眠り蔓
作業台の上に小さな体が、横たわっていた。霧のような淡い毛並み。閉じた目。もう、動かない。
「ごめんな。……調べさせてもらうよ」
カイは静かに頭を下げた。隣で、リナが同じように頭を下げる。
「……始めます」
火で清めた刃物を手に取る。
胸を開く。
肺。心臓。
(肺はきれいだ。炎症の跡もない。心臓も特に異常はない)
腹へ。
肝臓はくすんだ褐色をしていた。本来なら、もっとつやのある色のはずだ。
(肝臓が傷んでる)
腸を順に確かめる。
膿も腫れもない。
(感染症ならどこかに必ず跡が残る。リンパの腫れ、腸の炎症、肺の影。なのに何もない)
「カイさん、これ……」
リナが小さな声で指さした。
胃の中だった。
内容物をそっと取り出す。消化されかけた何かの中に緑色の細い繊維が、絡み合っている。
「草、ですね」
「うん。でも普通の草じゃない」
指先でつまむ。
細くしなやかでねばりがある。
「リナ、これ記録しておいて。色、形、場所」
「はい」
リナの手は少し震えていた。それでも炭を握り、一つずつ、書き留めていく。
「胃の中、緑の繊維。肝臓、くすんだ褐色。腸、異常なし。こんな感じで、いいですか」
「完璧だよ」
「感染症じゃない」
カイは小さく言った。
「何かを口にしてる」
* * *
ミレーヌが診療所に駆けつけたのは朝日が昇る頃だった。
「見つけたのかい」
「はい。これを見てください」
小皿に載せた繊維を差し出す。ミレーヌは懐から、細い枠のついた道具を取り出した。
水晶のレンズをドルンが木の枠にはめ込んでくれた、老眼鏡の代わりだ。
「ドルンのやつ、器用だね。これなら、よく見える」
レンズ越しに繊維を覗き込む。そして動かなくなった。
「ミレーヌさん?」
「……これは」
老婆の声が低く、かすれた。
「眠り蔓だ」
「眠り蔓?」
「湿地に生える蔓だよ。普段はほんの少ししか生えん。家畜が食べると、とろんと眠くなる、ただそれだけの草さ」
「害はないんですか」
「普通はな」
ミレーヌはゆっくりと顔を上げた。
「だがね、昔から、言い伝えがある。眠り蔓が枯れて水に溶けると毒になる、と」
「枯れて水に……」
「長い雨で、大繁殖したんじゃないかね。そして、枯れ始めた蔓が川に流れ込んで……」
「川の水に、毒が溶けた」
カイの頭の中で、つながっていく。
雨が続いたこと。
川沿いに偏った、発症場所。
上流に多い印。
熱がないこと。外傷がないこと。
(全部、説明がつく)
「でもまだ仮説です」
「ああ。確かめなきゃ、ならん」
その時、リナが手元の記録を見つめて小さく声を上げた。
「あれ……?」
「どうしたの」
「カイさん、これ、見てください」
板に書いた記録を指でなぞる。
「納屋に来て、三日以上経った子は……悪くなってないんです。症状が、そのまま止まってる」
カイは目を見開いた。
「悪化してない?」
「はい。最初に来たミストフォックスは重くなって、亡くなりました。でもあとから来た軽い子たちは納屋に来てから、そこまで悪くなってない」
(納屋では川の水は与えていない。井戸水だけだ)
「感染症なら、隔離中でも体の中で増えて、悪化するはずだ。でも毒なら……」
「毒に触れなくなれば進行が止まる」
ミレーヌが続けた。
「間違いない」
カイはリナの肩に、そっと手を置いた。
「リナ。よく、気づいてくれた」
「え……わたし、ただ記録を見てただけで」
「その『ただ見てた』が一番大事なんだ」
リナの頬がほんのり赤くなった。カイは立ち上がった。
「確かめに、行きます。上流の湿地へ」
* * *
その日の午後、カイはガルド、グレイとともに森を進んでいた。
「湿地に入るのは骨が折れるぞ」
「覚悟しています」
足元はぬかるんでいた。雨は止んでいる。でも地面はまだ水を吸ったままだ。グレイが先頭を歩く。
傷の癒えた体はすっかり力を取り戻していた。しばらく進んだ時、グレイがぴたりと止まった。
低く、唸る。
「どうした」
「匂いだ。何かが、おかしいらしい」
ガルドが前方を睨んだ。木々の間が開けていた。そこは広大な湿地だった。一面に濃い緑の蔓が這っている。
無数の、細長い葉。
絡み合う、しなやかな蔓。ただその半分近くが、茶色く変色し、しおれていた。
枯れかけた蔓が、水の中にずるずると垂れ下がっている。
「……これか」
湿地の端に、小さな流れがあった。それが川の上流へ、つながっている。枯れた蔓が、流れの中に次々と落ち込んでいく。
水が薄い緑に染まっていた。
「……見つけた」
カイは枯れた蔓を数本、慎重に切り取った。布で包んで袋に入れる。
「カイ」
ガルドが川縁を指さした。そこには小さな動物の死骸が、いくつも転がっていた。リス型の魔獣。小鳥。小さなカエルの魔獣。
「川の水を飲んだんだろうな」
ガルドの声が苦く、響いた。
「ありがとうございます。これで、確信が持てました」
「これをあの管理官に見せるのか」
「はい。証拠になります」
診療所に戻ると、すぐに治療の準備が始まった。
「まず、川の水を完全に断つ。井戸水を納屋に運んで、それだけを与える」
「井戸水は村の人が飲んでるものですよね。大丈夫なんですか」
「村長に確認した。井戸は川とは別の水脈で、人間は川の水を飲まない。安全だ」
次に、ドルンが砕いた木炭を袋いっぱいに運んできた。
「これでいいのか」
「ありがとうございます。すごく助かります」
細かく砕いた木炭を水に溶かして、ゆっくりと口に注ぐ。毒を吸いつけて、体の外へ出すためだ。
ミレーヌが調合した、苦い薬草の煎じ薬を隣に置いた。
「肝を守る草だよ。眠り蔓にやられて傷んだ肝にはこれが効く」
「ありがとうございます。少量から、試します」
水分の補給も続ける。軽症のリバーサラマンダーから、順番に治療を始めた。
一日目は変化なし。
二日目の朝。
「カイさん! 来てください!」
リナの声が納屋から響いた。駆けつけると、一匹のサラマンダーが、四本の足でふらふらと立ち上がっていた。
「……立った」
灰緑色の体がぷるぷると震えている。でも確かに自分の足で立っている。
「効いてる」
リナが涙をにじませた。カイは拳を静かに握った。
(まだ一頭だ。でもこれは大きな一歩だ)
* * *
その日の夕方。
診療所の扉が静かに開いた。
ヴェルナーだった。
黒い外套が、夕日に赤く染まっている。
「……明日、聞こう」
彼はそれだけ言った。カイはまっすぐにヴェルナーの目を見た。
「はい。お聞かせします」
ヴェルナーは立ち去ろうとして、ふと立ち止まった。納屋の方を一瞬だけ、見た。立ち上がったサラマンダーの影がそこにあった。
「……」
何も言わず、ヴェルナーは外へ出ていった。




