第3話 あの夏の別れ
再会から一週間が過ぎたある夜、遥が店を閉めた後、二人で海辺の小さなバーに行った。
カウンター席で地元の日本酒を飲みながら、俺たちはようやくあの夏のことをまともに話せた。
「本当のことを、聞きたい?」
遥がグラスを両手で包みながら静かに言った。
俺は頷いた。
遥は少し遠い目をして、ゆっくりと話し始めた。
あの夏、俺が東京の大学に進学が決まった頃、遥の母親の病状が急に悪化した。
遥は大学進学を諦め、地元で看護をしながら母親を看ることになった。
俺はそれを知りながらも「大丈夫、俺が稼ぐから」と強がっていた。
でも現実は甘くなかった。
東京での新生活は想像以上に厳しく、俺は毎日の課題とアルバイトに追われ、週末も疲れ果てて連絡を先延ばしにするようになった。
遥はそんな俺を責めず、ただ「無理しないでね」と優しいメッセージを送り続けてくれた。
そして、別れの三ヶ月前。
遥の母親が危篤になった夜、彼女は俺に電話をかけてきた。
声が震えていたのを今でも覚えている。
「拓也くん……お母さんが、もう長くないみたい。
来てくれないかな。一目でいいから、会いたいって言ってるの」
そのとき俺は、大学の大事なゼミ合宿中だった。
教授に気に入られていて、将来の推薦状にも関わる大事な機会だった。
俺は迷った末にこう答えた。
「ごめん、今どうしても抜けられない。
でもすぐに終わったら行くから……待っててくれ」
遥は泣きながら「わかった」と言った。
結局、俺は合宿が終わった二日後に町に戻った。
しかしそのときには、遥の母親はもうこの世にいなかった。
「葬式の後、拓也くんが来たとき……私はもう限界だったの。」
遥はグラスを静かに置いた。
「怒りとか悲しみとか、いろんなものがごちゃ混ぜになって……
『もう待てない』ってLINEを送った。
本当は、ただ『来てほしい』って叫びたかったのに。」
俺は言葉を失った。
あのとき、遥がどれだけ孤独で、どれだけ俺を必要としていたか、全く理解できていなかった。
「俺は……ただ、怖かったんだと思う。
遥に頼られるのが、俺の夢を邪魔するんじゃないかって。
結局、自分が一番大事だった。」
遥は静かに首を振った。
「私も悪かったよ。
もっと素直に『寂しい』『来て』って言えればよかった。
でも、強がって『大丈夫』って言っちゃった。」
バーの窓から見える海は、静かに波を打ち寄せていた。
15年前の夏の夜も、きっとこんな風に波の音がしていた。
遥が小さく微笑んだ。
「でもね、不思議なんだ。
今こうして拓也くんとまたお酒を飲んでると、
あのときの悲しみが、ちょっとだけ優しい記憶に変わっていく気がする。」
俺は胸が熱くなり、思わず彼女の手の甲に自分の手を重ねた。
遥は一瞬びっくりしたけど、逃げなかった。
「遥、俺……」
「今はまだ、いいよ。」
彼女は俺の手を優しく握り返して言った。
「ゆっくりでいいから。
15年も待ったんだもの。あと少し、待てるよ。」
その夜、俺は家に帰る道中、ずっと海を見ていた。
過去の別れは、俺たちの間にまだ深い溝を残していた。
でも、同時に——その溝を埋めようとする新しい波も、確かに生まれ始めている気がした。
潮の音が、遠くで静かに響いていた。




