冷えた小さな命
小さな竜の胸に聴診器を当てたまま、カイは動かなかった。
とく。
間が、空く。
とく、とく。
(遅い。それに、弱い)
猫ほどの大きさの体は驚くほど軽くて、そして冷たかった。診察台の木の温もりよりもずっと。
「カイさん……」
リナがそっと隣に来た。首にはドルンが作った木製の聴診器が下がっている。
「わたしにも聞かせてください」
「うん。ここに当てて」
リナが小さな竜の胸に円盤を当てた。目を閉じて耳を澄ます。
「ゆっくりですね。それに、すごく小さい」
「そうだね。どう思う?」
「寒いんじゃないでしょうか。体が冷たいです」
「いい観察だ」
カイはうなずいた。
「竜は人や犬とは違って、自分で体を温めるのが得意じゃない。周りの温度に体の調子が、大きく左右される」
「じゃあ、まず……」
「うん。温めよう」
診療所の暖炉に薪をくべる。火がぱちぱちとはぜた。
「ガルドさん、お願いできますか」
「何を運べばいい」
「川原の平らな石をできるだけ多く。火の近くで、温めたいんです」
「分かった」
ガルドはすぐに動いた。グレイを連れて川原へ。しばらくして背中に石を山のように積んで戻ってきた。石を暖炉の脇で温める。
熱くなりすぎないように手で触って確かめた。
「ちょっと熱いな。布を二重にしよう」
温めた石を布で包んで、小さな竜の寝床の周りに並べる。直接触れさせないのが大事だった。
「やけどをさせないためにですよね」
「うん。弱ってる子は熱いところから、自分で逃げられないから」
リナが真剣な顔でうなずく。寝床の隅に薄い布を重ねて、体の下にも敷いた。竜の体をそっと持ち上げて、移す。
「軽いな……」
ガルドがぼそりと言った。
「ちゃんと食べてなかったんだと思います」
「そうか」
ガルドはそれ以上、何も言わなかった。ただ石を持つ手が、少しだけ優しくなった。
寝床のそばに、人が集まっていた。
窓の外。入口。
村の人たちが遠巻きに、こちらを見ている。
「あれ……竜、か?」
「まさか。本物の竜なんて」
「小さいけど、あの翼……」
ざわざわと声が広がる。トムが窓にへばりついて、目を丸くしていた。
「すげえ……カイ先生、竜、診てる……」
「トム君、あまり大きな声を出さないでね。びっくりしちゃうから」
「あ、うん! ごめん!」
トムは慌てて口を押さえた。その時、ミレーヌが小屋に入ってきた。
「噂を聞いて来たよ。竜、かい」
「はい。薬草で、何か助けられることはありますか」
ミレーヌは寝床の竜をじっと見つめた。
「……やめておきな」
「え?」
「竜の体のことは誰も知らん。わしの薬草も毒になるかもしれん。前のウサギの時のことを思い出しな」
「はい」
「ただし」
老婆はぶっきらぼうに続けた。
「あんたが調べて、これは大丈夫だと思ったらわしに言いな。作ってやるよ」
「ありがとうございます」
カイは小さく頭を下げた。
* * *
体が温まってきた頃合いを見て全身を診る。
まず、口。
そっと顎に触れる。
指先に、柔らかい感触が返ってきた。
(顎の骨が柔らかい)
骨がしっかりしていない。本来なら、硬く締まっているはずの場所が、わずかにたわんだ。
(これは……)
次に、脚。
細い。しかもわずかに外側に曲がっている。軽く触れただけで、竜が小さく鳴いた。
「痛いんだね。ごめんな」
背中。鱗がところどころ、剥がれている。艶もなく乾いてくすんでいた。目の周りを指で触れる。
皮膚に張りがない。目が少しくぼんでいる。
(脱水もひどい)
最後に、左の前脚。
そこに細い赤黒い線が一周していた。
「これは」
「カイさん、傷ですか」
「ううん。擦れた跡だ。何度も擦れてできた古い跡」
指でそっとなぞる。
「鎖か、縄か。長い間、何かで繋がれてた」
