地図が示すもの
翌朝、診療所の壁に大きな板が掛けられた。ドルンが材木屋から調達してきてくれた一枚板だ。
その上にリナが炭で、村と川と森の形を描いていく。
「ここが村の井戸。ここが診療所。川はこの、くねくねしたやつ」
「上手だね」
「えへへ。小さい頃から、村の外れの地図を描くのが好きで」
板の中央を細い線が、斜めに横切っている。
川だ。
「それじゃあ、一頭ずつ、印をつけよう」
トムが小さな石をずらりと並べて持ってきた。
「ぼく、みんなに聞いてきた! 魔獣が変なふうに歩いてたのを見たところ、教えてもらったよ」
「ありがとう、トム君。助かる」
村人たちから集めた目撃情報を一つずつ、地図に落としていく。
「川のあの曲がり角の近くで見たぞ」
「うちの畑の脇を流れてる、細い流れの近くだ」
「いや、わしは森の入口あたりだったかな」
断片的な言葉をリナが丁寧に、聞き取っていく。最初の、ミストフォックス。トムが見つけた、三匹のサラマンダー。
バルトが森の入口で見かけた、ふらつく鹿型の魔獣。
印が増えていく。
「あれ」
リナが手を止めた。
「川のここと、ここと、ここ……ほとんど川の近くですね」
「うん。しかも」
カイは板の上流の側を指でなぞった。
「村より上の方に集中してる」
「川の何かが……?」
「そうかもしれない」
背後で足音がした。
ヴェルナーが腕を組んで、板を覗き込んでいた。
「なるほど」
低い声だった。
「これが君の言っていた、川か」
「はい。ただ、まだ『川の何か』としか言えません」
ヴェルナーは何も言わず、地図をしばらく見つめていた。やがて静かに立ち去った。
「共通点は何だと思う?」
昼過ぎ、診療所の作業台を囲んで、カイがリナとミレーヌに問いかけた。
「川の水、ですか?」
「その可能性は高い」
「川沿いの、植物かもしれんね」
「あり得ます」
「川の小さな生き物とか?」
「それもある」
三つの可能性を板に書き出す。水。植物。川の生き物。
「まずは一つずつ確かめよう。リナ、川の水を汲んできてくれる?」
リナが桶に、川の水をくんできた。透明な、きれいな水だ。においを嗅ぐ。無臭。白い皿に移して光に透かす。濁りはない。
「何も見えませんね」
「うん」
川魚も一匹、獲ってもらった。腹を開いて中を調べる。寄生虫の跡も病気の跡も見当たらない。
(目に見えないものは確かめようがない)
ミレーヌと一緒に、川沿いの植物も調べた。
「これは毒じゃない。これも違う。こっちは牛が食う草」
老婆が一本ずつ、確かめていく。
「わしが知っとる毒草はこの辺りには生えとらんね」
「上流は?」
「上は湿地だよ。雨が続いたせいで、ぬかるみがひどい。人が入るのは骨が折れる」
カイは地図の上流の方をじっと見つめた。
(まだ見てない場所がある)
* * *
その間にも患者は増えていった。ガルドが森の見回りで、ふらつく魔獣を二頭連れ帰ってきた。
トムがまた二匹、サラマンダーを見つけた。
十頭。
納屋は満員だった。
藁を増やして敷く。
水を替える。
一頭ずつ体を温めて様子を診る。エプロンを着て、脱いで手を洗う。その繰り返しだった。
「カイさん、少し休んでください」
リナが心配そうに言った。
「大丈夫。まだ動けるよ」
「でも昨日もほとんど寝てないじゃないですか」
「ありがとう。でも今は休めないんだ」
カイは疲れた顔で笑った。
(猶予はあと六日。一頭でも多く、救わないと)
目の下が少し重たかった。ミレーヌがそんなカイを横目で見ていた。
「あんた、顔色が悪いよ」
「大丈夫です」
「そう言う奴が、一番危ないんだよ」
老婆はそれ以上、何も言わなかった。
* * *
その夜。
納屋の灯りの下でカイは一頭ずつ、様子を診ていた。最後に、最初に保護した、ミストフォックスの前にしゃがみ込んだ。
「……」
呼吸が、浅い。
胸の動きがほとんど見えない。
聴診器を当てる。
とく……とく……。
間隔が空いていく。
「リナ、呼んできて」
「はい」
リナが駆けて戻ってきた。ミストフォックスの体を二人でそっと撫でる。
「ごめんな。何もしてやれなくて」
「カイさん……」
とく……。
……。
音が止まった。
納屋の中が静まり返った。
「……」
リナの目から大粒の涙が、ぽとりと落ちた。
「……ごめんね。助けてあげられなくて」
その時、納屋の入口に人影が立った。
ヴェルナーだった。
いつからそこにいたのだろう。黒い外套が闇に溶けている。
「……死んだのか」
「はい」
カイは静かに答えた。ヴェルナーは納屋の中に、足を踏み入れなかった。入口に立ったまま、動かない。
「だから、規則は処分を求める」
そう言われると思った。けれど、ヴェルナーはそうは言わなかった。
「……苦しんだか」
「え?」
「この魔獣は苦しんだのか。最期は」
カイは少し驚いて、ヴェルナーの顔を見た。その表情は読めない。
「はい。……少しは。でも最後は眠るように静かでした」
「そうか」
ヴェルナーはそれだけ言って背を向けた。その背中はほんのわずか、いつもより遠く見えた。
カイはしばらく、冷たくなったミストフォックスのそばに座っていた。
(何も分からないまま、死なせてしまった)
悔しさが胸を締めつける。
(でもこの子は何かを教えてくれるかもしれない)
顔を上げた。
「リナ」
「はい」
「この子の体を調べたい」
リナが息をのんだ。
「……解剖、ですか」
「うん。体の中に、答えがあるかもしれない。毒なら、毒の跡がある。病気なら、その跡がある。生きているうちには見えないものが見える」
「見たくなければ外にいていい。無理はさせない」
リナは唇を噛んで少し黙った。
そして顔を上げた。
「見ます」
「いいの?」
「この子が、教えてくれることなら、ちゃんと見たいです」
リナの目は涙で赤かった。けれど、まっすぐだった。
「ありがとう」
カイは小さくうなずいた。その時、入口からヴェルナーの声が聞こえた。
「止めはしない」
姿は見えなかった。
声だけだった。
「結果を聞かせてもらう」
「はい」
夜明け前の青い空気の中で。カイは作業台に、小さな体をそっと運んだ。
(これが僕にできる、最後の診察だ)
道具を手に取る。




