真理7:悪の世界に堕ちる者!
灰色の雲が厚く街を覆い、冷たい雨が石畳を打ち据える音が絶え間なく響いている。
ヴェリタス探偵事務所の窓辺に立ち、ニーアはガラス越しに、霞む街並みをただぼんやりと見つめていた。彼女の背後では、珈琲豆を挽く心地よい音と、深く焙煎された香ばしい匂いが室内に満ちている。
アスナはカウンター席に座り、新しい黒縁眼鏡の位置を中指で静かに押し上げた。アスナの身体は、あの夜、第三埠頭で受けた絶望的な直撃から、完全に回復していた。竜人という種族が持つ驚異的な自己修復能力が、砕け散った骨や裂けた肉を元の状態へと繋ぎ合わせたのだ。だが、外傷は癒えても、事務所を包み込む空気は致命的なまでに重く、淀んでいた。
アスナは淹れたてのブラックコーヒーをマグカップに注ぎ、傍らに置かれた皿から、砂糖がたっぷりとかかったドーナツを一つ手に取った。甘い脂の匂いが珈琲の香りと混ざり合う。彼女は無表情のままドーナツを一口かじり、静かに咀嚼した。
「ニーア。糖分とカフェインの摂取は、脳機能の低下を防ぐための最も効率的な手段。冷める前に飲むべき」
アスナの平坦な声が、雨音だけが響く室内に落ちた。
ニーアはゆっくりと振り返り、力なく首を振った。極太の尻尾は床に力なく垂れ下がり、かつての活気に満ちた姿は見る影もない。
「……いらない。お腹、空いてないの」
ニーアはソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。彼女の脳裏には、いまだにあの日見た光景が鮮明に焼き付いている。砂となって風に消えていった獣人の青年。彼の心臓を貫いた自分の拳の、生々しい感触。そして、誰にも看取られることなく氷のように冷たい部屋で息を引き取ったであろう、あのエルフの少女の虚ろな瞳。
ニーアが信じてきた真理は、あの日を境に、完全に反転してしまっていた。
「ねえ、アスナ。子供みたいなことをいうけどもさ……悪って、一体、何なの……」
ニーアの掠れた声が、沈黙を破った。
「……あの青年は、ただ、エルフの子を助けたかっただけ。愛する家族を守ろうとした。それの、どこが悪なの。生きようとすること、生かそうとすることは、命あるものの最も尊い願いじゃないの」
ニーアは両手を握りしめ、言葉を絞り出すように続けた。
「ビリーだってそうよ。彼は王都の警察官として、市民の安全を守る義務があった。紫の魔石がテロに使われるかもしれない状況で、しかも相手は強力な魔力を暴走させていた。現場の指揮官として、市民を守るために引き金を引く決断をしたビリーを、いったい、誰が悪だと責められるの」
ニーアの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「私とアスナだって、誰も、死なせたくなかった。青年を説得して、女の子の治療法を一緒に探そうとした。人道的に、一番平和な解決策を見つけようと、足掻いた。『私は悪くなかったはず』よ。みんな、大切なものを守るために必死に生きていただけなのに。それなのに、なんであんな……あんな残酷な結末にしかならなかったの」
正義と正義が衝突し、法律が弱者を切り捨て、良心が無力に砕け散る。人間や獣人、竜人、エルフ、あらゆる命が泥臭く生きようとするその姿そのものを賛美したいと願っていたニーアの心は、冷酷な現実のシステムを前に完全に打ちのめされていた。
アスナはコーヒーを一口飲み、静かにニーアを見つめた。
「ニーアの推論は、分析としては極めて正確。あの場に存在していた個人の行動原理において、根源的な悪意を持っていた者は誰もいない。問題は、個人の善悪ではない」
アスナはドーナツの残りを口に放り込み、指についた砂糖を拭き取りながら言葉を紡いだ。
「問題は、この新王都を構築しているシステムそのものにある。格差を生み出す構造。その結果として生じる、絶対的な貧困と、魔力を持たない者、あるいは、制御できない者への迫害。……システムこそが、構造的な悪として機能している」
アスナの残酷なまでに論理的な分析は、ニーアの心に冷たい刃のように突き刺さった。
そして、現実の社会はアキラ・トバリが予見した通り、より最悪の方向へと加速していた。第三埠頭での事件以降、王都魔導規制局と警察による「番号持ち」への迫害は、目に見えて激しさを増していた。
テロ対策という大義名分の下、貧困層が住むスラム街や歯車通りのような裏町では、連日のように強制捜査が行われ、わずかな魔力反応があるだけで無実の者たちが次々と連行されていった。彼らの財産は没収され、反抗すればその場で新魔道士による容赦ない制裁が加えられた。
街を歩けば、恐怖に怯える番号持ちたちの姿があり、それを見て見ぬふりをして通り過ぎる一般市民の冷ややかな視線があった。ニーアは探偵として、警察の協力者として街を歩くたびに、自分がこの巨大な迫害のシステムの一部として機能しているのではないかという強烈な自己嫌悪に苛まれた。自分が何もしないことで、あるいは警察から依頼された些細な仕事をこなすことで、この狂った秩序の維持に加担している。その事実が、彼女の魂を少しずつ削り取っていた。
