルドが追いかけようとしたその時。
カン、カン、カン、カン!
外から、甲高い鐘の音が響き渡った。
「泥棒だ! 泥棒が、入ったぞー!」
リナの声だった。
村の鐘楼の鐘を力いっぱい叩いている。あちこちの家の灯りが、ぱっぱっと点いた。
「何事だ!」
「診療所だ!」
村人たちが鍬や棒を持って、わらわらと駆け出してくる。
「くそっ、引き上げるぞ!」
窓際の影が叫んだ。
残った影の一人が窓から飛び出した。もう一人も後を追う。
「逃がすか!」
ガルドが窓から、飛び出そうとした。
「ガルドさん、待って!」
カイが叫んだ。
「ここに一人、残ってます!」
グレイに押さえつけられた影が、床に伏せている。その腕をガルドがぐいとつかんで立たせた。
「こいつは確保した」
「ぐ、くそっ……」
覆面が剥がれる。
現れたのは荒んだ顔つきの若い男だった。
「ゼルクの手下、か」
「し、知らねえ、おれはただ雇われただけで……!」
「その話は後で、聞こう」
ガルドが縄で、男の両手を縛り上げた。そこへ、村人たちがどっと駆け込んできた。
「先生、大丈夫か!」
「カイ先生!」
ハンス、ドルン、トム、ミレーヌ、村長。みんなが血相を変えて、診療所に集まる。
「大丈夫です。竜も無事です」
カイが言うと、村人たちがほうっと息を吐いた。
「よかった……」
「いったい誰が、こんなことを」
「荷馬車の商人の仲間じゃ」
村長が杖を握りしめた。
「ゼルクとやらは?」
「逃げた。荷馬車ごと、消えていた」
ガルドが苦い顔で言った。
「手下が、時間を稼いでいる間に、遠くへ逃げたんだろう」
* * *
夜が明けた。
診療所の床に割れた桶の破片が、散らばっている。リナが箒で掃き集めていた。その目は赤く、腫れている。
「リナ、ありがとう。鐘を鳴らしてくれて」
「ううん。わたし、何もできなくて……」
「そんなことない」
カイはリナの頭に手を置いた。
「あの鐘が、みんなを呼んでくれた。あれがなかったら、逃げられてたかもしれない」
「本当ですか」
「うん。リナのおかげだ」
リナはぐしゃりと顔を歪めて泣き出した。
「こ、怖かった……ルカが連れて行かれたら、どうしようって……」
「うん。僕も怖かった」
カイはそっとリナを抱き寄せた。その腕の中で、ルカがぷるると小さく鳴いた。ソラがルカの傍らで、ぴったりと寄り添っている。
「ソラもありがとう。ルカを守ろうとしてくれて」
ソラは誇らしげに胸を張った。ガルドが診療所の入口に立っていた。腕に赤い、擦り傷がある。
「ガルドさん、傷が」
「大した傷じゃない。ただの、擦り傷だ」
「手当てします。座ってください」
「……」
ガルドは少しばつの悪そうな顔で、椅子に腰を下ろした。カイは傷を洗って薬を塗り布を巻いた。
「ありがとうございます。助けていただいて」
「礼はいらん」
ガルドは短く、言った。
「あの子を守りたかっただけだ」
窓の外で朝日が、昇り始めていた。縛られた男は納屋の隅で、うなだれている。
(この男から、何か聞き出せるかもしれない)
カイは窓の外を見つめた。その時、遠くから馬の蹄の音が近づいてきた。
「……誰か、来る」
ガルドが立ち上がった。道の向こうから、黒塗りの馬車が土煙を上げて走ってくる。黒い外套の男が、御者台に座っていた。
ヴェルナーだった。




