第十四話 エピローグ
その翌日。
健臣と真子と松岡は、晃政を見送るために新幹線の停車駅まで来ていた。多くの人が行き交い、構内放送がひっきりなしに流れている。
「今度来るときは事前に連絡くださいよ。おいしい酒を用意して待ってますから」
松岡が言うと、晃政が笑いながらうなずく。
「真子、元気でな」
晃政は真子の頭を撫でた。真子は恥ずかしそうに顔を赤くしてうなずいている。そして、晃政は健臣を見た。その顔に表情はない。真子は母親似だと思っていたが、こう言うところは晃政によく似たのかもしれない。そう感じながら、健臣は背筋を伸ばした。お互いじっと見つめ合う。なにか言ってくれと思いながらも、健臣は視線を逸らせずにいた。
「健臣くんも元気でな」
晃政はそう言って健臣の頭に手を置いた。健臣は驚いたように晃政を見上げたが、すぐに笑顔を浮かべる。晃政も小さく笑みを浮かべた。
「真子のお父さんもお元気で。気をつけて帰ってください」
「……君に『お父さん』と言われるのは複雑だな。おじさん……いや、俺はおじさんという柄でもないし、名前で呼ばれるのも嫌だな。困った」
晃政は健臣を見下ろしながら難しそうな顔で考え込んでいる。健臣は口元を引きつらせた。
「ほら、晃政さん。乗り遅れますよ」
松岡が急かすように言った。晃政は腕時計を見る。
「おお、もうこんな時間か。じゃあ、またな」
晃政は傍らに置いたスーツケースを持って改札を抜けて行く。真子は小さくため息をついた。松岡は晃政の背中を見送ってから、ゆっくりと改札に背を向けて歩き出す。
「昼飯食ってから帰ろうぜ。近くに有名な店があるんだよ。一回行ってみたかったんだ」
健臣と真子もあとからついて行く。健臣が話しかけると松岡が振り返った。真子は健臣の少しうしろからそのやりとりを見ていた。
翌日。
午前十時を過ぎた頃だった。訪問を告げるチャイムが鳴る。真子は洗濯物を干す手を止めた。テレビを見ている健臣が真子を振り返る。
「俺が出るよ。きっと直だから」
健臣が立ち上がり、ゆっくりと玄関に向かう。すると、もう一度チャイムが鳴った。
「何度も押さなくても出るよ」
健臣が呆れたように言って、にっと笑った。少し悪戯してやろうと玄関の前でにやにやしながら足を止める。玄関の向こうからはやはり直の声がした。
「出ない。いないのかな」
「聞こえてないんじゃないの?」
悠里の声もした。そのことに気がついて健臣が玄関を開けようとドアノブに手をやると、今度はドアをどんどんと強く叩く音がする。健臣は慌てて玄関を開けた。すると、そこにはドアを叩こうと拳を振り上げている悠里と、必死の形相でそれを止めている直と拓也がいた。健臣は玄関のドアから顔を出して、小さく頭を下げる。
「すみません。直だけだと思って悪戯してました」
「豊川さん、叩いていいよ」
直がむっとした表情を浮かべて悠里の腕を離した。悠里が健臣に視線を向けると、健臣の顔がみるみると青くなっていく。
「わたし、弱い者いじめはしない主義だから」
悠里はにっこりと笑顔を浮かべてそう言った。そして、青い顔で立ちつくしている健臣の横をするりと抜けて、リビングから顔を出した真子の元へ駆けていく。
男子三人は玄関で悠里の背中をじっと見つめた。それから直は健臣に視線を移す。
「豊川さんにとって健臣は弱者なんだな」
「ちょっとショックだな……」
「健臣は怪我してるからじゃない?」
拓也が言うと健臣は包帯の巻かれた右腕を見て納得した。それから、もし怪我をしていなかったら叩かれていたのかなと想像して背筋がぞっとした。
健臣たちは悠里のあとを追うようにしてリビングへ向かう。ローテーブルを囲むようにして座った。
「あー、涼しい」
直はクーラーの当たる場所で足を伸ばし、だらしなく座っている。悠里は机に肘をついて真子に話しかける。
「真子はいつアメリカに行くの?」
直と拓也も真子を見た。
「アメリカには行かないことにしたの」
悠里は驚いたように真子を見た。そして、嬉しそうに真子の手をとる。
「本当?」
「うん。高校卒業までは日本にいるつもり」
「じゃあ、大学はアメリカで?」
拓也は聞いた。真子は少し考えるように視線を逸らす。
「まだ決めてない。これからゆっくり考える」
「そっか。それがいいよ」
拓也は爽やかな笑みを浮かべる。
「あとひとつ、報告あるんじゃないの?」
直は少し不服そうに健臣を見た。健臣は顔を真っ赤にする。そして、深呼吸してから拓也と悠里を見た。真子も健臣の隣でわずかに頬を赤らめてうつむいている。
「実は、真子とつきあうことになりました」
「やっと? もう、じれったくて、じれったくて爆発しそうだったんだから」
悠里は身を乗り出して、力を込めて言った。その表情は嬉しそうに見える。拓也も爽やかな笑みを浮かべていた。一方、直は机に肘をついてむすっとした表情で健臣と真子を見ていた。その口元に小さく笑みが浮かんだ。
日差しがほんの少しだけ柔らかくなった夕方。
直と拓也と悠里は、マンションから駅に向かって歩いていた。
いつものように公園を抜けて駅へ向かう途中、正面から二人の女の子が歩いてきた。セーラー服を着ている。
