外伝-常盤健臣-
※シリアスです。
苦手な方は気をつけてください。
常盤健臣、十三歳。
中学二年の春に父親の常盤信明の余命半年が宣告された。
それから信明は苦しい治療に耐え、懸命に生きた。
余命宣告されていた半年を過ぎ、十月にある健臣の誕生日を過ぎて、信明自身も十二月にひとつ歳を重ねることができた。気がつけば冬も終わりを迎えようとしている。
もう少しで余命宣告されてから一年が経とうとしていた。
二月に入ってすぐに信明の容態が悪化し、意識のはっきりしない日々が続いたが、信明はまた持ち直して、担当医を驚かせた。
その横で健臣はほっと胸を撫で下ろした。
その翌日、健臣は二日ぶりに制服の学ランに腕を通した。
健臣が教室に入ると、幼馴染の児島直が駆け寄ってくる。
「健臣、おはよう」
「おはよ」
健臣は小さく笑みを浮かべた。
目の下にはうっすらとくまができていて、疲れた表情をしている。
直は心配そうに健臣の顔を伺う。
「おじさんの具合どう?」
「うん。なんとかまた持ち直したみたい」
健臣の表情はどこか暗い。
直は信明の容態が思わしくないということに気がついた。
青いブレザーの制服を着た東まゆみも健臣に気がついて傍にくる。
いつもの明るい笑顔ではなく、健臣を気遣ったような表情だった。
「健臣、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「大丈夫。父さんと約束したんだ。ちゃんと学校に行くって」
自分に言い聞かせるように健臣はゆっくりと言った。
約束した時に信明が頭を撫でてくれたことを思い出す。
それは、ほんの少しだけ痩せて寂しそうな手だった。
「そっか」
直は小さくうなずいて言った。
それは三限目のことだった。
静かに授業が進む中、教室の扉が前触れもなく開いた。
生徒たちが一斉にそちらを向く。
そこには担任の弘浦仁が立っていた。
三十代後半の男で、少しふっくらとした教師だ。
いつもは穏やかなのに、今は緊張感が漂っている。
「常盤……」
とても張り詰めた声だった。
弘浦のその一言で、健臣はなにがあったかを悟った。
生徒たちも緊急事態を察した様子で心配そうな、不安そうな視線を健臣に向けていた。
「荷物を持って一緒にきなさい」
健臣は震える足で立ち上がる。
早く支度をしなければいけないのに手が震えて、視線は定まらない。
ただ焦りだけが先立つ。
「健臣!」
直が駆け寄ってきた。
直も負けじと青い顔をしていたが、健臣の瞳をじっと力強く見つめた。
「荷物はあとで俺が届けてやるから」
健臣はこぼれそうになる涙を必死に堪えて、小さく何度もうなずいた。
教室をあとにして、健臣は歩きながら弘浦から説明を受けた。
母親の典子からの電話によると信明は危篤状態に陥ったという話だ。
想像していた最悪の事態ではなかったことに健臣は、わずかにほっとした。それも一瞬で、すぐに健臣の胸を不安が覆い尽くす。
弘浦の運転する車に乗ってから病院に着くまでのことはあまり覚えていない。
だが、弘浦が「大丈夫だ」と繰り返していたことだけはよく覚えていた。
健臣は病院のエントランスを抜けて、通いなれた信明の病室に急ぐ。
弘浦はそのあとを黙って追いかけた。
病室の扉は閉まっていた。健臣は深呼吸してからその扉を開く。
そこには母親の典子と親戚が集まっていた。
健臣は母親の典子と視線を合わせる。
典子はわっと泣き崩れた。それを健臣の祖母が支える。
ベッドには横たわる信明がいた。
たくさんの管に繋がれた病床の信明ではなく、まるで昼寝をしているような信明だ。
健臣の心の中で誰かが「間に合わなかった」と冷たく言った。
健臣はゆっくりと信明の傍に寄った。
「いつ?」
健臣は信明の顔を眺めながら聞いた。
少し離れたところにいる叔父が答えた。
「典子さんが学校に電話してすぐだった」
「そう」
健臣の口から抑揚のない声が漏れる。
健臣は自分の中にある感情がなんなのか分からなかった。
信明が死んで悲しい。でも、この穏やかな表情を見て、ほっとする気持ちもある。
典子は涙を流しながら健臣を抱きしめる。健臣はそっと典子の腕に触れた。
横にいる叔母が健臣の肩に手を置いた。
「最期にね、『健臣』って、あなたの名前を呼んだのよ」
健臣の右目から一筋の涙が零れ落ちた。
