規則が守るもの
湿地の朝は霧に包まれていた。十人ほどの男たちがぬかるんだ地面を慎重に進んでいく。
先頭にはガルドとグレイ。続いてハンスと村の男衆。
「足元に気をつけろ。深みにはまるぞ」
ガルドの声が霧の中に響いた。目の前に濃い緑の海が広がっていた。
眠り蔓の群生だ。
その半分近くが茶色く枯れて、水に垂れ下がっている。
「これを全部か」
「ああ。枯れたものは川に流さないよう、必ず、陸に上げて集めろ。その後、焼く」
男たちは鎌を手に、蔓を刈り始めた。絡み合う蔓をひとつずつほどいて、運ぶ。重い。腕が悲鳴を上げる。
「ぐ……これは骨が折れる」
「文句を言うな、ハンス。先生はあれだけ働いたんだ」
「分かってるよ。やるさ」
「おい、そっちの足元、気をつけろ!」
「うわっ、泥が!」
誰かが泥に足を取られて尻餅をついた。どっと笑い声が上がった。
「笑ってる場合か!」
「悪い悪い」
重い作業なのに、男たちの顔はどこか明るかった。カイは少し離れた場所から、様子を見守っていた。
「カイ殿。あんたはそこで見ているだけでいい」
「はい。でも水の流れだけは確認させてください」
川へ続く流れをのぞき込む。枯れた蔓が減っている。水の色が少しずつ澄んでいく。
(よかった)
大きく、息を吐いた。刈り取った蔓は陸に積み上げられて、火をつけられた。白い煙が、霧の中に立ち上っていく。
十日が過ぎ、二十日が過ぎた頃には川の水はすっかり透明に戻っていた。
* * *
納屋の患者たちも少しずつ回復していった。
立ち上がる子。
自分で水を飲む子。
餌を食べるようになった子。
「カイさん、今日、五頭目が自分で歩けるようになりました」
「うん。順調だね」
リナの報告を聞くたびに胸が軽くなった。最終的に、九頭のうち七頭が自力で動けるまでに回復した。
「もう、森に戻していい。ただし、川の水を飲まないよう、森の奥のきれいな水場へ」
カイが言うと、ガルドがうなずいた。
「俺が案内しよう。グレイも道を知ってる」
森の奥の、清らかな泉の近く。七頭を一頭ずつ、地面に降ろした。サラマンダーが、ぬるりと水に潜る。
ミストフォックスが、霧の中に姿を消す。鹿型の魔獣が振り返って一度だけこちらを見た。
「元気でな」
リナが手を振った。
カイは静かに見送った。
(よかった。本当によかった)
けれど、全員は救えなかった。納屋の隅に動かなくなった二頭が、横たわっていた。鹿型が一頭。サラマンダーが、一頭。
最後まで、力を振り絞ったのに体が持たなかった。
「……ごめんね」
リナが小さな声で言った。二人で診療所の裏の、木の根元に穴を掘った。最初に亡くなった、ミストフォックスの隣だった。
静かに土をかぶせる。
「全員は助けられなかったですね」
「うん」
カイは土を丁寧に手で押さえた。
「でもこの子たちが教えてくれた。毒の原因を見つけられたのもこの子たちのおかげだ」
「はい」
「忘れないで。助けられた子と、助けられなかった子。両方、覚えておく。それが、僕たちの仕事だ」
リナは静かにうなずいた。木の根元に、リナが小さな野の花を供えた。
* * *
その夜、診療所の外に一人の影が立っていた。黒い外套。ヴェルナーだった。
「眠れないのか」
「いえ。少し風に当たりたくなって」
カイは隣に立った。
しばらく二人とも無言だった。夜の風が木々を揺らす。遠くで虫が鳴いていた。
「カイ」
「はい」
「私が前に言ったことを覚えているか」
「病の魔獣を放置した村が、滅びた跡を見た、と」
「そうだ」
ヴェルナーは遠くを見つめたまま静かに言った。
「私の故郷の村だ」
カイは息をのんだ。
「私が十四の時だった。森の魔獣が次々と、熱を出して倒れた。村人は気味悪がって、近づかなかった。誰も何もしなかった」
「……」
「やがて、家畜に広がった。それから、人にも。たった、一月だった」
ヴェルナーの声は乾いていた。
「村は全滅した。生き残ったのは街に出稼ぎに出ていた私だけだった。戻った時には、誰も残っていなかった」
「……」
「家族も友もみな、死んだ。その後、私は魔獣管理官になった。二度と、同じことを起こさせないために」
静寂が降りた。
「だから、私は規則を守る。あの日の私のためにある規則だと信じている」
「はい」
「今回の件で、君は正しかった。だが、私の村の時は診る者がいなかった。……もしあの時、君のような者がいたら」
ヴェルナーは言葉を切った。
拳がかすかに震えていた。
「いや。無駄な仮定だ」
カイはしばらく、黙っていた。
やがて静かに口を開いた。
「ヴェルナーさん。僕は規則を否定したいわけじゃありません」
「本当に感染症が出た時は、隔離や衛生の手順が命を救います。僕がやったことはその手順でした」
「規則と、診ることは敵じゃない。両方あって初めて、守れるものがあると思います」
ヴェルナーはゆっくりとカイを見た。その目は夜の闇の中で、わずかに揺れていた。
「両方、か」
「はい」
「君は甘い男だ」
「よく言われます」
「だが」
ヴェルナーは少しだけ口の端を上げた。
笑ったように見えた。
「……悪くない」
* * *
三日後。
ヴェルナーは領都へ戻る馬車の前に立っていた。見送りに村中の人が集まっている。
「報告書を作成した」
ヴェルナーがカイに、一枚の紙を見せた。
「魔獣管理令に、付記を提案する。『処分の前に、診察を経ること』。病か、毒か、判断してから処分を決めるべきだと」
「……!」
「また、この診療所の隔離と衛生の手順を参考資料として添えておいた」
「ありがとうございます……!」
「勘違いするな」
ヴェルナーはぴしゃりと言った。
「診療所を正式に認可する権限は私にはない。あくまで、報告を上げるだけだ。結果は保証できない」
「それでも十分です」
ヴェルナーは小さくうなずいた。馬車の扉に手をかける。
「……また、来る」
「はい。お待ちしています」
馬車が動き出した。
黒い外套が、扉の向こうに消える。蹄の音が遠ざかっていく。カイはその音が聞こえなくなるまで、じっと見送っていた。




