診療所をはじめよう
「あんた、名前は?」
白い髭の老人が、杖に体重を預けたまま尋ねた。この村の長老らしい。男たちが「村長」と呼んでいる。
「カイです」
とっさにそう名乗った。前世の名前の、最初の一音だけを取った名前だった。
「カイ殿か。わしはこのアルム村の長をしておる」
村長はリナの腕の中で眠るソラに目を向けた。
「魔獣の脚を本当に治せるのか」
「治る可能性は高い、というところです。まだ分かりません」
「そうか」
村長は小さく息を吐いた。
「この国ではな、魔獣は戦うか、害をなすか、どちらかじゃ。傷を負えば、処分する。それが当たり前じゃった」
「回復の魔法は?」
「人間のためのものじゃ。魔獣に使っても効かんことのほうが多い。毒になることすらある」
(体の仕組みが違うんだ。そりゃ、効かない)
人間と魔獣では肝臓の働きも血の巡りも違うのだろう。同じ薬が、同じように効くはずがない。
「魔獣を治せる者など、この国にはおらんと思っておった」
村長はそう言って、じっとカイを見た。
「あんたは魔法を使うのか?」
「いえ、使えません」
正直に答える。
「ただ、診ることはできます。体を診て、何が悪いのかを探して、できることをやる。それだけです」
「それだけ、か」
村長は少し笑ったように見えた。
遠くの森から、また、鳴き声が聞こえた。先ほどより、少し長く、弱々しい声だった。
「あれは?」
「最近、森の魔獣が弱って、村の近くまで出てくるようになってな」
村長の顔が曇る。
「原因は分からん。放っておけば、村の畑や家畜に被害が出るかもしれん。だから、処分しようという者もおる」
(弱っている? 何かの病気か)
気にはなった。
でも今すぐ、森へ駆けて行ける状態ではない。ソラの経過も見なければいけないし、道具も拠点も何もない。
(焦るな。まず、足場を作らないと)
「分かりました。必ず、診に行きます。ただ、少し準備の時間をください」
「準備?」
「診る場所が、必要です」
カイは村の様子を見回した。石を積んだ低い壁の家が、緩やかな坂に沿って並んでいる。
家畜を追う子供。井戸端で話す女たち。畑には青い麦が、風に揺れていた。
のどかな村だった。
ここで何を始められるのか。
「どこか、空いている小屋はありませんか。診察して治療して、休ませる場所があれば助かります」
「それなら、ちょうどいい建物がある」
村長が杖で、村の端のほうを指した。
「昔、薬屋が使っておった小屋じゃ。主が亡くなって十年以上空いておる。好きに使うがいい」
「いいんですか?」
「魔獣を診る者に、貸さん理由がない」
リナがカイの袖をきゅっと引いた。
「そこなら、ソラも安心して休めます。わたし、掃除、手伝います!」
「ありがとう。助かるよ」
* * *
小屋は石壁に木の屋根の、小さな平屋だった。扉を開けると埃っぽい空気が、ふわりと流れ出てくる。
土間が広く、奥に大きな作業台が据えられていた。壁には空っぽの棚が並んでいる。小さな窓から、夕方前の光が斜めに差し込んでいた。
「意外と悪くないな」
作業台を手で拭うと、埃の下からきれいな木目が現れた。どっしりとした、厚い一枚板だ。診察台に使えそうだった。
(前世の診察室とは比べものにならないけど)
エックス線もない。血液検査の機械もない。滅菌パックも使い捨ての手袋もない。
ほんの少し前まで、当たり前に手の届くところにあったものが、ここにはひとつもなかった。
(でも診る場所はある。それだけで十分だ)
胸の中でそう言い聞かせる。
「カイさん、何から始めるんですか?」
リナが箒を持ったまま、こちらを覗き込んだ。
「まず、必要なものを書き出そう。何が足りないのか分からないと揃えようがない」
炭を借りて板に書いていく。
診察台。
清潔な布。
添え木。
消毒するための酒、または灰汁。
湯を沸かす鍋。
傷口の中の異物を取るための細い道具。
「最後のは何ですか?」
「鉗子、っていう道具。ピンセットみたいなものだよ。こういう形で……」
板の端に図を描いた。先が細くて、噛み合わせがよく、握るとぱちんと閉じる。手が覚えている形だった。
「これを作ってくれる人はいるかな」
「鍛冶屋のドルンさんなら作れるかも!」
リナがぱっと顔を明るくした。
村の鍛冶屋は鍋と鍬の山に囲まれた、無口な大男だった。炉の火が赤々と燃えている。