それから二週間ほど経った頃から、四時を過ぎると来客を告げるチャイムが鳴る。
健臣が玄関を開けると、学ラン姿の直の姿があった。
学校を終えてすぐに来たようだ。
「よっ」
直はいつものように明るく言った。
健臣は笑顔を浮かべたつもりだが、その表情はあまり変わらなかった。
健臣は直を部屋に通すと、布団の上に座ってぼうっとしていた。
直は勝手に電気をつけて本棚から漫画本をとって読んだり、落ちているサッカーボールを転がしたり、投げたりして時間を潰した。
典子が仕事から帰ってくると、直は挨拶をして帰っていく。
そんな日が一週間ほど続いた。
いつものように四時を過ぎて直がくる。
いつものように話すでもなく、なにかをするわけでもない時間が過ぎ去っていくように思えた。
「なぁ、直」
健臣が呟くように言った。
直はサッカーボールを宙に投げていた手を止めた。
驚いたように健臣を見たが、すぐにいつものように返事をする。
「なに?」
「父さんが最期に『健臣』って言ったんだって。どういう気持ちで呟いたんだろう。俺のことを探してたのかな? どうしてそばにいてくれないんだ『健臣』って思ったのかな。俺、学校に行かないで、あの日も傍にいるべきだったんだ……。そうすれば、父さんが俺の名前を呼んだ時、応えてあげられたのに……」
健臣はあいかわらずぼうっとしたまま呟く。直は首をかしげた。
「なに言ってんだよ。お前、言ってたじゃん。おじさんと『約束した』って。『ちゃんと学校に行く』って」
直は普段と変わらない声色で言った。
健臣は一瞬だけ瞳を大きく見開いて、まるで涙の流し方を思い出したかのようにぽろぽろと涙をこぼす。
直はまたボールを宙に放ってはキャッチしてを繰り返している。
「お前のおじさんはさ、厳しい人だったよなぁ。俺もいっぱい怒られたもん」
「父さんが俺の友達の中で怒るのは直のことだけだったよ」
直が驚いた顔をして健臣を見た。健臣も直を見る。
ちゃんと直の顔を見たのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。
直はわざとらしく咳払いをした。
「まぁ、それは置いておいて。ちゃんと約束を守った健臣が落ち込んでることを知ったら、おじさんは心配で天国に行けねぇよ」
直が手にしていたサッカーボールを健臣に向かって軽く投げた。健臣がそれを手に取る。
直は言葉を続けた。
「それに健臣がいつまでも落ち込んでたら、おじさんが俺の枕元に立ってさ、おじさんに『健臣をなんとかしろ!』って怒られそう……」
「わかんねぇよ。なんで俺の枕元じゃなくて直のなんだよ」
健臣は手に持っているサッカーボールを直に投げる。
直は慌ててキャッチした。
「なんとなくだよ! あと、早く学校にこいよな。お前がいないとつまんねぇんだよ」
直は照れくさそうに言って、サッカーボールを健臣に投げる。
健臣は笑顔を浮かべながらそれをキャッチした。
「恥ずかしいこと言ってんじゃねぇよ」
「うるせぇ!」
直は真っ赤な顔で叫んでから「言うんじゃなかった」と、ぼそっと言った。
健臣はごろんと布団に横になる。
「なぁ、腹減らない?」
直が健臣の傍に寄って聞いた。健臣は視線だけを直に向ける。
直がさらに続けた。
「コンビニ行こうぜ。とりあえず、健臣は風呂に入ってこい」
健臣は首をかしげた。直は苦笑する。
「鏡見れば分かるよ」
健臣は直に言われたとおり、脱衣所で鏡を見た。
その中の健臣は髪がひどくぼさぼさしていた。
健臣はそれを撫でながら、最後に風呂に入ったのはいつだったかなと考えて、すぐに思い出すことをやめた。
風呂に入ってすっきりとした健臣は、直とマンションの前の公園を歩いて駅前のコンビニへ向かっていた。
久しぶりに出た外はまだまだ肌を突きさすような寒さだ。
健臣は空気を胸一杯に吸って、空を見上げた。
星が輝く澄んだ空は、とても優しく健臣を見下ろしていた。
典子は玄関のドアを開けた。
帰宅して最初に見るのは、玄関から一番近い部屋――閉じこもってしまった健臣の部屋のドアだ。
しかし今日はリビングの電気がついていることに気がついた。
急いで玄関で靴を脱ぎ捨て、早足でリビングのドアの前に立つ。
そこからは話し声、そして、笑い声が聞こえてきた。
