鎖の跡
ルカの左前脚の傷は、まだ赤黒い線のまま残っていた。
「今日はこの傷をちゃんと診よう」
カイは診察台の上に、ルカを寝かせた。隣でリナが道具を並べていく。
「清潔な布と煮沸した塩水と蜂蜜の軟膏。それから、細い綿棒」
「うん、ありがとう」
ルカはおとなしく体を預けていた。日光浴と食事のおかげで体力が戻り、以前のような怯えた様子もなくなっている。
「ルカ、少しだけ我慢してね」
リナが前脚をそっと支える。カイは傷の周りをぬるま湯で拭った。こびりついた汚れを丁寧に落としていく。
「古い傷だね。皮膚が一周、擦れてる」
「鎖、ですよね」
「たぶん。細い金属の輪で、長い間繋がれていたんだと思う」
傷の表面はすでに治りかけていた。でもその下の皮膚が、硬く盛り上がっている。
「ここが特に深い」
カイは指先で、そっと傷の線をたどった。まず、熱を持っていないか。手の甲を近づけて確かめる。次に、腫れ。膿。傷の縁の色。
どれも悪くなかった。
(感染はしてない。あとは、毎日きれいにしておけば大丈夫だ)
「何度も擦れて、治って、また擦れて。そういう傷だ」
「……ひどい」
リナの声が震えた。
「こんなに小さいのに」
「うん」
カイは塩水で傷を洗い、軟膏を薄く塗った。清潔な布で軽く覆う。
「リナ、巻いてみる?」
「え、わたしがですか」
「うん。きつすぎず、緩すぎず。指が一本入るくらい」
リナは唾を飲み込んでから、布を手に取った。ゆっくり慎重に、前脚へ巻いていく。
「こう、ですか」
「そう。いいよ。動かしてみて」
ルカが前脚を曲げ伸ばしする。布はずれなかった。
「できた……!」
「うん。よく頑張ったね。リナもルカも」
そっと背中を撫でると、ルカは小さくぷるると鳴いた。
* * *
昼下がり、庭は日差しでぽかぽかしていた。
「カイ先生ー! 虫、いっぱい捕ってきたよ!」
トムが、虫籠を抱えて駆け込んでくる。ルカは待ちきれないように、籠の前でぴょんと跳ねた。
「待て待て。順番」
ソラが先に一匹をくわえて、ルカの前にぽとりと落とす。
「ぷる?」
「食べていいよ、ってことかな」
ルカは虫をぱくりと食べた。ソラが誇らしげに胸を張る。
「ソラ、えらいぞ」
「きゃん!」
カイは縁側に腰かけて、記録の板を開いた。食事の量。排泄。傷の経過。
そして、日数。
(期限まで、あと三週間ちょっと)
領都から来たイゼルダは言った。一か月以内に歩行と自力での摂食を示せ、と。食べることはもうできる。けれど、歩くことは。
ルカはまだ、自分の足で立てなかった。前脚で体を持ち上げるところまでは来ている。後ろ脚が、まだ体重を支えきれない。
触ると、肋骨の浮きは減っていた。顎の骨も、少しずつ締まってきている。
それでも、骨が変形した脚で立つには、時間が足りないかもしれない。
「カイさん」
リナが隣に座った。
「ルカ、焦ってないですよね」
「うん?」
「虫を食べてる時の顔、すごく穏やかです」
視線の先で、ルカがソラと並んで日向ぼっこをしていた。
「そうだね。焦ってるのは、僕のほうだ」
「大丈夫ですよ。ルカは、ちゃんと前に進んでます」
リナは笑った。
(いつの間にか、励まされる側になってるな)
カイは小さく笑い返した。
* * *
異変に気づいたのはその夜だった。ルカの寝床の布を洗い替えるために、リナが古い布を広げていた。
「カイさん、ちょっと来てください」
「どうした」
「布の折り目の中に、何か挟まってます」
リナが指でつまみ上げたのは、小さな金属の欠片だった。親指の爪ほどの大きさ。
薄い銀色の板のような形で、端が折れ曲がっている。
「留め具、かな」
「足輪の一部かもしれない」
カイは欠片を手のひらに乗せた。暖炉の火の明かりにかざす。表面に、細かい模様が刻まれていた。
「これ……」
目を凝らす。
逆さまになった鱗の形。三枚の小さな鱗が、下向きに並んでいる。
「紋章、ですか」
「たぶん」
(どこかで見た覚えが……いや、違う。初めて見る形だ)
けれど胸の奥で、嫌な予感がかすかに広がった。
「ヴェルナーさんに見てもらおう」
「はい」
* * *
翌日の昼、ヴェルナーが診療所に顔を出した。
「これを見てもらえませんか」
カイは小さな金具を差し出した。ヴェルナーはそれを受け取った。紋章を見た瞬間、その表情が凍りついた。
「これは」
「ご存じなんですか」
「逆さの鱗。……黒鱗商会の印だ」
低い声だった。
「黒鱗商会?」
「幻獣の密猟と密売を手がける組織だ。領都でも名前だけは噂されている」
ヴェルナーは金具を握りしめた。
「二週間前の摘発でも、捕まえられたのは現場にいた下っ端だけだった。黒幕にはたどり着けなかった」
「じゃあ、この金具は……」
「重要な証拠になる。ルカの足輪の一部が、商会の印を持っているのだから」
ヴェルナーは顔を上げた。
「この金具は私が預かる。領都に戻って調べる。しばらく村を離れることになる」
「分かりました。ルカのことは任せてください」
「頼む」
ヴェルナーは短く言った。その時、後ろから低い声が聞こえた。
「黒鱗商会、か」
ガルドだった。
扉にもたれて腕を組んでいる。
「聞いたことがある。昔、傭兵だった頃にな」
「ガルド殿」
「北の山岳地帯で幻獣を狩る一団がいる、と。連中は親の竜から子を奪うために、罠を張るそうだ」
「……親から、子を」
カイの胸が、ずしりと重くなった。
「ルカのお母さんは」
「分からない。生きているのかどうか」
ガルドは静かに首を振った。
「だが、その手口なら、親もただでは済まなかったはずだ」
静寂が降りた。
ルカは診療所の隅で、ソラとじゃれ合っていた。小さな翼をぱたぱた動かして、楽しそうに跳ねている。
(この子は、お母さんと引き離された)
カイはその姿を見つめた。
(帰してあげなきゃ。必ず)
夕方、ミレーヌが診療所に立ち寄った。
「ルカの鱗をもう少し見せてもらえるかい」
「はい。どうぞ」
老婆はルカの背中の鱗を、じっと観察した。老眼鏡の代わりの水晶の道具を目に当てる。
「この淡い金色。それに、鱗の縁の白っぽい線」
「何か分かりますか」
「昔、薬を探しに北へ行った時に、似た色の竜の鱗を見たことがある」
ミレーヌはゆっくりと言った。
「雲居山の竜だよ。霧の峰に棲む、淡い金の竜。ここよりずっと北、馬車で何日もかかる山さ」
「雲居山……」
「その山の竜は特に、日光を好むと聞く。普段は雲の上で、日向ぼっこをしてるらしい」
(日光を好む竜)
だからこそ、暗い木箱の中は致命的だったのだ。
「ミレーヌさん、ありがとうございます。ルカの故郷が分かりました」
「ふん。年寄りの昔話さ」
そう言いながらも、ミレーヌはルカの頭をそっと撫でた。
「……帰れるといいね」
「はい」
カイはしっかりとうなずいた。窓の外で、夕日が山の方を赤く染めていた。
その遠く遠くの向こうに、ルカの帰る場所があるのだ。




