終局4:【美しければそれでいい】
主題歌:美しければそれでいい
https://youtu.be/atsXQotRo_g?si=aaQ3M1lobw8zGowa
夕暮れ時。
夏の太陽が沈みかけ、空を鮮やかな茜色に染めていた。ヒグラシの鳴き声が、遠くから聞こえてくる。
半壊したヴェリタス探偵事務所の縁側では、怪我の手当てを終えた仲間たちが、穏やかな時間を過ごしていた。
ルルは、相変わらずだらだらとスイカを食べ、「ふへへ……ナラティブさんの戦いぶり、最高でした……」と隠し撮り映像をリプレイしてグリッチに見せている。
アスナとヘレナも目を覚まし、お互いの無事を喜び合いながら、ニーアに小言を言われて笑っていた。
その輪の少し外側で。
リウが、レオの前にしゃがみ込み、その泥だらけの頬にそっとキスをした。
「……よく頑張りましたわね、少年。あなたが一人で踏ん張ってくれたおかげで、世界は今日も平和ですわ」
「……えへへ。お姉ちゃん、ありがとう」
レオは顔を真っ赤にしながら照れ笑いした。
だが、その直後。レオの足元から、淡い光の粒子が立ち昇り始めた。
「え……?」
リウの赤い瞳が揺れる。ルルも、グリッチも、アスナたちも、驚きに目を見開いた。
レオの身体が、夕日に溶けるように、少しずつ透明になっていくのだ。
「少年!?あなた、身体が……!」
「……ううん。いいんだ。これで」
レオは、自分の透けていく手を見つめながら、とても優しく、そして大人びた笑顔を浮かべた。
「僕、本当は、ずっと昔に死んでたんだ。新暦8年の、暗い戦場の中で。……でも、最期に願ったんだ。もう一度だけでいいから、太陽の下で、『夏休み』を過ごしてみたいって」
その言葉に、リウは両手で口を覆い、ルルは無言で端末を閉じた。
彼がただの子供ではなく、凄惨な時代を生き抜いた兵士の魂だったという事実に、全員が言葉を失った。
「だから……最高の夏休みだったよ!お姉ちゃんたちに出会えて、一緒にスイカを食べて、僕を命がけで戦ってくれて……。僕の人生は、絶望なんかじゃなかったって、そう思えたんだ。……ありがとう、みんな!」
光の粒子はさらに強くなり、レオの身体は今にも消え去ろうとしていた。
その時。
ずっと縁側の柱によりかかり、黙って空を見ていたエラーラが、静かに歩み寄った。
「……気づいていらっしゃったのですね、エラーラさん」
背後から、アリシアが静かに尋ねる。
「当然だ。この私の至高の頭脳が、まさか、霊体と生者の区別もつかないとでも思ったのかね?」
エラーラは最初から、彼がすでに死んでいることに気づいていた。
それでも彼女は、彼に「一人の子供」としての夏休みを与えたかったのだ。かつて守れなかった命への贖罪として。そして、彼と同じように一人で傷つき、世界を拒絶しようとしていた過去の自分自身を、救済するために。
エラーラは、消えゆくレオの前に膝をつき、彼の両肩にそっと手を置いた。
「聞き給え、少年よ」
エラーラは、優しく、慈愛に満ちた声で語りかけた。
「君は、本当に、よく戦った。暗くて、痛くて、理不尽な世界の中で……何度も心が折れそうになりながら、それでも今日まで立ち上がり、一人で歯を食いしばって生きてきたのだろう?君が流した血も、流せなかった涙も、誰にも言えなかった傷跡も……そのすべてを、私は肯定しよう」
レオの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「もう、戦わなくていい。もう、一人で世界を背負わなくてもいいのだ。君は弱くていい。泣いていい。倒れた時は、私たちが何度でも手を引いてやる。だから……君が必死に守り抜いてきたその命を、君自身の人生を、誰よりも君自身が愛してやりなさい」
