真理8:蟲に喰われる青年!
新王都の裏社会において、「ニルヴァーナ」という名の組織は特異な位置を占めていた。暴力と恐怖で暗黒街を支配する旧来の犯罪シンジケートとは異なり、彼らが掲げる最終目的は「番号持ち」と「新魔道士」の完全なる共存であった。その理想を達成するためならば、非合法な手段も、血なまぐさい抗争も辞さない。アキラ・トバリは、そのニルヴァーナの中核を担う最高幹部の一人だった。
第三埠頭での悲劇を経て、自らの信じていた「正義」の脆さと欺瞞に絶望したニーアは、アスナと共にこのマフィア組織に身を投じる決意をした。それは決して、光の世界を完全に捨て去ることを意味してはいなかった。
彼女たちは昼間はこれまで通り「ヴェリタス探偵事務所」の看板を掲げ、警察からの依頼も引き受ける正義の探偵として活動を続ける。
そして夜になれば、ニルヴァーナの構成員として暗躍し、法の網の目を潜り抜けて両者の調停と暗闘に関与する。
表の光と裏の闇、正義と悪の双方の視点からこの歪んだ新王都の構造を調査し、破壊するための、最も危険で最も効率的な生存戦略だった。
組織への合流から程なくして、探偵事務所の暗号通信にアキラからの緊急の依頼が舞い込んだ。
新王都の最北端に位置する、地図上では空白地帯として処理されている辺境の集落。そこは、社会から弾き出された「番号持ち」たちだけがひっそりと身を寄せ合って暮らす、完全な閉鎖空間だった。その集落において、一人の「新魔道士」が番号持ちたちの手によって惨殺されたという情報が、ニルヴァーナの諜報網に引っかかったのだ。
もしこの情報が王都魔導規制局や警察の耳に入れば、事態は破滅的なものになる。「番号持ちによる新魔道士の殺害」という事実は、体制側にとってこれ以上ないほどの格好の口実となる。集落は特殊部隊によって完全に包囲され、老若男女を問わず、そこに住むすべての番号持ちが「テロリスト」として文字通り撫で斬りにされるだろう。
そうなる前に、ニーアとアスナの手で集落に潜入し、真犯人を特定して密かに処断し、事件そのものを闇に葬り去らなければならない。それがアキラからの至上命令だった。
二人は即座に準備を整え、新王都の最北端へと急行した。
目的地に近づくにつれ、風景から色彩が失われていった。灰色の空から吹き下ろす凍てつくような北風が、容赦なく肌を刺す。ニーアは分厚い防寒コートの襟を立て、獣耳を冷気から守るようにフードを深く被った。アスナは相変わらず黒いジャケット姿のままだったが、彼女の竜人としての体温調節機能は完璧に働いており、冷気によるパフォーマンスの低下は一切見られなかった。彼女の右手には、常に手放さない熱い珈琲が入った保温ボトルが握られている。
重苦しい鉛色の雲の下、枯れ果てた荒野の果てに、その集落はあった。
錆びついたトタン屋根の小屋が不規則に身を寄せ合うように建ち並ぶその場所には、「墓守教」と呼ばれる新興宗教が深く根付いていた。国家から見捨てられ、生きる希望を奪われた番号持ちたちにとって、その教えは唯一の精神的支柱であり、絶対の法であった。
集落の最奥、周囲の貧相な小屋とは明らかに一線を画す、黒い木材で建造された巨大な屋敷がそびえ立っていた。そこが、彼らが崇拝する「導師」の居城、墓守の里の心臓部だった。
冷ややかな視線を向ける村人たちを掻き分け、二人は屋敷の内部へと足を踏み入れた。カビと古い線香の匂いが立ち込める薄暗い廊下を、奥へ、さらに奥へと進んでいく。
そして、重厚な観音開きの扉を押し開けた最深部の部屋で、二人は「それ」と対面した。
それは、およそ人と呼ばれる存在ではなかった。
広大な部屋の床から壁、そして高い天井に至るまで、空間のすべてを夥しい数の蟲が埋め尽くしていた。青白い燐光を放つ甲殻と、複雑に蠢く無数の脚を持つその生物は、「思考蟲」と呼ばれる地脈の突然変異体だった。数万、数十万という思考蟲が、一つの巨大な意志を持つように蠢き、擦れ合い、不気味な羽音を共鳴させている。蟲の群れの中から、触手のように伸びた光る塊が、ゆっくりとニーアとアスナを手招きした。
『よく来た、迷える子羊たちよ』
声帯を持たないはずの蟲の群れから、脳に直接響くような重低音が発せられた。無数の蟲の羽音が合成され、一つの言語として構築されているのだ。
