真理2:出撃!黄金の意志!
新暦149年。
新王都の上空には、かつての陰鬱な分厚い汚染雲はすでに無く、透き通るような青空が広がっていた……
数年前、絶望と狂気が渦巻いたあの戦いの記憶は、人々の心の中でゆっくりとかさぶたとなり、新たな時代への活力へと変換されつつある。その平和の象徴として、そして希望の道標として、新王都の最前線に立ち続けている一人の女性がいた。
彼女の名前は、ニーア・ヴェル・リータス。
太陽の光を吸い込んだかのように眩しく輝く黄金の毛並みと、自身の背丈の半分はあろうかという極太の尻尾を持つ、狐獣人の探偵である。
「ちょっとアンタたち!いつまでそこで震えてるつもり!?私が来たからにはもう安心よ!さあ!さっさと下がりなさい!」
新王都の旧市街、崩れかけたビルの影から現れた野盗の群れを前にして、ニーアは堂々と立ちはだかっていた。彼女の背後には、恐怖で身を寄せ合う一般市民たちの姿がある。ニーアは彼らを庇うように大きく前に出ると、自慢の極太の尻尾を空中で鞭のようにしならせた。黄金の毛並みが風に揺れ、彼女の勝気な瞳が野盗たちを鋭く射抜く。
「な、なんだこの女!ただの獣人じゃねえか!」
「へっ、魔力の気配がまったくしねえぞ!ただのハッタリだ、やっちまえ!」
野盗たちが下品な笑い声を上げながら、魔力を帯びた武器を構えて飛びかかってくる。そう、彼らの言う通り、ニーア・ヴェル・リータスには魔力がからっきし無い。この魔導技術が支配する新王都において、魔力を持たないということは致命的な弱点であると誰もが信じて疑わない。しかし、ニーアはそんな常識など鼻で笑う。
「魔力がないからってアタシを舐めないことね!」
ニーアは地を蹴った。魔力による身体強化など一切ない、狐獣人としての純粋な筋力と、過酷な訓練によって鍛え上げられた圧倒的な身体能力のみによる踏み込み。野盗たちが呪文を詠唱し終えるよりも早く、ニーアはその懐へと潜り込んでいた。鋭い回し蹴りが野盗の顎を正確に撃ち抜き、続く手刀がもう一人の武器を容易くへし折る。彼女の動きには無駄がなく、美しく、そして何より……力強かった。舞うように敵を無力化していくその姿は、魔力という補助輪に頼りきった連中からすれば、まるで理解不能な現象にさえ見えただろう。
ものの数分で野盗たちを全員昏倒させたニ息を吐きながら、少し乱れた黄金の毛並みを指先で整えた。背後で震えていた市民たちが、歓声とともに彼女に駆け寄ってくる。
「ありがとうございます!さすがは作家の姫様だ!」
「姫様がいれば、この街は今日も平和ですね!」
その言葉を聞いて、ニーアは腰に手を当ててふんぞり返った。極太の尻尾が機嫌よく左右に大きく揺れている。
「当然でしょ!私に任せておけば何も問題ないわ!それにしても、作家の姫っていう呼び方はちょっと照れるけど……まあ、私にふさわしい称号だわね!」
彼女が「作家の姫」と呼ばれるのには理由がある。ニーア・ヴェル・リータスという名は、新王都の根幹を成す偉大なる魔導の一族「ヴェリタス家」を連想させる。しかし、彼女自身はヴェリタスの血を引く者ではない。彼女は元々、ヴェリタス家の歴史の狂信的なオタクであった。その果てしない情熱と探求心から、彼女は『ノット・ヴェリタス』という、ヴェリタス家とゼランディアの真実の歴史を記した分厚い歴史書を執筆し、出版したのだ。魔力を持たない一人の狐獣人が書き上げたその歴史書は、圧倒的な情報量と緻密な考察により、新王都の知識層に衝撃を与えた。以来、人々は親しみと敬意を込めて彼女を「作家の姫」と呼ぶようになったのである。
治安維持のパトロールを終えたニーアが向かったのは、行きつけの大衆食堂だった。店の扉を開けるなり、彼女は元気よく声を張り上げた。
「おやっさん!いつものお願い!お肉たっぷりのやつね!野菜はいらないわよ、絶対に入れないでちょうだい!」
カウンター席にどっかりと座ると、彼女の極太の尻尾が床をパタパタと叩く。狐獣人であるニーアは大の肉好きであり、逆に野菜は苦手だった。緑色の物体が皿に乗っているのを見ただけで、黄金の毛並みが逆立つほどだ。しばらくして、山のように盛られた分厚いステーキ肉が運ばれてくると、ニーアの目はキラキラと輝いた。
「これよ、これ!やっぱりお肉を食べなきゃ力が出ないわ!私が私でいるためのエネルギー源なんだから!」
ナイフとフォークを器用に使いこなし、凄まじい勢いで肉を平らげていく。その豪快な食べっぷりを見ながら、食堂の店主が苦笑交じりに話しかけてきた。
「相変わらずいい食いっぷりだな、ニーア。今日も街の連中がアンタの噂をしてたぜ。あの『ノット・ヴェリタス』の作者が、なんでわざわざ現場に出て泥臭いことやってるんだってな」