エラーラは、レオの頭を優しく撫でた。
「君の戦いは終わった。……安らかに、そして誇り高く……君だけの終わらない夏を、生き給え」
「うんっ!!」
光に包まれるレオの背後に、新暦8年の大戦で無念のまま散っていった、名もなき兵士たちの無数の幻影が浮かび上がった。
彼らの多くは、レオが過ごした温かい「夏休み」の記憶に触れ、すでに穏やかな表情を浮かべていた。
だが。その中列にいた数人の若い兵士の幻影だけは、違っていた。
「……ふざけるな……っ!」
突如、空間に軋み音が響いた。
光の粒子の流れに逆らうように、数人の兵士たちがボロボロの銃を握り直し、怨嗟の泥を、全身から滲み出させたのだ。
「何が『夏休み』だ!何が!……何が平和だ……!俺たちは、名前すら奪われて、地獄の中で。虫ケラみたいに使い捨てられたんだぞ!?」
「俺たちを売り飛ばした奴らも、歴史から俺たちを抹消した奴らも、誰一人!報いを受けていない!なのに……どうして俺たちだけが『よかったね』と消えなきゃいけないんだよ!」
その絶叫は、過去に裏切られ、理不尽に命をすり潰された者たちの、偽りない、魂の叫びだった。
周囲の温かい光が明滅し、濁った呪いの残滓が縁側の空気を冷たく凍らせていく。彼らの強い拒絶と未練に引きずられ、透けかけていたレオの身体までもが苦しそうに歪み始めた。
「うっ、あ……っ……みんな、やめて……っ」
「少年っ!」
リウが叫び、ルルが息を呑む。
だが、誰よりも早く、そして迷いなくその怨嗟の泥の前に進み出たのは、白衣をまとった天才科学者、エラーラ・ヴェリタスだった。
エラーラは、銃口を向けて敵意を剥き出しにする兵士たちを前にしても、一切の構えを見せなかった。
ただ、その瞳に、同情も、傲慢な優越感も一切含まない、幾度もの人生の中で彼らと同じ「底なしの地獄」を歩んできた者だけが持つ、重く静かな光を宿して。
「……ああ。君たちの、言う通りだ」
エラーラの凛とした声が、夕暮れの空気に涼やかに響いた。
「君たちの死は不合理で、救いがなく、理不尽なものだった。君たちを使い捨てた者たちは罪を償わず、歴史の教科書からは君たちの名前が消された。……それを『綺麗な物語』として美談に片付ける権利など、人間には、誰一人としてありはしない」
「だったら……っ!なんでお前は。そんな暖かな光の下で笑っていられるんだよ!俺たちの流した血には、絶望には、なんの意味も……!」
「──ある。……あるさ。断じて、あるとも」
エラーラは一歩、また一歩と、赤黒い怨嗟が吹き荒れる兵士たちのもとへと歩み寄った。
かつて人間を信じられなくなり、人間不信の極みから『一人で最強にならざるを得なかった』彼女だからこそ、彼らの痛みが、理解できた。裏切られ、切り捨てられ、救いの手すら恨みに変わる絶望を、彼女は他の誰よりも知り尽くしていたのだ。
エラーラは、銃を構えて震える一人の若い兵士の幻影の前に立ち、その銃口をそっと自らの胸へと当てさせた。
「君たちの流した血と泥濘があったからこそ……人間は愚かにも学び、回り道をしながらも、この当たり前の『平和』という奇跡へと辿り着くことができたのだ」
「そんな綺麗事……!」
「私は忘れない」
エラーラは、兵士の震える手ごと銃身を優しく包み込み、慈愛に満ちた眼差しで彼らの顔を一人ひとり見つめた。
「未来の歴史書から君たちの記録が消え去ろうとも、この私の至高の頭脳が……エラーラ・ヴェリタスという存在が、君たちの生きた証を、その無念と、その怒りを、すべてを、永遠に観測し、記録し続けると誓おう。君たちの傷跡は、紛れもなく、この愛おしい日常を構成する、かけがえのない『礎』なのだ」
