18.番外編:君が死んでも、世界は美しく回る(はずなのに)
アンナという不具合が冬の駅で綺麗に片付き、私とアレクの盛大な婚約披露パーティから数ヶ月。
ヴァレンティ公爵邸は、非の打ち所がない美しさと静寂に包まれている……はずでした。
「ねえ、アレク。
夜会の招待状ですが、こちらでよろしいでしょうか?」
「ああ、問題ないよ、キティ。
……ところで、少し部屋が冷えないか?」
朝の陽光が燦々と差し込む食堂。それなのに、室内の空気は肌が痛くなるほどにキリキリと冷え切っていました。
暖炉には、パチパチと勢いよく炎が燃え盛っているというのに。
気のせいだわ、と自分に言い聞かせて紅茶を口に運ぼうとした、その時でした。
「……て」
どこからか、掠れたような小さな声が響きました。
私とアレクは、同時に動きを止めます。
「……私を、見て、キティお姉さま……」
ヒュウ、と。
密閉されているはずの食堂の床から、あり得ない冷たい隙間風が吹き上がりました。
その風は、嗅ぎ覚えのある、あの駅のプラットホームの「錆びた鉄と蒸気の匂い」を孕んでいました。
ガタガタガタガタガタガタ!!
突如として、テーブルの上の銀食器たちが、一斉に不規則な音を立てて激しく震え出しました。
「アレク……!?」
「落ち着け、キティ。
……誰だ! 出てこい!」
アレクが鋭く怒鳴り、腰の装飾剣に手をかけたその瞬間。
食堂の大きな鏡の表面が、パリ、パリパリ……と、冬の朝の霜のように白く凍りついていきました。
白濁していく硝子の向こう側。
そこに、べっとりと黒い手形が押し付けられたのです。
『ねえ、セルジオ……今日もお庭でお茶会をしましょう……?』
姿見の奥から響くのは、輪郭のぼやけた、しかし間違いなくあのアンナの金切り声でした。
『私のドレス、素敵でしょう……?
凍りついた薔薇みたいでしょう……?
ねえ、誰か、私を見て……褒めて頂戴……!
私はアンナよ、世界で一番、愛されるべき女なのよぉおおお!!』
バツンッ!! と、邸内のすべての蝋燭の火が、一瞬で吹き消されました。
朝の光が差し込んでいるはずなのに、なぜか部屋の中は、じっとりとした暗闇に包まれていきます。
「母上、お静かに。
公爵家の品位に関わります」
冷気の中、十五歳のセルジオ様がいつも通りの完璧な無表情で食堂に入ってきました。
驚くべきことに、セルジオ様の背後には、おびただしい数の凍りついた赤毛の髪の毛が、まるで生き物のように床を這い、彼の足首にきつく絡みついていました。
『あああ……セルジオ! 私のかわいいセルジオ!
やっぱり私を分かってくれるのはあなただけねぇえええ!』
ギチ、ギチギチ、ギチギチギチ!!
セルジオ様の足首を掴む赤毛の群れが、猛烈な力で彼を姿見の奥へと引きずり込もうと引っ張ります。
その力は、人間のものではありません。
死してなお肥大化し続ける、純度の高い「承認欲求の怪物」の怨念そのものでした。
しかし、セルジオ様は英才教育の賜物。
どれだけ足首を締め上げられようとも、眉一つ動かさず、凍りつく姿見の鏡面に向かって、マニュアル通りの完璧な微笑みを貼り付けました。
「……お母様。
その死体特有の腐敗臭を纏ったお姿も、非常にアヴァンギャルドで素敵ですね。
ですが、床に血と髪の毛が散らばります。
さあ、見張りの影の者たちと一緒に、お部屋へ戻りましょう。
後で、お気に入りの霊供養の香を届けさせますから」
『まあ……!
アヴァンギャルドで素敵だって言ってくれたわ!
やっぱりセルジオは私を愛しているのね!
ふふ、良い子にして冥府に戻るわねぇえええ!』
ズズズズズ……ッ!
喜んだアンナの気配は、セルジオ様の足首からスルスルと離れ、満足げな笑い声と共に鏡の奥へと消えていきました。
同時に、部屋の冷気が嘘のように引き、蝋燭に再び火が灯ります。
静まり返る食堂。
セルジオ様は無言でハンカチを取り出すと、アンナの髪の毛に締め上げられて「赤黒い手形」がついたズボンの裾を、親の仇(実の親ですが)かというほどの凄まじい眼力でゴシゴシと拭き取り始めました。
「……キティお母様。
すぐに高名な神父と、腕利きのネクロマンサーの手配を。
あの動く粗大ゴミ、霊体になってもマニュアル通りのあしらいで満足して帰るの、地味に面倒です」
「ええ、そうね、セルジオ様……。
結界の張り直しも必要だわ……」
私は激しい頭痛に眩暈を覚えながら、隣で完全に次回の抹殺計画を冷徹に練り始めているアレクの腕にすがりつきました。
ちょっと、誰よ駅で「完璧な幕引き」なんて言ったの。
物理的に排除しても、幽霊になってまで「構ってちゃん」を地獄からバグらせてくるなんて、聞いてないわよ。
あなたが死んでも世界は美しく回る――はずなのに、我が家の家計は除霊費用で大赤字になりそうですわ。




