一歩
ヴェルナーが領都に戻ってから十日が過ぎた。ルカの回復は順調だった。
朝は日光浴。
昼は虫と練り餌。
午後はソラと一緒に庭でごろごろ。
顎の骨はほとんど、元の硬さを取り戻していた。体重も保護された時から、倍近くになっている。
「カイさん、見てください!」
ある朝、リナがルカの寝床を指さした。ルカが前脚で、体をぐっと持ち上げていた。
「……!」
上半身がわずかに起き上がる。金色の瞳が必死に、前を見つめている。けれど、後ろ脚がついてこない。
腰がぺたりと床についたまま。
「ルカ、頑張れ!」
ソラがそばで飛び跳ねた。ルカはふるふると震えながら、体を支えていた。やがて力尽きて、ぺたんと倒れ込んだ。
「あ……」
「大丈夫、大丈夫」
リナがそっと撫でる。
「惜しかったね。もう少しだよ」
ルカは悔しそうに、ぷるると鳴いた。
「リナ、今日は一つ、お願いがある」
昼過ぎ、カイがリナを呼んだ。
「はい、何でしょう」
「ルカの診察をリナに任せたい」
「え!?」
リナは目を丸くした。
「わ、わたしがですか」
「うん。僕は横で見てる。口は出さない。リナが自分の目と手で、ルカの状態を確かめて、診断をつけてみて」
「で、でもまだ自信が……」
「大丈夫。リナなら、できる」
カイはリナの目をまっすぐ見た。
「何度も一緒に診てきたでしょう。ルカのことはリナが一番よく知ってるはずだ」
リナはぐっと唇を結んだ。そして首の木製聴診器を握りしめてうなずいた。
「やってみます」
診察台にルカをそっと乗せる。リナは深呼吸をした。手を洗い、ルカの前に膝をつく。
「ルカ、診察、するよ。ちょっとだけ、我慢してね」
声は少し震えていた。けれど、手つきは丁寧だった。まず、聴診器を胸に当てる。
「心臓は規則正しいです。呼吸も安定してる」
次に、顎。
指先でそっと触れる。
「顎はほとんど締まってます。たわみは感じません」
前脚。
骨の太さ、筋肉の張りを確かめる。
「前脚は力があります。曲がりもほとんどなくなってる。傷もきれいに、塞がってます」
後ろ脚。
リナの手が止まった。慎重に骨に沿って、指を這わせていく。
「後ろ脚は……まだ少し細いです。外側に、わずかに曲がってる。筋肉も前脚ほどじゃない」
「うん」
「だから、立てないのは後ろ脚の力が足りないから。骨はだいぶ締まったけど、筋肉が追いついてない」
リナは顔を上げた。
「あの……間違ってないですか」
「完璧だよ」
カイはにっこりと笑った。
「その通りだ。骨が先に強くなって、今は筋肉を育てる時期なんだ」
「やった……!」
リナの顔がぱっと輝いた。
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
「えっと……少しずつ後ろ脚を動かす練習をさせたい、です。でも無理をしないように」
「うん。具体的に、どうする?」
「お腹の下を布で支えて、後ろ脚だけに少しだけ体重をかけさせる、とか」
「いい考えだ。やってみよう」
* * *
その日の午後から、立つ練習が始まった。庭に柔らかい布を広げる。
リナがルカのお腹の下に、細長い布を通して、ゆっくりと持ち上げた。
「ルカ、立ってみよう」
後ろ脚が地面に触れる。ルカの体がぷるぷると震えた。
「そのままそのまま。少しずつ力を入れて」
ソラがルカの前で跳ねた。
「ほら、こっちにおいでって言ってるよ」
ルカが前脚を動かす。後ろ脚が、ほんの少し踏ん張った。
「いいよ、いいよ!」
トムが拍手をした。
けれど、すぐにルカの体がぐらりと傾いた。
「あっ」
リナが素早く布で支える。
「大丈夫。今日はここまでにしよう」
ルカはぜえぜえと荒い息をついた。そして悔しそうに、リナを見上げた。
「ごめんね、焦らせちゃったね。明日、また、やろう」
リナが優しく、背中を撫でた。それから、毎日、練習が続いた。朝と夕方。一回、五分ほど。少しずつ時間を延ばしていく。
三日目、ルカは布の支えなしで一瞬立った。
五日目、十秒、立った。
そして七日目の夕方。
* * *
夕日が庭を赤く染めていた。村人たちがいつの間にか集まっている。ハンスもミレーヌもドルンもトムもガルドも。
ルカの練習を見守るのが、いつしか村の日課になっていた。
「ルカ、今日もやってみよう」
リナがそっと布を外した。ルカは地面に、四本の足をついていた。ふるふると震えている。金色の瞳が前をまっすぐ見つめている。
「頑張れ、ルカ」
誰かが小さな声で言った。ルカはぐっと後ろ脚に力を込めた。
膝が伸びる。
腰が持ち上がる。
お腹が地面から、離れる。
「……!」
誰も息をしなかった。
ルカは立っていた。
四本の足で、しっかりと地面を踏みしめて。
一秒。
二秒。
三秒。
小さな体は揺れながらも倒れなかった。
「……立った」
リナがかすれた声で言った。
「立った、立った……! ルカが立った!」
リナの目から、大粒の涙がこぼれた。
「ルカ……! すごい、すごいよ……!」
ルカは金色の瞳をまん丸にして、周りを見渡した。
そして一歩。
前脚を踏み出す。
続いて後ろ脚がついていく。
「歩いた!」
トムが飛び跳ねた。
「ルカが歩いたぞー!」
村人たちから、わっと歓声が上がった。ハンスが帽子を投げた。ガルドが豪快に笑った。ドルンがそっぽを向いて目をこすった。
ミレーヌがふんと鼻を鳴らしながら、袖で目元を拭った。ルカはゆっくりと一歩、また一歩歩いた。
ソラがその横を嬉しそうに並んで歩く。
「ルカ……」
リナがルカの前に膝をついた。ルカはリナの顔に、小さな鼻先をちょんと当てた。
「うん……うん……!」
リナは泣きながら、笑っていた。カイは少し離れた場所から、その光景を見守っていた。
(……ここまで、来た)
胸が熱くなる。
(あと少しだ)
期限まで残り、約二週間。自力で立つ。自力で食べる。その二つはもう、クリアできたと言っていい。
けれど。
その時、カイは気づいていなかった。
村の外れの、木々の陰から、じっとこちらを見つめる一対の目があったことに。




