領都からの使者
朝から、診療所の中は落ち着かなかった。リナは記録の板を何度も並べ直している。トムは庭の隅を必要もないのに掃いていた。
「リナ、そんなに緊張しなくてもいいよ」
「だ、だって、領都の担当官さんですよね。竜を処分するかどうか決める人……」
「うん。でも僕たちにできるのはルカの回復をありのままに見せることだけだ」
カイは寝床のルカをそっと撫でた。
保護から、二週間。
顎の骨はずいぶん、締まってきた。体重も毎日、少しずつ増えている。跳ね虫を自分で捕まえて食べる。
甘い実の汁を舌でぺろぺろと舐める。最初の日の冷えきった体が、嘘のようだった。
(大丈夫。見てもらえば、分かる)
そう、自分に言い聞かせた。
「来ました」
窓際にいたガルドが低い声で言った。
「馬車だ。灰色の」
* * *
村の入口に、灰色に塗られた馬車が止まっていた。
扉が開く。
最初に降りてきたのはヴェルナーだった。黒い外套の彼はいつもより、さらに表情が硬い。続いて女性が一人、降り立った。
三十代だろうか。
灰色の制服をきっちりと着込み、長い髪を後ろで一つに束ねている。
手には革の書類鞄。背筋はヴェルナーに負けず劣らず、まっすぐだった。後ろに兵が三人、従っている。
「アルム村ですね。村長はどなたですか」
通る声だった。
「わしが村長じゃ」
「領都魔獣管理局、幻獣担当官のイゼルダと申します。突然の来訪をお詫びします」
丁寧な口調だった。
けれど、その目は鋭く村の様子を観察している。
「まず、保護個体の確認を。案内をお願いします」
「診療所はこちらじゃ」
村長が杖で診療所を示した。イゼルダはうなずいて歩き出した。その横にヴェルナーが無言で、並ぶ。
「ヴェルナー殿」
歩きながら、イゼルダが静かに言った。
「あなたが、二週間前に、倉庫から竜を連れ出したご本人ですね」
「はい」
「担当官の判断を覆し、許可なく個体を移送した。立派な越権行為です」
「承知しています。処分は受けます」
「その話は後にしましょう。まず、竜を見てから」
イゼルダはそれ以上、何も言わなかった。ヴェルナーの横顔が、わずかに強張っているのをカイは見た。
診療所の中は静まり返っていた。暖炉の脇にルカの寝床。そのそばに、ソラがちょこんと座っている。
「こちらがルカです」
カイがそっと手を向けた。イゼルダは立ち止まった。ルカは目を開けて、金色の瞳でイゼルダを見た。そして少しだけ首を傾げた。
「……」
イゼルダの表情が、わずかに変わった。
(息をのんだ)
それはほんの一瞬だった。けれど、カイには分かった。
「触れても構いませんか」
「はい。ゆっくりお願いします。骨がまだ弱いので」
イゼルダは鞄を床に置いた。膝をついて、そっとルカの体に手を伸ばす。竜の扱いには慣れているようだった。
胴体を両手で静かに支える。顎には触れない。脚にも無理な力をかけない。
(やっぱり、この人は竜を知ってる)
「体温は安定していますね。呼吸も悪くない」
イゼルダは冷静に、状態を確かめていく。
「顎は締まりつつある。脚はまだ曲がっているけれど腫れはない。鱗は剥がれた部分が、再生し始めている」
「はい。日光浴とカルシウムの補給で回復しています」
「診断は?」
「代謝性の骨疾患、だと考えています。長期間、日光を浴びず、適切な餌を与えられなかったことが原因です」
「根拠は」
「顎と脚の骨の軟化、鱗の状態、低体温。それから、治療に対する反応です」
カイは淡々と説明した。
「幻獣の竜に、この病気の前例はありません。ですが、似た症例を他の動物で見てきました。同じ考え方で、治療を組み立てました」
「他の動物で見てきた、ですか」
「はい。経験があります」
イゼルダはカイをじっと見た。
「記録は?」
「こちらです」
リナが板を差し出した。日ごとの体重、食事の量、日光浴の時間、骨の状態の変化。
リナの丁寧な字で、びっしりと書き込まれている。イゼルダは板を受け取った。一枚、一枚、ゆっくりと目を通していく。
長い沈黙が流れた。
ソラがそっとイゼルダの足元に近づいた。鼻先で、制服の裾をふんふんと嗅ぐ。
「この記録はあなたが?」
イゼルダがリナを見た。
「は、はい。わたしが書きました」
「この年齢で、これだけ正確に」
「えっと……カイさんに、教えてもらったので」
「そう」
イゼルダは短く、うなずいた。その目がほんのわずかに柔らかくなったように見えた。
診察が終わると、全員が診療所の作業台を囲んだ。イゼルダは書類鞄から、一冊の分厚い冊子を取り出した。
「幻獣保護法です。第七条を読みます」
「はい」
「『幻獣は国の財産であり、その保護は国の責務である。ただし、重度の衰弱または疾病により、回復の見込みがないと判断された個体については苦痛を長引かせないために処分を認める』」
「……」
「今回の個体は保護時に、担当官が、回復の見込みなしと判断しました」
ヴェルナーの肩が、ぴくりと動いた。
「しかし、現在の状態を見る限り、その判断は再検討の余地があります」
イゼルダは冊子を閉じた。
「私はこう考えます。一か月の猶予を与えます」
「一か月……」
「一か月以内に、次の二つを示してください。一つ、自力で立ち上がること。二つ、自力で食事を摂ること」
イゼルダはカイをまっすぐに見た。
「この二つが確認できれば、保護の継続を認めます。診療所での療養も許可します」
「できなかった場合は」
「領都の施設に、収容します。そこで、改めて、判断します」
(……収容。事実上の、隔離。そして、処分の可能性もある)
カイは唾を飲み込んだ。
「ヴェルナー殿」
イゼルダが振り向いた。
「あなたの越権行為の報告は私の机で止めておきます。竜の回復が確認できれば不問とします」
「……!」
ヴェルナーが目を見開いた。
「ただし、回復が確認できなければ、あなたの処分も避けられません」
「承知しました」
ヴェルナーは深く頭を下げた。
「寛大な措置に、感謝します」
「寛大ではありません」
イゼルダは静かに言った。
「結果を見ているだけです」
* * *
帰り際、イゼルダは診療所の戸口で足を止めた。
ルカを振り返る。
小さな竜はソラの隣で、金色の瞳を静かにこちらに向けていた。
「……美しい鱗ですね」
ぽつりとイゼルダがつぶやいた。
「幼体の竜は領都でもほとんど見られません。まして、こんなに澄んだ色は」
「はい」
「死なせたくはない」
その声はほとんど、独り言のようだった。
「私にもそう思う気持ちはあります。ただ、規則の枠の中で動くしかありません」
「分かります」
カイは静かに答えた。
「だから、規則の中でできる限りのことをやります」
イゼルダは少し驚いたようにカイを見た。それから、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「期待しています」
灰色の馬車が遠ざかっていく。その後ろ姿を見送りながら、リナが小さくつぶやいた。
「一か月……」
「うん」
「できる、ですよね」
「やるよ。一緒に」
カイはリナの肩に手を置いた。ルカが診療所の中から、ぷるると小さな声で鳴いた。