典子はそっとドアを開ける。直と話していた健臣が視線を典子に向けた。
「母さん……」
健臣が困ったように典子を見た。
典子は腕にかけていた荷物を落とし、口元を押さえた。溢れる涙が頬を伝って落ちていく。
健臣は典子の前に立った。眉を下げて申し訳なさそうに典子を見つめる。
典子は大きくて、いつでもどんと構えた明るい人。そう思っていた。
けれど、目の前にいるのは肩を震わせて、小さく泣いている典子だった。
「母さん、ごめんね」
健臣は小さく言った。典子は何度か首を横に振ってから健臣を抱きしめた。
「ううん。お母さんが悪いの。お母さんがもっとしっかりして、たけを支えてあげなきゃいけなかったのに。あの日、たけが学校に行くのを止めてれば、最期にお父さんに会わせてあげられたのに。ごめんね」
健臣の瞳からも涙が溢れた。典子にぎゅっとしがみつくように身を寄せる。
お互い言いたいことを我慢して、お互い自分を責めていたのだとやっと気がついた。
「母さん、父さんが最期に俺の名前呼んだって……本当?」
「ええ。とっても優しく、大切そうに『健臣』って。きっと『愛してる』の『健臣』だったに違いないわ」
典子は笑みを健臣に向けた。
健臣は瞳いっぱいに涙をためて、噛み締めるようにもう一度心の中で繰り返す。
「そっか」
健臣はそう小さく言って、泣きながら笑みを浮かべた。
典子は涙を拭いて、照れくさそうに直を見る。
「直君、たけについててくれてありがとう。恥ずかしいところ見せちゃったわね」
直も涙目になりながら横に首を振る。
典子が「ふふ」と、なにかを思い出したように笑った。
「そう言えば、お父さんが『健臣と直は兄弟みたいだな』って言ってたことを思い出しちゃった。『もうひとりの息子みたいで、つい叱ってしまう』って。昔はよく家にきて、健臣と一緒にごろごろしながら漫画本読んだり、ゲームしたりしてたものね。懐かしい」
典子の言葉に直はぶわっと涙をあふれさせた。学ランの袖で目を覆う。
「俺も、おじさんのこと、もうひとりの親父みたいに思ってました」
直はそう言って、声を上げて泣いた。健臣と典子は顔を見合わせて微笑む。
「あら、あら。直君が泣くとおばさんもまた泣けてきちゃうじゃない」
典子は直の前に座って、直の頭を撫でる。直はごしごしと涙を拭いた。
「直と兄弟だったら、俺が兄ちゃんかな」
健臣がふざけたように言うと、直は顔を上げて健臣を見た。
擦ったせいで目元が真っ赤になっている。
「なに言ってんだよ。俺の方が誕生日早いんだから、俺が兄貴だよ」
直がにっと笑って言った。
それからまた一年が過ぎた。
常盤健臣、十五歳。
健臣は家の仏壇の前に濃紺のブレザーの制服を着て座っていた。
仏壇に置かれた信明の写真をじっと見つめている。
「父さん」
健臣は小さく声をかけた。そして、続ける。
「俺、高校生になったよ。しかも、F高校。直も一緒だよ」
健臣の成績ではF高校は難しかった。
志望校を告げた時、担任の教師も苦い顔をしていたことを覚えている。
直とともに必死で勉強して、二人とも奇跡的に合格した。
「父さんが卒業した学校に行きたかったんだ」
健臣は照れくさそうに言った。信明の写真をまっすぐに見つめる。
「これからも勝手に約束する。だから、俺がちゃんと約束を果たせるよう見ててくれよな」
『F高校を卒業すること』
これが今の健臣が父にした約束だ。
「これから入学式だから。いってきます」
健臣は立ち上がり、ばたばたと走り回る典子を振り返った。
「母さん、もう行かないと」
「分かってるわよ! だけど、ネックレスが見当たらないの」
「……ここに置いてあるじゃん」
健臣は苦笑を浮かべながら言った。
典子は健臣が手にしたネックレスを見て、歓喜の叫び声を上げた。
場所は変わって、五階上の松岡和弘の家。
そこでは森野真子がいた。
真子が着ている制服は濃紺で、健臣と同じ高校の制服だ。
リビングで棚に置かれた家族写真を静かに見つめている。
その瞳は長い前髪に隠れて、悲しげに揺れていた。
「いってきます」
そう覚悟を決めたようにそう言って、傍らに置いてある真新しい黒革の鞄を手に取った。
カーテンを閉め切った部屋はうっすらと暗く、さらに暗い廊下へと真子は歩みを進める。
二人が出会うのは、これから一年後のお話――。