「あなたが、この集落の導師なのね。私は『ニーア・ヴェリタス』。……単刀直入に聞くわ。ここで新魔道士が殺されたというのは『本当』なの」
ニーアが警戒心を露わにして問いただすが、導師はそれに直接答えることはなかった。
『偽る者に、答えることは何もない。……生き物というものは、極めて滑稽な存在だ。ミクロの視点で見れば、それぞれが己の意思で思考し、選択し、自由に行動していると錯覚している。しかし、マクロの視点、すなわちこの世界の巨大な流れから俯瞰すれば、すべての命は完全に同じ方向を向いて行進しているに過ぎない』
哲学的な、あるいは狂気に満ちた導師の言葉に、ニーアは苛立ちを隠せなかった。彼女の単純で直情的な思考回路では、蟲の群れが語る抽象的な概念の真意を掴みかねていた。
しかし、隣に立つアスナの黒縁眼鏡の奥の青い瞳は、冷徹な光を放ちながら導師の言葉を正確に解析していた。アスナは保温ボトルの蓋を開け、湯気の立つ珈琲を一口含んでから、平坦な声で応じた。
「……個の意思の集合体が、結果として不可避のシステムを構築しているという理論。理解可能」
アスナの肯定を受け、蟲の群れは歓喜するように青白い光を明滅させた。
『いかにも。そして、すべての生き物の最終的な目的は、自滅のための拡大と進化である。文明を築き、魔力を求め、他者を排除してまで生存圏を広げようとするその果てしない欲望は、最終的に自らの首を絞め、種を破滅へと導くための壮大な儀式に過ぎない』
「……生命の究極的な結末は死であり、生きるという行為そのものが、死ぬためのプロセスである。生と死は対極ではなく、進行方向の同一線上に存在する。それも、理解可能」
アスナは冷めた珈琲を喉に流し込みながら、さらなる質問を投げかけた。
「……では、その不可避の結末に向かう者を、意図的に邪魔する者には、どのような結果がもたらされるのか」
部屋中の蟲の羽音が、一瞬にして高く、鋭い警告音へと変化した。
『破滅が訪れる。大いなる流れに逆らう不純物は、全体の調和を保つために、自ら排除される道を選ぶ』
導師の部屋を後にした二人は、アキラの情報通り、屋敷の地下室でその惨劇の痕跡を発見した。
巨大なガラス張りの水槽。その中は濁った液体で満たされ、底には無数の思考蟲が群がり、何かを貪り食っていた。液体の中に漂っていたのは、バラバラに解体された人間の青年の遺体の一部だった。
ニーアは強烈な吐き気を覚えながらも、探偵としての視線を遺体に向けた。だが、遺体の状況をどれだけ観察しても、犯人に繋がるような物理的な証拠は見つからなかった。
ニーアはこの直感的な違和感から、今回の事件の鍵は「誰が直接手を下したか」という単純な犯人探しにはないことを確信した。
それから三日三晩、ニーアとアスナは凍てつく集落に泊まり込み、村人たちへの徹底的な聞き取り調査を敢行した。閉鎖的で口の重い村人たちだったが、ニーアの獣人としての鋭い威圧感と、アスナの論理的な尋問の前に、少しずつ真実の欠片が零れ落ちていった。
そして、すべてのパズルが組み合わさった時、ニーアの前に立ち現れたのは、身の毛もよだつような「誰も青年を殺していないが、全員が殺した」という紛れもない事実だった。
この集落の住人は、文字通り百パーセントが魔力を暴走させる危険性を持つ「番号持ち」の獣人や人間たちであった。彼らは都市部で新魔道士から迫害を受け、逃げ延びた末にこの最果ての地にコミュニティを築いた。
しかし、殺されたあの青年にだけは、特異な体質の関係から、体内を巡る魔力が一切存在しなかったのだ。
都市部であれば、魔力を持たない者はごく一般的な市民である。しかし、全員が魔力の異常を持つこの閉鎖された集落においては、魔力を持たない青年こそが、完全な「異端」であった。
村人たちは、青年の魔力がないという事実を、「不治の病」や「恐ろしい奇形」であると呼び、彼を徹底的に避け始めた。そして、その恐怖と無知は、やがて歪んだ被害妄想へと発展していった。
魔力を持たない彼は、いずれ体制側に寝返り、恐るべき「新魔道士」の手先になるに違いない。彼は自分たちの集落の秘密を売り渡し、自分たち番号持ちを「車両」という最低の蔑称で呼び捨てにし、迫害する側に回るのだと。