その瞬間、エラーラの掌から温かな黄金色の光が伝わり、兵士たちの黒く濁っていた怨嗟の泥をそっと包み込んだ。
それは、途方もない地獄を何周も味わいながら、それでも「愛すること」を選び直した一人の科学者の、覚悟と誇りだった。
「だから、もう。自分を呪うのはやめるんだ。君たちの責務は、とうの昔に終わっている。……胸を張って、行き給え。私の誇り高き、歴史の戦友たちよ」
「……あ、あぁ……」
銃を握りしめていた兵士の目から、濁った泥ではない、透き通った、大粒の涙がこぼれ落ちた。
頑なだった彼らの表情から憑き物が落ち、赤黒い呪いのオーラが、見る間に虹色の優しい輝きへと変わっていく。
『……ありがとう、科学者さん……』
『俺たちのこと……忘れないでくれよな……』
抵抗していた兵士たちの幻影が、照れくさそうに笑いながら銃を下ろす。
彼らの魂は、レオの小さな背中を優しく押し、共に寄り添うようにして手を取り合った。
「いこう、みんな……!」
レオが最後にもう一度、満面の笑みを浮かべてエラーラたちに手を振る。
やがて彼らは一筋の眩い光の流星群となり、夕焼け空の高い高い天の彼方へと、連なって昇華していった。
王都の空に優しく降り注ぐ光の粒子を浴びながら、エラーラは、その誇り高い背中を、見えなくなるまでずっと、静かに見送り続けていた……。
彼女の胸の奥底で、冷たく凝り固まっていた重いしこりが、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
(……私もまた、孤独だったのだ)
エラーラは、心の中で静かに独白する。
物心ついた時から、孤独な世界を生きてきた。
彼女の人生は、常に「失うこと」への恐怖との戦いだった。自分の居場所を求めて、家族という名の『家』を作るたびに、理不尽な世界の悪意や戦乱がそれを無残に打ち壊してきた。
だからこそ彼女は、自らの頭脳を武器に変え、誰にも頼らず、自分一人の力で完璧な防壁を築こうと足掻き続けてきた。過去のトラウマに怯え、もう二度と大切なものを奪われないようにと、孤独な要塞の中に自分を閉じ込めていたのだ。
しかし、今回の戦いは違った。
彼女が一人で守り抜こうとした家族たちは、逆に、トラウマに囚われて膝をついたエラーラを絶望の淵から引き上げ、共に並び立ち、彼女を守り抜いてみせたのだ。
(……ああ。私の最終定理は、とうの昔に完成していたのだな)
もう、怯える必要はない。私が一人で完璧な強者にならなくても、この『家』は、決して壊れはしない。
光の粒子となって消えていくレオを見送るエラーラの横顔は、かつてなく穏やかで、晴れやかだった。
・・・・・・・・・・
王都の上空で決戦が繰り広げられていた頃。
王都警察署の取調室では、別の意味で緊迫した攻防が行われていた。
「ええい、往生際が悪いぞリオン君!いい加減、吐きたまえ!」
パイプ椅子を蹴り飛ばす勢いで机を叩いたのは、王都警察のカレル・オータム警部である。
長年の激務で少し丸みを帯びた背中を揺らし、立派な口髭を震わせながら、目の前の青年を鋭い眼光で睨みつけていた。
「だから違うって言ってるじゃんかー!ぼくじゃないもん! なんでいつもいつも、ぼくばっかり疑うんだーっ!!」
カレルの怒鳴り声に対し、パイプ椅子の上でバタバタと足を暴れさせて抗議しているのは、獅子獣人の学者、リオン・ゴルドファングだった。
一見するとヒロイックで頼れる青年に見えるが、しかし、その実態は感情の赴くままに突っ走り、幾度となく王都を滅亡の危機に陥れかけた『歩く戦犯』であった。
「言い逃れはそこまでにしたまえ!こないだの怪獣騒動も、古代遺跡の暴走も、全部君が原因だったじゃないか!今回の件も、どうせ君が裏でうっかり封印を解いたんだろう!」
