2話 ~そして少女は果実の美味しさを知る
喧騒というものは大勢の人間がいて初めて成り立つものだと、アストリッドはこの朝理解した。
あまりに静かで、遠くから聴こえる小鳥の鳴き声しか耳に届かないものだから、暗くもないのに夜中なのかと勘違いした。夢と現の境目も曖昧で、自分の居場所もよくわからない。それどころか、よくよく見てみれば全然知らない場所にいた。自分の部屋ではない。自分の家でもない。知らない匂い。知らない部屋。己が今どこにいるのかわからない恐怖に飲み込まれ、アストリッドは顔を青ざめさせながら自分の身体を抱きしめた。ここはどこ――どうしてこんなところに一人で――パパとママはどこ――どうしていないの――こわい――誰か助けて――。
その時、ぎぃ、と扉の開くような音がした。次いで足音も聴こえ、アストリッドはふと目を開けてそちらを見た。そこには夜を体現したかのような男、古き神エイリクが腕に何かを抱えながら立っていた。
「ああ、起きたかねアストリッド。何か食べるものが必要だろう。外に出て果実を取ってきた。君の口に合うものがあるといいのだがね」
ほら、とエイリクは摘んできた果実の一つをアストリッドに渡す。真っ赤に熟れた実を受け取りながら、アストリッドは漸くはっきりしてきた頭を動かした。
「……夢を、見ていたみたい」
「ほう?」
エイリクは腕の中の果実を机に置きながら続きを促した。アストリッドはゆっくりと、頭の中を整理するように話し出す。
「あなたが来るまで、私は一人でここにいた。夢の中でも、私は一人でここにいた。どうしてここにいるのか、どうして一人なのかわからなくて……」
怖かった。とは口に出さず、おずおずとエイリクを見た。
「でも、あなたが来て、目が覚めた」
「……ふむ」
アストリッドの話を聞き終えたエイリクは、暫くの間彼女から目を逸らしながら険しい表情をしていた。唸るばかりで何も喋らないものだから、アストリッドは変な話をしてしまったと後悔した。両親が死んで以降はまともな話し相手もおらず、会話らしい会話もあまりしてこなかった。だからエイリクが「すまない」とぽつりと漏らした時も、話の意味がわからなかったことに対する詫びだと思い意気消沈した。
しかし実際には、全くもってそうではなかった。
「君を一人きりにするべきではなかったな。不安な思いをさせてしまった。すまない」
「……え」
予想外の謝罪にアストリッドは目を丸くした。何かの冗談かとも思ったが、エイリクの顔は真剣そのものだった。
エイリクはアストリッドの前に跪くと、彼女の顔を覗きこみながら謝罪を続けた。
「いくら魔女とは言え、君が幼い子供であることに変わりはない。一人きりでいれば不安や恐怖に苛まれるのも当然だ。ましてや見知らぬ場所となれば、そうした負の感情はいや増すだろう。一人残された君の気持ちを考えることなく外出するのは軽率な行動だった。君が許したくないと思うのであれば、それでいい。私はこの咎を甘んじて受け入れよう」
「え、えっと……」
アストリッドにとっては、むしろこちらの方が意味がわからなかった。どうして彼が真摯に謝罪をしているのか、意味がわからない。
「わ、私は、怒ってない。あなたが謝る必要も、ない。ごめんなさい。変なことを言ってしまって……」
戸惑いながらアストリッドが謝罪すると、エイリクも眉をひそめ、困惑した表情を見せた。
「何故君が謝る。君は、それが夢であれ現であれ、一人でいて怖い思いをしたことと、私の姿を見て安心したことを教えてくれたのだろう。君が謝らなければならない要素は何一つ無い。君に断りを入れず勝手に出ていった私が悪いのだ。君は……」
エイリクはそこで一旦言葉を区切り、果実をもてあそぶアストリッドの両手を、己の大きな手で包み込んだ。
「君は、一々誰かの顔色を窺う必要は無いのだ。己を卑下する必要も無い。君が今謝罪したのは、あの村で身につけた処世術なのだろうが、私には通用しない。何故かわかるかね。私はあれらのような愚者ではないからだ。都合の悪いことを悉く君に押しつけるような愚者ではない。君は恐らく、私の返答が遅かったがために更に不安になってしまったのだろう。また他人にとっては意味のわからないことを言ってしまった、と。返答までに間が空いてしまったことについても詫びよう。だがこれだけは君に知っておいてほしい。私は君を無下にしない。私は君を否定しない。私は君を傷つけたくはないのだ。しかし君の心を傷つけてしまった。故に何と返答すべきか悩み、間が空いてしまったのだ。すまない、アストリッド」
「……、……」
エイリクの言葉の全てを、アストリッドは受け止めることができなかった。
わからない。何もわからない。どうして子供相手にこんなにも真剣なのか。どうして何度も謝るのか。どうして私が謝ってはいけないのか。どうして彼の気持ちはこんなにも真っ直ぐなのか。どうして私の中に恐怖心が芽生えているのか。どうして、どうして……。
アストリッドが黙りこくっていると、彼女の心の内を察してか、エイリクが「大丈夫だ」と安心させるように言った。
「ゆっくりでいい。私と共に過ごしている内に、君に染みついた処世術も無意味なものだと理解する時が来る。いずれは幾重にも閉ざされた扉も開こう。それよりも、さあ、今は食事の時間としようではないか。空腹では思考も良い方向には働かない。好きなだけ食べるといい。幾ら食べようが咎めはしないよ」
「……うん」
エイリクがゆっくりとアストリッドから手を離す。ほのかに残る熱を感じながら、アストリッドは自分の手に収まる赤い実をじっと見つめ、恐る恐る一口噛んだ。中からは甘酸っぱい果汁が溢れ出し、アストリッドの小さな口からも少し漏れ出た。柔らかな実は咀嚼するごとに甘さが増していく。もっと食べたいという欲求が抑えられず、アストリッドは手と口を果汁で汚しながら貪るように果実を食べた。エイリクはそんな彼女の姿を慈しむように眺めながら、自身も果実を食し始めた。
結局、果実のほとんどがアストリッドの腹に収められた。彼女が目を輝かせながら食べるものだから、エイリクが面白がってあれもこれもと与えたのだ。アストリッドは今まで新鮮な果実というものを口にしたことがなかった。新鮮で瑞々しい果実のほとんどは、村の偉い人たちやその家族に優先的に与えられていた。アストリッドが手に入れられるのは、所々痛んでいたり、腐っていたりと、状態がいいとは言えないものばかり。果実を食べても美味しいと感じた覚えもない。だからエイリクの持ってきた果実の美味しさには驚かされた。硬すぎることも、柔らかすぎることもなければ、変な臭いもしない。世の中にはこんなにも美味しい食べ物があるだなんて!