「あれS女子高校の制服だ。可愛い」
悠里が呟いた。すると、女の子の一人が手を上げた。
「直じゃーん」
「よう、まゆみじゃん。智恵ちゃんも。久しぶり」
まゆみと呼ばれた女の子がこちらへ駆けてくる。うしろからゆっくりと智恵と呼ばれた女の子もきた。
「こんなところでどうしたの? 直んちこっちじゃないでしょ?」
まゆみはくりっとした瞳で直を見つめる。笑顔が可愛らしい。さらさらとした長い髪が肩を滑って落ちた。直が少し振り返る。
「健臣んちに行ってたんだよ。あいつ怪我してさ」
「ああ、聞いた、聞いた。駅の近くで事故にあったって。大丈夫なの?」
「うん。けど、右腕を怪我しててさ。なぁーんもできねぇの」
直の言い方がおかしくてまゆみが笑う。
「健臣も大変だよね。直に世話されるなんて余計に怪我しそう。ね、智恵」
まゆみが智恵を振り返りながら言うと、智恵は笑いながらうなずいた。
「な、なんだよ。智恵ちゃんまで! 俺だって役に立ってるんだからな!」
「とはいえ、ほとんど真子ちゃんがお世話してるけどね。直は遊びに来てるだけ」
拓也がそう言うと、直が顔を真っ赤にして拓也を振り返った。
「そんなことねぇよ!」
まゆみと智恵がさらに声を上げて笑った。まゆみは目尻に溜まった涙を拭う。
「そんなことだろうと思った。せいぜい健臣に迷惑かけないようにね。……で、そちらは?」
まゆみが瞳を輝かせて拓也を見上げる。拓也は爽やかな笑みを浮かべた。
「ああ、こいつは篠原拓也。で、こっちが豊川悠里さん」
「わたし、東まゆみです。で、この子は山中智恵。わたしたち中学が直と一緒だったの」
まゆみが可愛らしい笑みを拓也と悠里に向けている。その横で智恵は小さく頭を下げた。
まゆみは視線を悠里に向けて、首をかしげながらたずねる。
「もしかして……直の彼女さん?」
「まさか。違うけど」
悠里が言うと、まゆみは少しほっとしたような表情を浮かべた。そして、今度はそれを笑みに変える。ころころと表情の変わる子だ。
「だよねぇ。直にこんな綺麗な彼女さんがいるわけないもの」
「なんだよ、まゆ。その言い方」
直がむくれたように言うと、まゆみは小さく笑った。
「ごめん、ごめん。――そろそろ行くね。じゃあね、拓也くん、悠里ちゃん」
まゆみは笑顔で手を振りながら智恵とともに去っていく。直はむくれた表情のまま見送った。
「あいつ、拓也と豊川さんにだけ挨拶して帰りやがった! 俺のことは無視かよ」
「直って中学時代からいじられキャラなの?」
「いじられてねぇよ。俺は愛されキャラなの!」
直と拓也が歩き出した。悠里は二人のうしろから離れて歩き、直の背中をじっと眺める。きっと東まゆみは直のことが好きだと悠里はそう感じた。どこがいいのだろうかと思う。お調子者だし、ガキっぽいし、デリカシーはないし。そう思うのだが、直とまゆみが仲良く話しているのは気にくわなかった。その事実がさらに悠里を苛立たせる。
直と拓也が離れて歩く悠里を不思議に思って振り返った。そして、驚いた表情を浮かべる。
「ど、どうしたの? 豊川さん、顔が怖いよ」
直がおそるおそる言った。悠里の眉根に入った皺がさらに深くなり、目力が増す。直がその視線を受けて、ぴん背筋を伸ばした。悠里は少しうつむいて言った。
「悠里」
「え?」
よく聞こえなかったのか、直は首をかしげる。
「『豊川さん』じゃなくて『悠里』って呼びなさいよ。いつまで経ってもわたしだけ名字なんだもの。……距離、感じるじゃない」
悠里がわずかに頬を染めてふいっと視線を逸らした。直と拓也はお互いに顔を見合わせる。
「じゃあ、俺のことも『直』な」
「じゃあ、俺も『拓也』で」
悠里は笑みが浮かびそうになるのを必死でこらえる。すると、口元が震えた。
「しょうがないわね。名前で呼んであげる」
「しょうがねぇな。俺も名前で呼んでやるか」
直と拓也と悠里は楽しそうに笑った。
それから三週間が経った。
今日も松岡の家のチャイムが鳴る。ぱたぱたと足音がして真子が顔を出すと、そこに立っていたのは健臣だった。右腕の怪我もすっかりとよくなって包帯も取れている。
「おはよう。支度終わってる?」
真子はうなずいた。そして、鞄を持って出てくる。健臣と真子は家をあとにした。
いつものように公園の池沿いの道を歩いて駅へ向かう。
「怪我はもう平気?」
「うん、もうなんともない」
健臣はそう言って右腕を動かす。その腕にはわずかに傷跡が残っていた。真子はそれを見て、少しだけ申し訳なさそうな表情をする。健臣はそんな真子に笑みを浮かべた。
「プール、楽しみだな」
真子は健臣の笑顔につられるようにして小さく笑みを浮かべた。健臣はそれを見てさらに笑みを深める。
健臣は辺りをきょろきょろと見回して誰もいないことを確認した。そして、そっと真子の肩に手を置いて、キスをする。真子は頬を朱に染めて静かに瞳を閉じた。
二人は照れくさそうにはにかんだ。それを誤魔化すように健臣は真子の手を掴む。
「行こうぜ。みんなが待ってる」
「うん」
健臣に手を引かれるようにして真子は歩き出す。
道のそばの池は、真夏の太陽の光を照り返してきらきらと輝いていた。
これからも手を繋いで、いつまでも。




