処分される前に
初投稿です!1章15話での構成予定となっています。
ひとまずそこまでお付き合いいただけると嬉しいです。
深夜二時。
手術室の無影灯を消すと、体から一気に力が抜けた。胃拡張捻転の大型犬だった。
運び込まれた時には胃はぱんぱんに膨れ上がり、もう虚脱寸前だった。ねじれた胃を元に戻し固定して、ようやく血圧が持ち直した。
あと少し遅ければ、助からなかった。
「……よかった」
飼い主には朝まで入院になると電話で伝えた。受話器の向こうで、何度も「ありがとうございます」と繰り返されて、少しだけ胸が温かくなった。
今日の急患はこれで三件目だ。昨日も一昨日も似たようなものだった。最後にまともに食事をしたのがいつだったか思い出せない。
首から下げた聴診器が胸の前で、かちゃりと小さく鳴った。
(あとで術後の見回りをして、カルテを書いて……)
そう考えた瞬間、視界が白く滲んだ。胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされたように痛む。
(あ、これ、まずいやつだ)
そう思ったのが最後だった。
* * *
草の匂いがした。
湿った土の感触。肌をなでる風。遠くで鳥が鳴いている。鼻をつく消毒液の匂いはどこにもない。
「……ん?」
目を開けると、抜けるような青空が広がっていた。
体を起こす。
指先がやけに軽い。手を見ると肌には張りがあって、あの慢性的な疲れの色が、どこにもなかった。
(若返ってる……?)
周りは見知らぬ草原だった。少し離れた先に石を積んだ壁の、小さな村が見える。
空には翼を広げた大きな鳥が、ゆうゆうと舞っていた。ただその翼は明らかに知っている鳥の大きさではない。
(ここ、日本じゃないな)
白衣は着ていなかった。けれど、首には確かに冷たい金属の感触があった。
聴診器だった。
十年以上毎日のように使い続けたあの聴診器だ。
「…………」
状況は何ひとつ分からない。ただ不思議と恐怖はなかった。
(死んだのか、それとも)
考えても答えは出ない。それなら、今はできることをするしかなかった。
(まず、人のいるところへ行こう)
そう決めて、立ち上がった時だった。
「そっちに回れ! 逃がすな!」
村のほうから、男たちの怒鳴り声が聞こえた。
村の外れの空き地に五、六人の男が集まっていた。
手には鍬や鎌。農作業の途中で駆けつけたような格好だ。その輪の中心に小さな生き物が、うずくまっている。
犬、だろうか。
いや、違う。背中に小さな翼がある。灰色がかった青い毛並みの、仔犬ほどの大きさの生き物だった。
左の後ろ脚が、不自然な角度に曲がっている。地面に伏せたまま、怯えたようにぶるぶると震えていた。
「ウィンドパップの仔だ。脚をやられてる」
「もう駄目だな。魔獣は脚が折れたら終わりだ」
「苦しませるのも可哀想だ。ひと思いにやってやろう」
(魔獣……?)
聞き慣れない言葉だった。
けれど、今そこで起きようとしていることははっきり分かった。
男の一人が鍬を振り上げた。
「待ってください!」
気づいた時には体が動いていた。男たちの間をすり抜け、仔犬の前に膝をつく。
「な、なんだお前は!」
「すみません。その子、診せてもらえませんか」
「診せる……? 魔獣を?」
男たちが顔を見合わせた。
「あんた、旅の者か? 見ない顔だな。魔獣に触るなんて危ないぞ。それに、折れた脚の魔獣は助からん。常識だろう」
(助からない?)