それでも、世界は立ち止まってはくれない。探偵事務所には次々と厄介な依頼が舞い込み、ニーアとアスナはその日々の喧騒の中に身を投じるしかなかった。
あの日からの数ヶ月間で、二人が解決した事件はどれも、新王都の歴史に名を残すほどの大規模なものばかりだった。
一つ目は、時計塔爆破事件。
新王都の中央にそびえ立つ、巨大な機械仕掛けの象徴。その心臓部であるメインストリームの歯車群に、過激派組織が圧縮魔石爆弾を仕掛けた事件だ。タイムリミットが迫る中、ニーアとアスナは複雑に入り組んだ時計塔の内部に潜入した。襲い来る多数の武装構成員たちを、ニーアは獣人の超人的な身体能力を駆使して次々と殴り倒し、アスナは敵の魔力回路を瞬時に解析して無力化していった。巨大な振り子が揺れ、歯車が轟音を立てて噛み合う危険な足場での死闘。最後は爆発まで残り数秒というところで、アスナが魔石の起爆術式を逆算して解除することに成功し、王都の象徴は守られた。
二つ目は、書庫空中浮遊事件。
王立大書庫の地下深くに封印されていた古代の魔導書が何者かによって解放され、その膨大な魔力によって重力場が狂い、巨大な石造りの図書館そのものが王都の空へと浮かび上がった未曾有の災害である。ニーアとアスナは浮遊する瓦礫を飛び移りながら宙に舞う図書館へと侵入し、無差別に放出される古代魔法の弾幕を掻い潜った。魔力によって具現化した神話の怪物たちが次々と襲い来る中、二人は書庫の最深部に到達し、暴走する魔導書の核を破壊して重力異常を鎮めた。落下していく図書館から間一髪で脱出した二人の姿は、多くの市民の目に英雄として焼き付いた。
三つ目は、飛行艇魔獣襲撃事件。
王都の上層階級だけが乗船を許される超豪華な魔導飛行艇の処女航海において、突如として空の彼方から飛来した魔獣の大群が船を襲撃した。高高度の冷たい風が吹き荒れる甲板で、ニーアは乗客たちを守るために単身で魔獣の群れに飛び込んだ。鋭い爪と牙を持つ飛行魔獣たちを相手に、ニーアは光の装甲を部分的に展開しながら空中戦を繰り広げた。アスナは船の操舵室を制圧し、補助魔導機関を限界まで稼働させて防御結界を展開し、船が墜落するのを防いだ。最終的にニーアが群れのリーダーである巨大な飛竜の首をねじ切り、乗客全員の命を救った。
どれもが、誰もが息を呑むような冒険であり、正義の探偵としての華々しい戦いだった。
市民は彼女たちを称賛し、警察は多大な謝礼を支払った。
しかし、これほどの死闘を繰り広げながらも、ニーアの心は常に上の空だった。
拳を振るい、敵を倒し、命を救い、事件を解決しても、彼女の胸に広がる虚無感は決して埋まることはなかった。
表面上の事件をどれだけ解決したところで、あの時計塔の下では貧困に喘ぐ者たちがおり、空に浮かぶ図書館の陰では知識を奪われた者たちが搾取され、豪華客船を見上げる地べたには泥水をすする番号持ちたちがいる。
自分がやっていることは、壊れかけの巨大な機械の表面の汚れを拭き取っているだけで、社会のシステムそのものは何一つ変わっていない。自分はただの便利な道具であり、権力者たちが作り上げた欺瞞の平和を維持するための清掃員に過ぎないのだ。
戦えば戦うほど、称賛されればされるほど、ニーアの中で何かが決定的に冷え切っていくのを感じていた。
彼女はもはや、探偵ごっこを続けることに限界を感じていた。
そして、その日は唐突に訪れた。
ある日の昼下がり。
探偵事務所のドアベルが、静かな室内に鋭く鳴り響いた。
ニーアはソファに寝転がったまま、ゆっくりと体を起こした。アスナはカウンターで新しいドーナツの箱を開けようとしていた手を止め、入り口へと視線を向けた。
磨き上げられたオーク材の重厚な扉を静かに押し開けて入ってきたのは、周囲の埃っぽい空気とは完全に断絶されたような、純白のライダースーツに身を包んだ男だった。
アキラ・トバリ。
王都が指名手配する最悪の犯罪者であり、圧倒的な魔力を持つ反逆者。
彼は一切の足音を立てずに室内に足を踏み入れると、その赤く澄んだ瞳でニーアとアスナを交互に見つめた。彼の表情には焦りも敵意もなく、ただ深淵のように静かな決意だけが湛えられていた。
アキラが口を開き、何かを語り始めようと息を吸い込んだ。
新王都の腐敗、地脈の乱れ、システムを破壊するための計画、あるいは自分の理想について語るつもりだったのだろう。
しかし、彼が最初の単語を発するよりも早く、ニーアが立ち上がった。
彼女の極太の尻尾は力強く跳ね上がり、両耳はピンと立っていた。虚ろだった瞳には、かつての活気とは違う、しかし暗闇を切り裂くような鋭い光が宿っている。
ニーアの口から出たのは、一切の迷いを含まない、短くも、絶対的な肯定だった。
「協力するわ」