「今回はホントに違うぞー!ぼくは今日、朝からずっと実験をしてて……って、あっ!カレル警部、このドーナツすっごく美味しい!おかわりー!」
「馬鹿者ぉ!私のドーナツと珈琲を一人で食い尽くすんじゃない!」
取調室の机の上にはドーナツの山が築かれていたが、リオンの恐るべきペースによって瞬く間に胃袋へと消えていく。
「父さん、いくらリオンさんが前科持ちだからって、流石に今回の件の黒幕にするのは無理がありますよ……」
呆れたようにため息をついたのは、取調室の隅でノートパソコンを叩いていた少年──カレルの息子であり、エラーラの助手でもあるゴウ・オータムだった。
「あの要塞の質量と軍事兵器の数、リオンさんの財力と技術力じゃ到底作れません。それに、魔力波形は、リオンさんのデータとは全くの別物です」
「そうだそうだー!ゴウ君ももっと言ってやれー!ぼくは天才学者だぞ!悪の秘密結社なんか作らなくても、世界中を驚かせる発明ができるんだもん!」
「ええい!威張るな!私の捜査からは逃げられんからな!」
カレルが腰のホルスターに手をかけた、その時だった。
突然、取調室の小さな窓が、真昼のように眩い虹色の閃光に包まれた。
直後、王都の窓ガラスという窓ガラスをビリビリと震わせる、鼓膜が破れそうなほどの大轟音が響き渡る。
「な、なんだねこの光と揺れは!?」
カレルが慌てて窓際に駆け寄り、リオンがドーナツを咥えたままパイプ椅子の下へ潜り込む。
空を見上げたゴウの瞳が、驚きと、そして強烈な憧憬の色に見開かれた。
「父さん!要塞が……完全に消滅しました!そしてこの無茶苦茶な魔力数値……間違いありません、エラーラさんたちです!」
「な、なんと……あの規模の軍勢を、本当に退けおったというのか……!」
カレルは、空を覆い尽くしていた暗雲が晴れ、虹色の粒子が舞い散る光景を呆然と見上げた。
警察組織が束になっても手も足も出なかった悪の軍団を、たった一つの探偵事務所が打ち破ってしまったのだ。
「やってくれたか……エラーラくん。まったく……こういう時だけは本当に頼りになるやつだ」
カレルは安堵の息を長く吐き出し、目深に被った帽子をクイッと押し上げた。だが、彼の苦労は終わらない。
「しかし……これだけの規模となると、被害報告と始末書がいったい何百枚になるのやら……!ああ、胃が痛くなってきた……」
「うおおおーっ!やったやったー!やっぱりエラーラはすごいぞー!!」
机の下から這い出してきたリオンが、尻尾をブンブンと振り回しながら目を輝かせて歓声を上げた。
「さっすがぼくのライバル!よーし、ぼくも負けてられないぞー!帰ってすぐ実験の続きだー!」
「父さん、リオンさんがまーた戦犯ムーブを再開しようとしてます……」
「やめさせろぉぉっ!!」
カレルは胃の痛みを忘れ、リオンの首根っこをガシッと掴んだ。
「君の容疑が完全に晴れるまでは帰さんぞ!ゴウ、彼の手を縛りたまえ!」
「ええーっ!?離してよー! エラーラに自慢しに行くんだよーっ!」
王都の空に虹が架かる中。
王都警察署の取調室では、常識人の警部と、暴走する獅子獣人と、冷静な科学少年の、終わりの見えないドタバタ劇がいつまでも響き渡っていた。
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それから数日後の、よく晴れた夏の日。
王都は、抜けるような青空の下、力強い活気に満ち溢れていた。
行き交う人々の明るい笑い声、石畳を走る馬車と魔導車の軽快な音。かつて、自らの手で破壊の限りを尽くしたヘレナにとって、この騒がしくも温かい街の風景は、胸が締め付けられるほどに愛おしいものだった。