胸の奥がすっと冷えた。骨折は確かに大きな怪我だ。
けれど、骨折したから助からないなんてことはない。条件さえ揃えば治せる。そうやって何頭も治してきた。
「本当にそうでしょうか」
静かに言う。
「診てから決めても遅くないと思います」
仔犬が震えながら、こちらを見上げた。怯えている。それでも噛みつきも唸りもしない。
(落ち着いて。大丈夫だ)
まず、声を低くしてゆっくり話しかける。
「大丈夫だよ。痛いよな。ちょっとだけ触るぞ」
目線を合わせて、正面からは見つめすぎない。手の甲を鼻先に差し出して、匂いを嗅がせる。
仔犬はしばらく迷うようにしてから、ふんふんと鼻を鳴らした。
(よし)
そっと首の後ろに手を添える。体温は少し高め。呼吸は速い。でも荒くはない。首から聴診器を外し胸に当てた。
とくとくとくとく。
小さな心臓が、せわしなく打っている。リズムは整っていた。雑音もない。
(心拍は速いけど、乱れてない。ショック状態じゃない)
次に、粘膜の色を確かめる。唇をそっとめくると、歯茎はきれいなピンク色をしていた。
(出血もひどくはなさそうだ)
「な、何をしてるんだ」
「体の中の様子を音で聞いています」
説明にならない説明をして、視線を脚に移した。左の後ろ脚。膝から下が、くの字に曲がっている。
触れる前にまず目で、傷口がないかを確かめる。毛が少し汚れているだけで、皮膚は破れていない。
(開放骨折じゃない。単純骨折だ)
それだけでもずいぶん違う。傷口から骨が出ていれば、感染の危険が一気に高くなる。
指先で折れていない部分から、慎重に触れていく。仔犬がびくりと体を震わせて小さく鳴いた。
「ごめん、ごめん。もう少しだけ」
骨の位置。腫れの具合。足先の温かさ。肉球を軽くつまむ。足が反射的に、ぴくりと引っ込んだ。
(神経は生きてる。感覚もある)
爪の先を指でそっと押す。白くなって、すぐにピンクに戻った。
(血もちゃんと通ってる)
頭の中で診断が、組み上がっていく。
(これは治せる)
手を離して顔を上げた。
「どうだ? やっぱり駄目だろう?」
痺れを切らしたように、男の一人が言った。
「いえ」
はっきりと答える。
「骨は折れていますが、きれいに折れています。皮膚も破れていませんし、血も神経も通っています。固定して安静にしておけば、治る可能性は高いです」
「治る……? 魔獣が、か?」
「毒でもあるんじゃないのか。触って、本当に大丈夫なのか」
「大丈夫です。少なくとも今のところは」
淡々と答えた。
「それと、処分するかどうかは治療できるかどうかを確かめてからでも遅くないはずです」
男たちは黙った。
人垣の端にいた年配の女性が、おずおずと口を開いた。
「あの、痛み止めならわたしの家に、よく効く草があるんだけど……」
「ありがとうございます」
少し考えてから、首を振った。
「でも今は使わないでおきます」
「どうして?」
「人間に効く薬が、この子に効くとは限りません。体の仕組みが違うかもしれない。効かないだけならまだしも悪く働いたら、取り返しがつきませんから」
女性はきょとんとした顔をしてから小さく「そう」とつぶやいた。
(慎重に。焦らずに)
そう自分に言い聞かせた時、人垣の後ろから、小さな足音が駆けてきた。
「ソラ!」
十代半ばくらいの少女が、男たちをかき分けて飛び出してきた。目に、いっぱいの涙を溜めている。
「やめて! その子、うちの子なの! 殺さないで!」
「その子の飼い主さんですか?」
「そ、そうです。リナっていいます。あの、ソラは助かるんですか?」
少女は声を震わせて言った。ここで簡単に「大丈夫」と言ってしまうのは簡単だ。でもそれは嘘になるかもしれない。
「治る可能性は高いです。でも約束はできません」
正直に言った。
「脚を固定して、数週間は安静にさせる必要があります。その間、あまり動かさないように、見守ってあげてください。それでもいいですか?」
リナはぐっと唇を結んで、強くうなずいた。
「……お願いします!」
「分かりました。じゃあ、手を貸してください。この子が動かないように、優しく押さえてくれますか」
近くの男から折れた農具の柄と、布切れを借りた。
即席の添え木だ。
(本当はちゃんとした資材がほしいけど……今できる最善を)
リナに、ソラの頭を抱いてもらう。折れた脚の、上と下の関節を同時に支えられるように柄を当てた。
「少しだけ我慢な」
布で、ゆるみのないように、でも締めつけすぎないように巻いていく。指が一本入る程度の余裕を残すのがコツだ。
ぴくりとソラの体が震えた。すぐに力が抜けた。リナの腕の中で、静かに目を閉じる。
「できました」
息を吐いて手を離す。
「もう、大丈夫。あとは動かさないように」
リナの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「ありがとう、ございます……!」
その時、ソラがうっすらと目を開けた。そしてこちらの指をぺろりと舐めた。
「……!」
くすぐったくて思わず、笑ってしまった。周りを囲んでいた男たちは何も言わなかった。
たださっきまでの険しい空気は少しだけ和らいでいる。
「……魔獣を治した、のか」
人垣の後ろから杖をついた老人が、ゆっくりと進み出てきた。白い髭の、村の長老のような人物だ。
老人はソラの脚に巻かれた布をじっと見つめた。それから、静かにこちらを見る。
「この村に……魔獣を診られる者が来たというのか」
老人のつぶやきが、風に混ざって消えた。
その時だった。
遠くの森から獣の悲しげな鳴き声が響いてきた。
ソラがぴくりと耳を動かす。
老人の顔がわずかに曇った。
(また誰かが、痛がっている)
首に下がった聴診器が、風に揺れて小さく鳴った。
(次はどの子だろう)