アストリッドが最後の一口を食べ終えると、それを待っていたかのようにエイリクが腰を上げた。
「お気に召したようで何よりだ。これからも食事の時は、君の気に入るものを好きなだけ食べるといい。さて、腹ごしらえも済み活力も湧き出たことだろう。早急にこの水車小屋を出るとしよう」
「出るって、もうここへは戻らないってこと?」
アストリッドが尋ねると、エイリクは首を縦に振った。
「長居する意味もないのでね。遅かれ早かれあの村で起きたことは方々に知れ渡る。誰かがあの村を訪れ、あの広場を目撃すれば、村人たちが魔女を火刑に処そうとしたところ、魔女に返り討ちにされたのだと思い至るだろう。そうなれば大勢の人間が魔女を探し始める。つまり君を、だ。だからそうなる前に場所を移す必要がある」
「追われる前に、逃げるってこと?」
「ああ。いちいち死体を作るのも面倒なのでね」
「……わかった」
アストリッドは少しばかり気まずくなって俯いた。昨日みたいに燃やしちゃえばいいのに、と思っていたことをエイリクに見透かされていたのだ。
「君の障害となるなら話は別だが、基本的に、私は無暗に命を奪うことを良しとしない。何故かわかるかね」
アストリッドは小さく頭を横に揺らした。
「つまらないからだ」
心の底からそう思っているのだと感じ取れるほど冷めた声で、エイリクが言った。
「今の人間という存在は、私にとっては家畜以下の、森で遭遇する栗鼠程度の価値しかない。捕らえたところで腹の足しにもならない。大きな獲物を仕留めた時程の高揚もない。ただそこにいるだけで、私に利益をもたらすわけでもない。わざわざ無価値な人間に自ら絡んだところで時間を浪費するだけだ。人々が私を信仰していた時代であれば、また別の理由で良しとしていなかったが、今であればこれが主な理由だな。戦うのであれば同時代の神を相手にする方が余程面白い」
「……今の時代の神様を相手に戦うのも、つまらない?」
アストリッドの質問に、エイリクは眉間に皺を寄せながら答えた。
「今この国の多くの人間が信仰しているのは、唯一神と呼ばれているニルスであろう。あれとは反りが合わぬ。起きた事象をすべて己に都合のいいように解釈し、真実を捻じ曲げる奴など会いたくもない」
「……」
そんな答えが返ってくるとは思わず、アストリッドは返事に窮した。先程見せた人間に対する興味の無さとは違い、明確な嫌悪感や敵意がそこに存在している。自分だって知っていたではないか。エイリクや彼と同じ時代を生きた神様たちは、ニルスとその信者たちの侵略により土地を追われ、神格を剥奪されたと。そんな憎むべき相手の話題を、軽率に口に出してしまうだなんて。
流石に不味いと感じアストリッドは謝罪しようとしたが、口を開きかけたところでエイリクの人差し指に阻まれた。
「言っただろう。顔色を窺う必要は無い。それに君は私と、私たちとあれの間に起きたことを、本当の意味では何も知らないのだ。故に謝罪する必要も無い。明確な意図があるなら別だが、意味もなく軽率にあれの話題を出すことを控えてくれれば結構だ。わかったかね」
アストリッドがこくりと頷くと、エイリクも頷き返しながら彼女の口から指を離した。
「さあ、では旅を始めるとしよう。アストリッド、君は何か見たいものでもあるかね。海でも山でも、深海に眠る宝石でも山頂に咲く小さな花でも、何でも好きなものを見せてあげよう。そこに辿り着くまでに時間はかかるが、だからこそそれを目にした時に喜びを味わうことができるのだ」
エイリクは喋りながら小屋の中を横切り、外へと続く扉を開く。彼に手招きされてアストリッドもそちらへ行き、旅の始まりの一歩を踏み出した。




