ひとりで背負わない
納屋には九頭の魔獣が残っていた。
ミストフォックスが一頭。
リバーサラマンダーが、六頭。
森から連れ帰った、鹿型の魔獣が二頭。
立ち上がれる子もいる。まだ横たわったままの子もいる。
「木炭、もう一度溶かしてきます」
「お願い。水分は一時間ごとに」
「はい」
リナが桶を抱えて駆けていく。カイは一頭ずつ、様子を見て回った。体温。呼吸。立ち上がる力。よだれの量。
(昨日より、いい。でも油断はできない)
板に記録を書き込む。
「カイ殿」
入口にガルドが立っていた。
「眠り蔓の件だが。湿地の蔓を放っておけば、また同じことが起きる。除去しないと、まずい」
「はい。分かっています」
「村の男衆に、声をかけようか」
「いえ、まだいいです」
カイは首を振った。
「治療が一段落したら、僕が段取りを組みます。今はこっちを優先させてください」
「だが、あんたも疲れて……」
「大丈夫です」
カイは小さく笑って見せた。ガルドは何か言いかけて口を閉じた。
その日から、カイはほとんど眠らなくなった。
夜は納屋で一頭ずつ見回る。朝は輸液の準備。昼は新しい患者の診察と、記録。食事は立ったまま、パンをかじるだけ。
「カイさん、お願いです。少しだけでも休んでください」
リナが懇願するように言った。
「大丈夫だよ。あと少しで、峠を越えるから」
「前もそう言ってました」
「……」
「前は本当に顔色が悪くて。わたし、心配なんです」
リナの声は震えていた。
「ありがとう、リナ。でも今は止まれないんだ」
(止まったら、あの子たちが死ぬかもしれない)
そう思うと体が勝手に動いた。ミレーヌも苦い顔で言った。
「あんた、自分が病気になる気かい」
「大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてる、ねえ……」
老婆は深いため息をついた。
(……慣れてる、か)
自分で口にした言葉が、胸の奥にちくりと刺さった。
(前世でもそうだった)
けれど、そのことを考える余裕はなかった。村の人たちがパンや、スープを差し入れてくれた。
そのたびにカイは礼を言って受け取った。でも一口か二口食べただけで、手が止まってしまう。
「全然、食べてないじゃないか」
「すみません。あとで、いただきます」
その「あとで」は来なかった。
* * *
四日目の夜。
納屋の中で、最後の見回りをしていた。一頭ずつ、確かめる。ミストフォックスの胸の動き。サラマンダーの、立ち上がる足。
「よし。今日はみんな、安定してる」
そう呟いて立ち上がったその時だった。
視界がすっと白く滲んだ。
「……?」
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。握りつぶされるような、痛み。
(あれ……これ)
聞き覚えのある感覚だった。
(これ、前にも……)
指先が冷たくなる。
足の力が抜ける。
(まずい)
手を伸ばそうとして、壁に指が届かなかった。
そう思ったのが最後だった。
* * *
手術室。
白い光。消毒液のにおい。無影灯の下で大きな犬が、横たわっている。
「もう少し頑張れば」
自分の声が聞こえた。
「もう少しあと一頭診れば」
疲れ切った背中。
血の気のない手。
「大丈夫、まだ動ける」
誰かが呼んでいた。
「……さん」
遠くから声が近づいてくる。
「カイさん!」
* * *
目を開けると天井が見えた。見慣れた、診療所の、奥の部屋の天井だ。
「……カイさん!」
リナの顔がすぐ目の前にあった。目が真っ赤に腫れている。
「よかった……! 目が、覚めた……!」
「リナ……?」
周りを見渡した。
ミレーヌ。ガルド。ドルン。トム。村長。ハンス。みんな、そこにいた。
「あんた、馬鹿かい!」
ミレーヌの怒鳴り声が部屋に響いた。
「納屋で、ぶっ倒れてたんだよ! リナが見つけて、ガルドが運んだ。丸一日、目を覚まさなかったんだ!」
「すみません」
「謝るくらいなら、最初から無理するんじゃないよ!」
怒っているのに、ミレーヌの目は潤んでいた。
「……医者が倒れたら、誰があの子たちを診るんだい」
「……」
返す言葉がなかった。
「カイ殿」
ガルドが低い声で言った。
「あんたが、一人で背負い込んでるのは見てて分かった。だが、俺たちは頼ってもらえなかった」
「それが一番堪えた」
胸の奥がずしりと重くなった。その時、戸口に黒い外套が立った。
ヴェルナーだった。
「意識は戻ったか」
「はい。ご心配をおかけしました」
「心配など、していない」
ヴェルナーは冷たく言った。
「診療者が倒れて、患者が診られなくなる。それは最悪の管理だ。私が最も忌むべき事態だ」
「だが」
ヴェルナーはわずかに目を逸らした。
「死なれては困る。……休め」
それだけ言って背を向けた。リナがぽつりと言った。
「ヴェルナーさん、ここの前で、昨日から、ずっと立ってたんですよ」
「そうなんだ」
カイは天井を見上げた。
(情けないな)
目を閉じる。
「……みんな」
静かに口を開いた。
「僕は前にも同じことをしたんだ。遠い国で。倒れて、そのまま戻れなかった」
誰も何も言わなかった。
「その時も思ってた。もう少しだけ自分が頑張れば、って。でもそれは間違いだった」
「カイさん……」
「ごめん。僕は助けを求めるのが下手なんだ」
小さく笑う。
「だから、お願いしたい。手伝ってもらえないかな」
一瞬の、静寂。
そしてミレーヌが盛大に、ため息をついた。
「やっと言ったね」
「え?」
「最初から、そう言えばいいんだよ。わしらはいつだって、手伝うつもりだったんだ」
「そうだぞ」
ドルンがぼそりと言った。
「道具が要るなら、作る」
「ぼくも水くみ、手伝う!」
トムが元気よく、手を挙げた。
「眠り蔓の除去は俺たちに任せろ」
ハンスが胸を叩いた。
「男衆を集めて、ガルドさんと一緒に湿地へ行く」
「ああ。任せてくれ」
ガルドが静かにうなずいた。
カイの目がじわりと熱くなった。
「ありがとう」
その日の夕方。
診療所の壁に、リナが大きな紙を貼った。
当番表だった。
納屋の世話は村人の女衆が日替わりで。
薬の調合はミレーヌ。
木炭の補充はドルンとトム。
眠り蔓の除去はハンスたち男衆とガルド。
そして一番下に小さく。
「カイさんは診察と休むこと」
「休むこと、って」
「書いておきました」
リナがむくれた顔で言った。
「ちゃんと休んでくださいね」
「はい」
カイは苦笑して頭を下げた。窓の外で夕日が、村を柔らかく照らしていた。
(一人じゃ、ないんだな)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。