都市部での差別のトラウマが、集落の中で反転し、最も弱い立場にある青年に牙を剥いたのだ。
村人たちは直接彼に刃物を向けたわけではない。だが、すれ違うたびに浴びせられる蔑みの視線、集会からの徹底的な排除、配給される食料の制限、そして夜な夜な家の壁に投げつけられる石と呪詛の言葉。集落の全員が参加した、終わりのない精神的、肉体的な迫害。
それは、青年の心を確実に、そして完膚なきまでに破壊していった。
最終的に、青年は自死を選んだ。
だが、青年の心は最後まで純粋だった。彼は自分を迫害し続けた村人たちを、憎むことができなかった。都市部で傷つき、怯える彼らの弱さを知っていたからだ。青年は最後まで、この狂った集落の村人たちを愛していた。
だから彼は、自らの首を吊る前に遺書を残した。
「皆が愛する導師様の、養分にしてください」
彼は自らの肉体すらも、村人たちの信仰のために捧げたのだ。水槽の中で蟲の餌になっていたのは、殺人事件の被害者ではなく、狂気に殉じた悲しき生贄の姿だった。
事件の全貌を理解した時、ニーアは激しい寒気と目眩に襲われ、雪のない凍てつく地面に膝をついた。
そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、一組の老夫婦がよろよろと歩み寄ってきた。二人のシワだらけの顔には涙が浮かんでおり、深く悲しんでいるように見えた。
しかし。
二人の交わす会話を獣耳で拾い上げたニーアは、再び絶望の底に突き落とされた。
「ああ、あの病気の若者が死んで、これでようやく安心だねえ。ねえ、ケンジ」
「全くだよ。あんな新魔道士の回し者がいなくなって、導師様もさぞお喜びだろう。アリア、これで今年の冬も、安心して越せるというものだよ」
二人の涙は、青年の死を悼むものではなかった。異端者が消え去り、自分たちの歪んだ平穏が保たれたことへの、身勝手な安堵の涙だったのだ。
ニーアは、自分の胸の奥で何かが決定的に砕け散る音を聞いた。
都市部において、権力を持つ新魔道士が弱者である番号持ちを迫害する現実は、確かに深刻な問題だ。
しかし、この最果ての田舎においては、弱者であったはずの番号持ちが集団となり、さらに少数の弱者に対して壮絶な逆差別と迫害を行っている。
「番号持ちをいじめる悪い新魔道士さえ退治すれば、あるいは説得すれば、世界は平和になる」
ニーアが漠然と抱きつつあったその正義のビジョンは、あまりにもおこがましく、無知で、完全なる見下しであった。
強者と弱者の構図は固定されたものではなく、環境が変われば容易に反転する。
人間の本質に根付く「異物への恐怖」と「差別への欲望」がある限り、この悲劇の連鎖は、けして終わらないのだ。
ニーアは今日この日まで、自分がいかに都合の良い正義だけを見ていた井の中の蛙であったかを、痛烈に自覚させられた。彼女は両手で顔を覆い、凍てつく風の中で声を殺して泣いた。
一方で、アスナの興味は、ニーアが抱える深い倫理的葛藤とは全く別の次元に向けられていた。
彼女の青い瞳は、先程から目の前で身勝手な安堵の涙を流している老夫婦の顔を、まるで精密なスキャナーのように捉えて離さなかった。
彼女の記憶データベースの最深部で、激しいエラー音が鳴り響いている。
この老夫婦の顔つき、歩き方の癖、骨格の構造。それらが、アスナの失われた記憶の欠片と、不気味なほどに符合しているような気がしたのだ。
どこかで会ったことがある。
それも、極めて重要な局面で。
彼女の胸の奥で、かつてないほど強烈なノイズが渦巻き、視界がわずかに歪んだ。
しかし、アスナはゆっくりと瞬きをして、その思考プロセスを強制終了させた。
今の自分は、ニルヴァーナの構成員であり、ヴェリタス探偵事務所の探偵だ。過去の不確かなデータにリソースを割くことは、現在のミッション遂行において著しいノイズとなる。
アスナはポケットから新しいドーナツを取り出し、何もなかったように無表情にかじりついた。甘い脂の味が、エラーを起こしかけていた論理回路を、再び冷たく強固なものへと冷却していく。
「……ニーア。解析は完了した。この集落に、『殺人事件』は存在しない。……アキラへの報告書を作成し、速やかにこの場を離脱するべき」
アスナの平坦な声が、凍てつく荒野に響いた。




