旅の商人
その日、アルム村に一台の荷馬車がやって来た。幌のついた、大きな荷馬車だった。車輪には遠くの土埃が、こびりついている。
「はいはい、旅の商人でございますよ! 北の街道の珍しい品々を、お持ちしました!」
御者台から陽気な声が響いた。降り立ったのは四十歳前後の、小柄な男だった。
丸い顔に、人懐っこい笑みを貼りつけている。派手な色の上着を着て、腰には小さな革袋をいくつも下げていた。
「ゼルクと申します! 薬草に布に、細工物。どれもお安くしておきますよ!」
村の女衆が、わらわらと集まってきた。荷馬車の荷台が開かれる。色とりどりの布、小さな木彫りの人形、干した薬草の束。
「あら、きれいな布だこと」
「まあ、この人形、かわいい」
子供たちも歓声を上げて駆け寄った。ゼルクはにこにこしながら、小さな飴玉を子供たちに配って回った。
「ほら、坊や。一つ、あげよう」
「わあ、ありがとう!」
トムもその輪の中に、いた。
「おじさん、いい人だね!」
「ははは、そうかい。ありがとうよ、坊や」
ゼルクの目がほんの一瞬、きらりと光った。
* * *
「カイさん、荷馬車の人、来てますね」
診療所の窓から、リナが外を覗いていた。
「うん。旅の商人は時々、来るらしいね」
「でもあの人、ちょっと変じゃないですか」
「変?」
「さっきから、何度もこっちを見てるんです。診療所の窓を」
カイは窓の外に目をやった。確かに荷馬車のそばで、客と話しながら、ゼルクの視線が時々診療所の方へ流れてくる。
「気のせいかもしれないけど」
「ううん。リナの観察眼は信じてる」
カイはうなずいた。
「ルカを庭に出すのはしばらくやめておこう。念のため」
「はい」
その時、扉がぎい、と開いた。
「失礼するよ」
ゼルクが立っていた。にこにこと愛想のいい笑みを浮かべたまま。
「おや、ここが噂の魔獣の診療所ですか。立派なものですねえ」
「ご用件は?」
カイはさりげなくリナとルカの前に立った。
「いやいや、特別な用事はありませんよ。ただ、噂を聞きましてね。ここに珍しい竜がいると」
「竜?」
「ええ。小さな、金色の竜の子が。ぜひ、一目見せていただけないかと」
笑顔は崩れない。
けれど、その目の奥に何か冷たいものが見えた気がした。
「申し訳ありません。竜は治療中で、安静が必要です。お見せすることはできません」
「そうですか。それは残念だ」
ゼルクは肩をすくめた。
「でもちょっとだけ、遠くから拝見するだけでも」
「お引き取りください」
カイの声が少し低くなった。ゼルクは一瞬だけ、笑顔を消した。それから、またすぐに愛想のいい顔に戻った。
「分かりました、分かりました。失礼しました」
軽く頭を下げて出ていった。
扉が閉まる。
「カイさん」
「うん。気をつけよう」
その頃、村の広場ではミレーヌがゼルクの荷台をじっと眺めていた。
「おや、お婆さん、薬草をお求めで?」
「ああ。ちょっと見せてもらうよ」
ミレーヌは干した薬草の束を一つ手に取った。鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。指で葉を揉んでみる。
「ふん」
「いかがです? 北の山で採れた、上等な薬草ですよ」
「北の山、ねえ」
ミレーヌは薬草を荷台に戻した。
「この匂い。確かに北の薬草だ。……だが妙だね」
「妙と申しますと」
「北の山の薬草はもっと湿った匂いがするはずなんだよ。これはずいぶん、乾いてる。長いこと馬車に揺られて、運ばれてきたんだね」
「ええ、遠くから運んできましたからね」
「それにしては、この山の薬草がやけに高い場所のものだ」
ミレーヌの目が細くなった。
「あんた、雲居山の近くを通ってきたんじゃないのかい」
ゼルクの笑顔がほんの一瞬固まった。
「いやあ、どうでしょうねえ。商売であちこち、回ってますから」
「そうかい」
ミレーヌはそれ以上、追及しなかった。ただ静かにゼルクを見つめていた。その背後でグレイが低く唸り始めた。
「グレイ?」
ガルドがはっとして相棒を見た。グレイは荷馬車の幌の方をじっと睨んでいた。
毛が逆立っている。
「どうした、グレイ」
グレイは荷馬車の後ろの方へ、ゆっくりと近づいていく。鼻をひくひくと動かして、地面の匂いを嗅いだ。
「……血の匂い、か?」
ガルドの目が鋭くなった。荷馬車の後ろの床板に、茶色く乾いた染みがあった。
「おや、旦那、どうなさいました」
ゼルクが駆け寄ってきた。
「いや、グレイが荷馬車に興味を示してな」
「ああ、うちの荷には肉の干物もありますから。それの匂いでしょう」
「そうか」
ガルドはそれ以上、何も言わなかった。けれど、グレイをそっと自分の傍らに引き寄せた。
「グレイ、行くぞ」
ガルドは荷馬車から離れた。ゼルクの視線が、その背中に突き刺さっていた。
* * *
夕方、ガルドとミレーヌが診療所に集まった。
「あの商人、怪しい」
ガルドが低い声で言った。
「荷馬車に、血の染みがあった。グレイが異様に警戒していた」
「薬草もおかしいよ。あれは雲居山の薬草だ。そこの近くを通ってきた人間だよ」
ミレーヌが続けた。
「それに、診療所の窓を何度も見てたんです」
リナも不安そうに言った。
「間違いないな」
カイは静かに言った。
「ルカを狙ってる」
重い沈黙が落ちた。
「黒鱗商会、か」
ガルドがつぶやいた。
「あの金具の持ち主。ルカを取り返しに来たのか」
「その可能性は高いですね」
カイは窓の外を見た。村の広場の、はずれ。荷馬車が夕日の中に黒々と、影を落としている。
「ガルドさん、お願いがあります」
「分かっている」
ガルドはぐっと拳を握った。
「今夜から、見張ろう。俺とグレイが」
「ありがとうございます」
「ルカは渡さん」
ガルドの声は静かだった。けれど、その中に鋼のような決意があった。
窓の外で日が沈んでいく。
長い夜が始まろうとしていた。




