真理9:恨みを持つ狂人たち!
凍てつく最果ての集落から新王都へと帰還した二人は、それぞれ別の場所で、この狂った世界の新たな深淵を覗き込もうとしていた。
新王都の空が、毒々しい赤紫色の夕闇に染まる頃。
アスナは、巨大マフィア組織「ニルヴァーナ」の地下本部へと足を運んでいた。アキラ・トバリからの招集によるものだ。表向きは新王都の物流を牛耳る巨大なダミー企業の倉庫群、そのさらに地下深く、地脈のエネルギーラインに直接寄り添うように構築されたその空間は、冷徹な機械群と豪奢なアンティークが混在する、異様な要塞であった。
案内されたのは、組織の最高権力者が滞在するという最深部の特別室だった。重厚な鋼鉄の扉が音もなく開き、アスナは静かに室内へと足を踏み入れた。彼女はいつものように、漆黒のジャケットを隙なく着こなし、黒縁眼鏡の奥の青い瞳で瞬時に室内の構造と脅威度をスキャンする。
広大な部屋の奥、豪奢なマホガニーのデスク越しに、一人の女性が立っていた。
ニルヴァーナの首領の女であり、組織の実質的な意思決定に深く関わるとされる人物、ヴィルゴ・ライ・リーア。年齢は五十歳前後だろうか。目尻に刻まれた微かな皺さえもが彼女の凄みと気品を引き立てている。
しかし、アスナが部屋の中央まで進み出た瞬間、ヴィルゴの威厳に満ちた表情が、まるで魔法が解けたように劇的に崩れ去った。
「ああ……」
ヴィルゴの口から、掠れた、しかし深い激情を孕んだ吐息が漏れた。彼女はデスクの横をすり抜け、ドレスの裾が乱れるのも構わずに、よろめくような足取りでアスナの目の前まで歩み寄ってきた。
ヴィルゴから放たれる気配に含まれていたのは、ただ純粋で、圧倒的なまでの「歓喜」だった。
「本当に……本当に、あなたなのね。こんな日が来るなんて……」
ヴィルゴの両目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。彼女は震える両手を伸ばし、アスナの頬にそっと触れようとして、ためらい、空中でその手を止めた。まるで、触れれば幻のように消えてしまう精巧なガラス細工を前にしているかのようだった。
アスナは無表情のまま、目の前の女性を観察した。
なぜ初対面の人間が、自分を見てこれほどまでに感情の数値を振り切らせているのか。アスナの論理回路は、その理由を導き出せずにいた。記憶のデータベースを何度検索しても、ヴィルゴ・ライ・リーアという人物との接触記録は存在しない。
しかし。
アスナの視覚センサーが、ヴィルゴの容姿の詳細なデータを脳内に転送した瞬間、アスナの強固な論理回路の奥底で、かつてない規模の異変が起きた。
美しく深い褐色の肌。
夜の闇の中で月光を反射するような、見事な銀髪。
そして、透き通るような冷たい青い瞳。
その三つの特徴的な視覚情報が組み合わさった時、アスナの胸の奥底、人工的な生体パーツで構成された心臓部が、ドクンと大きく脈打った。
それは、恐怖でも、警戒でもなかった。
『懐かしさ』だった。
絶対的な郷愁。遠い昔に失われた、温かく、そしてひどく悲しい記憶の残滓。データとしては完全に消去されているはずなのに、竜人としての生体組織の細胞一つ一つが、目の前の褐色の肌と銀髪と青い瞳を持つ女性を「知っている」と叫んでいた。
「……私の生体データに、あなたとの照合記録は存在しない」
アスナは、自らの内に生じた原因不明のエラーを隠すように、極めて平坦な声で告げた。
「……しかし、私の深層領域が、あなたの視覚的特徴に対して、過剰な親和性反応を示している。……あなたは、過去の私を、知っているのか」
ヴィルゴは涙に濡れた顔で、美しく微笑んだ。
「ええ。『私はすべて知っている』わ。あなたがどれほど長い間、冷たい闇の中で眠り続けていたかも。……でも、今はまだ、すべてを語る時ではないの。ただ、『すべてを忘れたあなた』がこうして生きて、『苦しめられていた私』の目の前に立ってくれている。その奇跡だけで、私は……」
ヴィルゴはそれ以上言葉を続けることができず、両手で顔を覆って泣き崩れた。
アスナはただ静かに、その銀髪の女性を見下ろしていた。自らの内に広がる、説明のつかない温かいノイズを持て余しながら。
一方その頃。
冷たい雨が再び降り始めた新王都の歓楽街。喧騒から切り離されたようにひっそりと佇む老舗のバー「奥泉」に、ニーアの姿があった。
柔らかな琥珀色の照明、静かに流れるジャズの調べ、そして、葉巻と極上の洋酒が織りなす芳醇な香り。
カウンターの奥には、マスターであるハママツが静かに立っていた。
ニーアはカウンターの中央に深く腰掛け、極太の尻尾を力なく床に垂らした。彼女の獣耳は悲しげに伏せられたままだ。最北の集落で目撃した、あの墓守教の狂気と、番号持ち同士による凄惨な逆差別の記憶が、冷たい泥のように彼女の心にこびりついて離れなかった。
「……マスター。いつもの、すごく強くて、何もかも忘れられるやつをお願い」