その喧騒から少し離れた、ヴェリタス探偵事務所の近所。
ひっそりと佇む隠れ家バー『奥泉』の重厚な木製の扉を、ヘレナは迷うことなく押し開けた。
静かなベルの音が響き、昼下がりの薄暗い店内には、落ち着いたジャズの調べが流れている。
カウンターの奥で氷を割っていたのは、元雑誌記者のバーテンダー、ギデオン・ヴァンツだ。
彼が作る料理が絶品であることは、ヘレナもずっと前から知っていた。だが、かつての彼女は、宿敵であったエラーラの探偵事務所のすぐ近所にあるこの店に、無駄なプライドが邪魔をして、どうしても。足を向けることができなかったのだ。
しかし今、彼女はごく自然にカウンターの席に腰を下ろし、一番上質なものを、とだけ注文した。それは、彼女がようやく、本当に、あるべき場所へ戻ってきたことの何よりの証明だった。
しばらくして、ギデオンが静かに差し出したのは、極めてシンプルに香ばしく焼き上げられた肉と、彩り鮮やかな旬の野菜のグリルだった。
余計なソースや気取った飾り付けはない。素材そのものの力強い生命力を引き出した、洗練された一皿だ。
ヘレナはナイフを入れ、一口味わう。
肉の深いコクと野菜の鮮烈な甘みが、戦いを終えた彼女の身体に、じんわりと、そして確かに染み渡っていく。アスナが作り直し、自分が命を懸けて守り抜いた世界で味わうこの静かな時間は、彼女が勝ち取った、最高の幸せだった。
「……美味しい。本当に、素晴らしい腕ね」
ヘレナがふうっと満足げな息を吐き出すと、ギデオンはグラスを磨く手を止め、静かに微笑んだ。
その瞳の奥には、アスナが世界を再構築する前の記憶、凄惨な戦いも、ヘレナが背負っていた深い絶望も、すべてを知っているかのような穏やかで深い光が宿っていた。
「……長い道のりでしたね。あなたの新しい世界に、祝福を」
彼が静かに差し出した、透き通った冷たい水が入った小さなグラス。
その、短くも重みのある一言に、ヘレナはわずかに目を丸くし、やがて、憑き物が落ちたような最高に美しい笑みを浮かべてグラスを合わせた。
「ええ。……悪くない世界よ」
喉の奥に広がる心地よい冷たさを感じながら、ヘレナは立ち上がった。
さて、最高の料理で心も満たされたことだし、愛しい家族たちの待つ隣の探偵事務所へ顔を出すとしよう。
ヘレナは、そんな、満ち足りた気持ちで店を出た。
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事務所の裏庭では、リウが鼻歌交じりにシーツを干していた。よく見ると、物干し竿を支えている支柱は、かつて王都を火の海にしたノヴァの機械兵の腕部装甲である。
さらに縁側では、ルルがタライに張った水で大きなスイカを冷やしていた。タライの中には、デウスの要塞から引っこ抜いてきた冷却用魔力炉心がゴロンと転がっており、水をキンキンに冷やしている。
世界を終わらせようとした絶望の兵器たちは今、少女たちの夏の生活を彩る「便利な日用品」として、静かに余生を過ごしていた。その光景はあまりにも滑稽で、だからこそ、尊い。
過去を排除するのではなく、笑って日常に取り込んでしまう彼女たちの強さに、ヘレナは思わず吹き出してしまった。
「って!……ちょっと!エラーラがいないんだけど!あの科学者、またどこかにこもって厄介な発明でもしてるんじゃないでしょうね!?」
あちこちの扉を乱暴に開け放つヘレナの背後で、縁側に座って冷たい麦茶を注いでいたアスナは、クスリと優しく笑って首を振った。
その隣では、ニーアが西瓜を齧り、ルルは相変わらずだらだらと端末を眺め、リウは洗濯物を干している。いつもの、騒がしくも平和な日常の風景だ。
