竜の食卓
ルカは水と、わずかな粥のようなものしか口にしなかった。
「食欲が、戻ってこない……」
リナが小さな皿を手に持って、困った顔をしていた。皿の中には細かくすり潰した、魚の身と、卵の殻の粉を混ぜた練り餌。
ルカはそれをちらりと見て、ぷいと顔をそむけた。
「口に合わないのかな」
「うん。ルカはまだ本当の食べ物を思い出してないのかもしれない」
カイは考え込んだ。
「竜の子どもは野生では何を食べるんだろう」
「虫、とかですか」
「そうかもしれない。小さな虫を追いかけて、捕まえて食べる。その、『狩る』という動きが、体を強くしていくんだと思う」
「でもルカはまだ動けませんよね」
「うん。だから、まず、目の前に持っていって反応を見てみよう」
「虫、ですか」
「うん」
リナは少しだけ顔をしかめた。
「虫は苦手です……」
「僕もそんなに、得意じゃない」
カイが苦笑した。
「でもルカのためだから」
「虫なら、ぼくにまかせて!」
話を聞きつけたトムが目を輝かせて、診療所に飛んできた。
「ぼく、虫とり、得意なんだ! 木の下とか、石の裏とか、たくさんいるよ!」
「危なくない虫をお願いね。毒のあるやつや、刺すやつはだめだよ」
「分かってる! 先生、まかせて!」
トムは小さな籠をつかんで駆けていった。
一時間後。
籠の中にはぴょんぴょん跳ねる緑色の虫が、何匹も入っていた。
「跳ね虫だよ! 草むらにいっぱいいる! 毒もないし、人は食べないけど」
「ありがとう、トム君」
跳ね虫は小指の先ほどの大きさ。バッタとコオロギの、中間のような姿をしている。カイは一匹、細いピンセットでつまんだ。
ルカの前にそっと差し出す。
「ルカ。これ、どうだ」
ルカは目を開けた。
金色の瞳が跳ね虫をじっと見つめた。ピンセットの先で虫が、足をばたばたと動かす。ルカの首がぴくりと動いた。
(反応した)
でもそれだけだった。首をわずかに伸ばして、それから力尽きたようにまた横たわった。
「まだ食べる力がないのかな」
「焦らなくていいよ」
カイは跳ね虫を籠に戻した。
「関心を示した。それだけで、十分な前進だ」
* * *
それから、数日。
毎日同じことを繰り返した。
朝は日光浴。
昼は少量の練り餌。
午後は跳ね虫を目の前で見せる。ルカは少しずつ動くようになった。三日目には首を伸ばして、虫の動きを目で追うようになった。
四日目には舌がちらりと出た。
「あ……今、舌が」
「うん。出たね」
五日目の朝。
「カイさん、体重を量ってみましょう」
リナが小さな天秤を持ってきた。薬草を量る時にミレーヌから借りたものだ。ルカを布に包んで、そっと皿に乗せる。
「軽い。羽根みたいです」
「最初はもっと軽かったはずだ。少し増えてるはず」
リナが記録の板を確認した。
「保護された日より、ほんの少しだけ増えてます!」
「やった」
地味な数字だった。
でも確かな、前進だった。
その日の午後。
診療所の庭でルカを日向に寝かせて、トムが跳ね虫を一匹、そっとルカの目の前の地面に放した。
「ほら、ルカ。ごはんだよ」
虫はぴょんと跳ねて、ルカの鼻先から少し離れた場所に降りた。ルカの目が虫を追った。
首がすっと伸びた。
「……!」
次の瞬間。
ぱくり。
ルカの口が素早く動いて虫を捕えた。
「食べた!」
リナが思わず、叫んだ。ルカはもぐもぐと口を動かしている。そしてごくりと飲み込んだ。
「食べた……! ルカ、自分で、食べたよ!」
トムがぴょんぴょん飛び跳ねた。
「やったー! すごい! すごいぞ、ルカ!」
ルカは驚いたように金色の目をまん丸にして二人を見た。カイは胸が、熱くなるのを感じていた。
「よく、頑張ったな」
そっと声をかけると、ルカは小さな、ぷるるるという声で鳴いた。初めて聞く声だった。
* * *
翌日からは診療所の庭に、子供たちが集まるようになった。
「ルカ、見に来たよ!」
「ほら、跳ね虫、捕まえてきた!」
トムが近所の子たちに、声をかけたらしい。小さな籠を持った子供たちが次々と、庭に駆け込んでくる。
「みんな順番に、ね。大きな声はだめだよ」
リナがお姉さんらしく、子供たちを並ばせた。
「ルカはまだ体が弱いから。静かに見守ってあげてね」
子供たちはこくこくとうなずいた。その様子を窓から眺めていたミレーヌがぼそりとつぶやいた。
「……村に子供の声が戻ってきたね」
「え?」
「ここ数年、この辺りは静かだったのさ。魔獣が怖くて、外で遊ばんようになった子が多かった」
老婆はふっと目を細めた。
「あんたが来てから、少し変わったよ」
カイは何も言えずに、ただうなずいた。
果実も試した。
甘い木の実をすり潰して、練り餌に混ぜてみる。ルカは一口舐めて眉をしかめた。
「あ、嫌がった」
「酸っぱすぎたかな。じゃあ、こっちは?」
熟した柔らかい実を少しだけ。ルカはぺろりと舐めて、金色の目を細めた。
「気に入った!」
「うん。覚えておこう。甘い実は好き、と」
リナが板に書き込んだ。食べ物の好みが、少しずつ分かってくる。それはルカという存在を少しずつ知っていくことでもあった。
* * *
その夜。
リナはルカの食事の記録を板に、丁寧に書き込んでいた。
「今日は跳ね虫が三匹。練り餌が、小さじ一杯。それと……」
「リナ、僕も手伝おうか」
「大丈夫です。これはわたしの、仕事ですから」
リナはにっこり笑って答えた。
「ありがとう」
カイはリナの隣に座った。
「ルカが初めて自分で食べた時、どう思った?」
「えっと……」
リナは少し考えて答えた。
「すごく嬉しかったです。それと……少しほっとしました」
「ほっと?」
「はい。この子は生きる力をまだ持ってるんだなって。そう思ったら、なんだか涙が出そうになって」
リナは照れくさそうに笑った。
「カイさんはいつもこういう気持ちなんですか」
「うん。こういう瞬間のために、獣医をやってる、と言ってもいい」
カイはルカの寝顔を見つめた。小さな胸が、静かに上下している。
「治療は地味で、時間がかかる。うまくいかないことも多い。でもこうやって、ひとつずつ、前に進んだ時の気持ちは何にも代えがたいんだ」
リナは静かにうなずいた。その時、ルカがぱちりと目を開けた。金色の瞳が二人を順番に見る。そしてゆっくりとまた閉じた。
穏やかな寝息が、診療所に満ちていた。