ニーアの掠れた声に、ハママツは何も聞かずに無言で頷き、手早くグラスに氷を滑り立たせた。
静寂とグラスの氷が溶ける音だけが響く中、ニーアはふと、視線を感じて顔を上げた。
カウンターのずっと端の席。薄暗い照明の死角になるような場所に、一人の客が座っていた。
それは、明らかに精神に異常をきたしているとわかる、初老のライオンの獣人だった。
かつては立派だったであろう黄金色の鬣は、長年の脂と汚れで見る影もなく固まり、ところどころが抜け落ちて地肌を晒している。身に纏っている衣服は、元は高級な仕立てだったとわかるが、今は擦り切れ、異臭を放つボロ布と化していた。
男は、前に置かれた空のグラスを見つめながら、小刻みに震え、そして極めて小さな、しかし耳障りな声でぶつぶつと何かを呟いていた。
「いいいいいっ!ちがう!ぼくが世界を救ったんだよ、感謝しろよねッ!」
その言葉の響きは、薄汚れた中年男の容姿とはおよそかけ離れた、まるで、幼い子供が駄々をこねるような、無邪気で歪んだトーンだった。
「しないとき!ぼくは、世界を壊しちゃったのっ?やだやだやだやだ!」
男は自分の頭を両手で激しく掻きむしりながら、声を押し殺して叫ぶ。
「ぼくじゃなかったらできないことは何?魔法!そうですか。……魔法がないなら、謝れ!」
ニーアは背筋に冷たいものが走るのを感じ、慌てて視線を自分のグラスに戻した。関わってはいけない類の狂気だ。今のニーアには、他人の狂気を受け止めるだけの精神的余裕は一ミリも残されていなかった。
しかし、ニーアが目を逸らしたその瞬間。
ぐるり、と。
骨が軋むような異様な音が、静かな店内に響いた。
ニーアが反射的に横目で確認すると、ライオン獣人の男が、その太い首を真横に九十度曲げた状態で、カウンターの端から瞳孔の開いた目で、ニーアを凝視していた。
濁りきった黄色い瞳孔が、ニーアの存在を真っ直ぐに射抜いている。
そして、男は歪んだ笑みを浮かべ、はっきりとした声でこう言った。
「そうだけど、墓守教に入らなきゃだめだよ。小さいなら、ニッ!……大きい方が、きちんとするし?……ニッ……偽物のヴェリタスさん!」
ドクン、と。ニーアの心臓が激しく跳ね上がった。
全身の毛が総毛立つ。
墓守教。
つい数時間前まで、ニーアとアスナがその恐るべき真実を目の当たりにしてきたばかりの、あの凄惨な事件の舞台。
なぜ、新王都の片隅にいるこの狂った獣人が、その名を呼ぶのか。
ニーアは、恐怖と混乱で動けなくなった。無視を決め込もうとするが、ライオン獣人は首を九十度に曲げた異様な姿勢のまま、なおも大声でニーアに向かって叫び始めた。
「ねえ!聞いてる!?大きい方がい……いんだよ!世界を壊すなら、大きい方が!ぼくは知ってるんだからねっ!」
限界だった。ニーアは堪り兼ねて、カウンターの奥で静かにグラスを拭き続けているハママツに助けを求めるように声をかけた。
「マ、マスター……あの人、一体何なの……?すごく怖いんだけど……」
ハママツはグラスを磨く手を止め、太い溜息を一つ吐き出した。その表情には、狂人への嫌悪よりも、深い憐憫のようなものが漂っていた。
「……気にするな、ニーア。彼は、もうずっとあんな調子だ。完全に壊れちまってる。危害を加えることはないが……言葉には意味がない」
ハママツは低い声で、狂人の素性について語り始めた。
「彼はな、ああ見えても歴史を持つ、ある名家の生まれなんだ。頭脳もずば抜けていて、この国で最高の学府であるソフィア大学を、歴代最高の成績で首席卒業したほどの天才だった」
「ソフィア大学の首席?……妄想よ!」
ニーアは信じられない思いで、端の席でうわ言を続けるライオン獣人を見た。
「ああ。だが、天才すぎる頭脳は、時に世界の構造そのものの矛盾に気づいちまう。……やがて、完全に論理が破綻した妄想に取り憑かれた。『かつて世界を白紙化の破滅から救うために、世界を暴力のウイルスで破滅させた』だの、『その破滅の暴力を止めるために世界を暴力で救おうとした』だの、矛盾したわけのわからないことを触れ回るようになった」
ハママツはライターで葉巻に火をつけ、紫煙を細く吐き出した。
「そして彼の妄想の行き着く先はいつも同じだ。『自分がすべてを計算し、実行したのに、一匹の“飛竜”に美味しいところをすべて取られた』……そう言っては、毎晩のようにここで泣き喚いている。天才の成れの果ての、悲しい喜劇さ」
「飛竜……」
ニーアの脳裏に、漆黒のジャケットを着た相棒の姿が過ぎった。アスナは竜人だ。まさか、この男の狂気とアスナの過去に、何らかの繋がりがあるというのだろうか。それとも、単なる偶然の符合に過ぎないのか。
「マスター……」
ニーアは喉の渇きを覚えながら、震える声で尋ねた。
「その人の、名前は……何て言うの?」
ハママツは葉巻を灰皿に置き、深い悲哀を込めた瞳で、その汚らしいライオン獣人を見つめた。
「リオン。……リオン・ゴルドファングだ」