リナが息をのんだ。
「そんな……こんなに小さいのに」
「うん」
カイは静かに言った。
「暗い所に閉じ込められて繋がれて。食べ物もまともにもらえなかったんだと思う」
寝床の竜は目を閉じたまま、小さく震えていた。
* * *
夕方になった。
水分を少しずつ与えた。スプーンの先にぬるま湯を乗せて、口の端に当てる。最初は反応がなかった。
けれど、三度目にほんの少し舌が動いた。
「……飲んだ」
「うん。少しずつだ。焦らない」
それだけのことが嬉しかった。
扉が静かに開いた。
ヴェルナーだった。
黒い外套の、いつもの姿。ただ顔には深い疲れが滲んでいた。
「容体は」
「低体温と脱水がひどいです。骨にも異変があります。ただ、今は温めて水分を与えて様子を見ています」
「助かるのか」
「分かりません」
カイは正直に答えた。
「でも可能性はあります」
ヴェルナーは小さく息を吐いた。そして静かに口を開いた。
「話しておくべきことがある」
「はい」
「あの竜は三日前、領都の外れの倉庫で見つかった。幻獣の密売を摘発した現場だ」
「密売……」
「小さな木箱に、押し込められていた。他にも何頭かいたが、ほとんどはすでに死んでいた」
ヴェルナーの声は低く平らだった。
「幻獣は国の管理下にある。保護された個体は、領都の担当官が扱う。担当官は一目見て判断した。『この個体は助からない。処分する』と」
「……」
「幻獣の衰弱個体は処分が規則だ。私もそれを知っていた」
ヴェルナーはそこで言葉を切った。
「だが、その時、君のことを思い出した」
「僕、ですか」
「診てから、決める。そう言った、君の姿を」
静寂が降りた。
暖炉の火がぱちりとはぜた。
「担当官に一晩だけ待ってほしいと頼んだ。もちろん、断られた。だから、私は規則を破った」
「え」
「夜の間に、竜を倉庫から連れ出した。そして、馬車を走らせた」
ヴェルナーは淡々と言った。
「越権行為だ。領都に戻れば、処分される可能性もある」
「ヴェルナーさん……」
「責任は私が取る。だから」
ヴェルナーはまっすぐカイを見た。
「この竜を診てほしい」
カイは何も言わずに立ち上がった。そして深く頭を下げた。
「ありがとうございます。連れてきてくれて」
「礼を言われることではない」
ヴェルナーはわずかに目を逸らした。
「領都の担当官には報告を入れた。数日の内に、誰かが様子を見に来るだろう。それまでの時間が、ある」
「分かりました。できるだけ、やってみます」
「頼む」
それだけ言って、ヴェルナーは背を向けた。扉の前で立ち止まる。
「……君が竜を診てくれる人間でよかった」
小さな声だった。
そのまま夜の中へ消えていった。
* * *
夜になった。
リナは寝床のそばで毛布にくるまって、居眠りをしていた。手には記録を書いた板が握られたまま。
カイは起きていた。
暖炉の火を絶やさない。
石を温め直す。
竜の呼吸を見守る。
(大丈夫だ。呼吸は安定してる)
小さな胸が、ゆっくりと上下している。さっきより、少しだけ深くなった気がした。夜が更けて、窓の外が薄く青みを帯びてきた。
その時、竜がかすかに動いた。
「……?」
瞼がゆっくりと持ち上がる。
そこから現れたのは金色の瞳だった。
夜明けの光を吸い込んだような澄んだ金。
その瞳がぼんやりと天井を見て、それから、ゆっくりとこちらを向いた。
カイは息を止めた。
竜はしばらく、カイを見つめていた。
そして視線が、カイの胸元へ移った。
首から下がった、銀色の聴診器。
竜はじっとそれを見つめていた。
まばたきもせずに。
「……これが、気になるのかい」
小さな声で問いかける。
竜は答えない。
ただ金色の瞳が静かに揺れた。
窓の外で鳥が鳴き始めた。
夜が明けようとしていた。