「探しても無駄だよ、お姉ちゃん。エラーラなら……もう、旅立ったから」
「はあ!?旅立った?……どこへよ!?」
驚いて振り返るヘレナに対し、アスナは真っ青な夏の空を見上げた。
「エラーラはね、ずっと怖かったんだと思う。自分の大切な居場所が、また、理不尽に壊されるのが。だから、私たちを守るために『最強』であろうとした。……でもね」
アスナは、愛おしそうに目を細める。
「ニーアがいて、ナラティブとアリシアがいて、グリッチがいて……そして最後のピースだったお姉ちゃんを、あの地獄から救い出した。エラーラの、ずっと作りたかった『家族』という名の家は、もう……とっくに完成していたのよ」
風鈴が、涼しげな音を立てた。
アスナの言葉に、ヘレナも、ニーアたちも静かに耳を傾ける。
「エラーラは確信したんだと思う。私たちが、もう、守られるだけの存在じゃないって。私たち家族の絆は、誰かが一人で背負わなくても、互いに守り合えるほど強いんだって。……だから彼女は、『家を守らなければ』という過去の強迫観念から、ようやく解放されたの。もう、絶対に大丈夫だって、心の底から安心したのよ」
「なにも……安心したからって、黙って出ていくことないじゃない!」
ヘレナがそっぽを向いて文句を言いながらも、その声はどこか寂しげで、しかし、深い愛情と喜びに満ちていた。
ニーアも「まったく、世話の焼ける大賢者様ね」と笑いながら西瓜の種を飛ばす。
「ふふ。だって彼女は、根っからの『探究者』だもの」
アスナは、眩しそうに空を見上げて言った。
「自分が帰るべき家が安全だとわかれば、安心して外の世界の真理を知りたくなる。それが、エラーラ・ヴェリタスという天才科学者でしょ?」
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王都の喧騒から遠く離れた、見渡す限りの荒野。
容赦なく照りつける真夏の太陽の下、乾いた風に真っ白な白衣を翻しながら歩く、一つの影があった。
エラーラ・ヴェリタスである。
『私の名はエラーラ・ヴェリタス。知識の探究者。最高の医師。最高の騎士。最高の魔導士。だが、それが、なんだというのかね?私はこの世界を、まだ「観測」し、「解析」し、「理解」しきれていない!……なーんてね!』
彼女の足取りは、軽やかだった。
背負っていた「世界を守る」という重圧も、過去の喪失のトラウマも、今の彼女の背中には一切存在しない。あるのは、純粋な知的好奇心と、まだ見ぬ世界への期待だけだ。
ふと、エラーラは足を止めた。
そして、自分が歩んできた道……王都があり、探偵事務所があるであろう遥か彼方の方角を、一度だけ振り返った。
彼女の脳裏に、笑顔で食卓を囲む家族たちの姿が鮮明に浮かぶ。
もう、何があってもあの家は揺るがない。最強の絆で結ばれた、私の愛する家族が、そこにはいるのだから。
彼女が守るべき世界は、すでに、彼女自身の手によって、そして彼女を愛する者たちの手によって、永遠の平和と共に完成しているのだ。
荒野を歩きながら、エラーラは自身の胸元にある古い傷跡にそっと触れた。
(消えない傷跡も、かつての戦争も、友を喪った悲劇も。そして今日、家族と一緒に食べた甘い西瓜の味も……どれか一つが欠けても、今の私はここにはいない)
忘れることなどできない。忘れる必要もない。痛みも悲しみもすべて背負い、そのすべてを肯定して、私は明日を生きていくのだ。
(ああ、まったく……!過去も現在も、人間というやつは最高に愚かで、そして……最高に愛おしい!)
吹き抜ける風が、エラーラの髪を揺らす。
すべての歴史を内包した彼女の足取りは、どこまでも力強く、そして軽やかだった。