鉄を打つ音がごうん、ごうんと響く中、ドルンは黙々と作業を続けていた。
「あの、ドルンさん」
「……」
返事はない。
リナがそっとカイの背中を押した。
「実はお願いがありまして」
カイは持ってきた板を作業台の端に置いた。鉗子の図が炭で描いてある。ドルンは槌を置いた。図を黙ってじっと見つめる。
長い沈黙。
炉の火がぱちぱちとはぜた。
「……こんな細い鉄の挟み、何に使う」
低い声だった。
「傷の中の異物を取るんです。獣の体は手が入らないほど、小さな場所もありますから」
「異物?」
「棘や、折れた牙、土の塊。残っていると化膿して、治らなくなるんです」
ドルンの眉が少し動いた。
「……作れんことはない」
「本当ですか!」
「ただし、そこまで細く、しなやかにはできんかもしれん」
「それでも構いません。まずは試作を見せてください」
ドルンは図をもう一度見て、小さくうなずいた。
「三日だ」
「ありがとうございます!」
帰り道、リナが目を輝かせて言った。
「カイさんって、すごいですね。何でも知ってるんだ」
「知ってるんじゃなくて、前に使っていたから描けるだけだよ」
「前に……?」
「あ、いや、遠い国で、ね」
(危ない。説明しにくいことが多すぎる)
リナは不思議そうに首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
* * *
夕暮れの小屋で、掃除と片付けが一段落した。ソラはふかふかの布を敷いた寝床の上で、静かに眠っている。
添え木をした脚が、少しだけぴくりと動いた。夢でも見ているのかもしれない。リナがその隣に座り、心配そうに脚を見つめていた。
「リナ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」
「はい?」
カイは木片を一つ、手に取った。
「この診療所での、僕のやり方を話しておく。まず、治せるものは全力で治す」
「はい」
「でも治せないものもある。その時は無理だと、ちゃんと伝える。それから、治せなくても苦しんでいる子をできるだけ楽にしてあげる方法を一緒に考える」
リナの表情が少し硬くなった。
「それって、処分するってことですか?」
「……そうなる時もある。でも勝手には決めない。必ず診て飼い主さんと話して、納得してから決める」
小屋の外で夕風が扉を揺らす。やがてリナがぽつりと言った。
「……それって、すごく優しいやり方だと思います」
「そうかな」
「だって今までは診もしないで決めてたから」
リナはソラの背中をそっと撫でた。
「ソラのこと、ちゃんと診てくれて、ありがとうございました」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
(前世でもこれだけは変わらなかったな)
深夜の診察室。冷たい手術台。疲れ切った夜の中でもこれだけは手放さなかった。
動物がそこにいる。
診て考えてできることをする。それがすべてだった。
コン、コン。
扉を叩く音がした。
「はーい」
リナが駆けて行って扉を開けると、腰の曲がった老婆が立っていた。灰色の髪をきっちりまとめている。
片手に薬草のぎっしり詰まった、籠を提げていた。
「あんたが魔獣を診るって噂の新入りかい」
老婆はぎろりとカイを見上げた。
「はい。カイと申します」
「ミレーヌだよ。この村で、薬を作っとる」
ミレーヌはずかずかと小屋に入ってくると、ソラのそばに、しゃがみ込んだ。
「脚が折れたと聞いたよ。痛み止めに、この薬草を煎じたのを使ってみたらどうだい。人間にも獣にも効くいい草だ」
籠から、緑色の葉を一枚、取り出す。カイはその葉をじっと見た。
(見たことのない草だ)
形は細長い。ふちに細かなぎざぎざがある。
「ありがとうございます。でも」
カイは静かに首を振った。
「使う前に、確かめさせてください。この子の体に合うかどうか分からないので」
ミレーヌの目がすっと細くなった。
「ほう。わしの薬が、信用できんと?」
「そうではありません」
カイはまっすぐ、老婆を見返した。
「信用しているから、確かめたいんです。もし、この子に毒だったら後悔してもしきれない。だから、一緒に確かめさせてください」
老婆はしばらく黙って、カイを見つめていた。リナが息を詰めて、二人を見守っている。
そしてミレーヌがにやりと笑った。
「……面白い男だね、あんた」