その言葉に、ニーアは肉を咀嚼する手を止め、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「当然じゃないの!私はニーア・ヴェル・リータスよ。歴史の語り部として、この街を守る義務があるの。それに……」
ニーアの頬がほんのりと赤く染まり、ピンと立っていた狐の耳が少しだけ寝た。彼女の脳裏に、ひとりの女性の姿が浮かび上がる。
「それに、私にはアスナがいるもの。アスナが愛したこの街の歴史、そしてアスナが生きるこの世界を、私が守り抜かなきゃあいけないでしょ!」
アスナ・クライフォルト。かつての偉人エラーラ・ヴェリタスの妻であり、魔導規制局に務めていた未亡人。ニーアはアスナのその知性、美しさ、そしてその存在のすべてを強烈に、狂おしいほどに愛していた。ヴェリタス家の歴史オタクであるニーアにとって、アスナという存在は歴史上の生きた伝説であり、同時に心から愛する運命の人でもあった。
「アスナのあの冷たいようで実は深い愛情に満ちた瞳……あぁ、思い出すだけで尻尾が止まらなくなるわ!私の本名がニーア・ヴェル・リータスだって知った時の彼女の顔、本当に最高だったんだから!私がどれだけアスナを想っているか、世界中の誰にも負けないわ。一番愛しているのは絶対にこの私よ!」
店内に響き渡るほどの大声で愛を叫ぶニーアに、周囲の客たちは微笑ましいものを見るような目を向けていた。彼女のこの熱量は、今や新王都の日常の一部となっていた。
しかし。
人間社会というものは、どれほど個人の魂が輝いていようとも、その構造自体が常に清浄であるとは限らない。ニーアの英雄的な活躍と、それに伴う民衆からの熱狂的な支持は、新王都の暗部で肥え太っていた特定の巨大な利権団体の猜疑心と嫉妬を猛烈に煽ることになった。
その組織の名は、魔導規制局。
三十年前、新王都の根幹を成す魔導技術の基礎を築き上げた天才、エラーラ・ヴェリタスが遺した数々の発明品、その権利、特許、そしてそこから生み出される莫大な利権を独占することで、新王都の政治と経済を裏から支配している強大な官僚組織である。
ニーアが食堂で最後の肉片を飲み込もうとしたその時、店内の壁に設置されていた大型の魔導スクリーンが突如としてノイズに覆われた。通常の放送が強制的に遮断され、代わりに魔導規制局の紋章が重々しく映し出される。
「なんだ?緊急放送か?」
店内の客たちがざわめく中、画面には規制局の報道官の冷酷な顔が大写しになった。
『新王都の市民の皆様に、重大な警告を行います。現在、自らを「作家の姫」と名乗り、治安維持活動と称して破壊行為を繰り返している獣人の女、ニーア・ヴェル・リータスについてです。当規制局の調査により、彼女が使用している名称、並びに彼女が出版した書籍に関する一切の活動が、偉大なるヴェリタス家の特許及び歴史的権利を著しく侵害していることが判明いたしました』
その言葉を聞いた瞬間、ニーアは手に持っていたフォークを力強く握りしめた。黄金の尻尾の毛が、怒りでぶわりと逆立つ。
『さらに、彼女の許可なき自警活動は、国家の治安維持機構に対する明確な反逆行為と認定されました。よって魔導規制局は、ニーア・ヴェル・リータスを国家反逆罪及び重度の特許法違反により、全国規模で指名手配といたします。市民の皆様は、彼女を発見次第、直ちに通報するように』
店内に重い沈黙が落ちた。さっきまでニーアに笑いかけていた客たちも、突然の国家機関からの指名手配に困惑し、顔を見合わせている。ニーアはゆっくりと立ち上がり、怒りで震える声を押さえ込みながらスクリーンを睨みつけた。
「はああああ?……ふざけないでよ……!私の名前にまたしてもいちゃもんをつけるなんて、アンタたちって本当に……本当にバカな連中ね!大体、ヴェリタスの名前を使って甘い汁を吸い続けてるのはアンタたち規制局じゃあないの!」
魔導規制局の幹部たちにとって、ニーアという存在は目障り以外の何者でもなかった。彼らはヴェリタス学派を自称し、エラーラの遺産を独占することで権力の座に座り続けている。そこへ、ヴェリタスの歴史を正しく記し、真の魂の継承者であるかのように振る舞うニーアが民衆の支持を集めれば、彼らの権威は揺らぐ。だからこそ、理不尽な罪を着せてでも彼女を抹殺しようとしたのだ。
ここには、実に残酷で皮肉な構図が存在していた。
ニーアが強烈に愛するアスナがかつて籍を置いていたのが、他ならぬこの魔導規制局であったのだ。アスナがかつて理想を掲げて働いていたはずの組織は、完全に腐敗し、エラーラの遺した権利という名の武器を用いて、ニーアを社会的に抹殺しようと憎悪の刃を向けている。
「アスナがかつていた場所だっていうのに……なんで……なんて醜いのかしら」
ニーアは周囲の客たちに被害が及ばないよう、カウンターに食事代を叩きつけると、店の裏口から足早に路地裏へと姿を消した。指名手配された以上、表立って歩くことはできない。彼女は新王都の地下深く、日の当たらない廃棄された旧地下鉄の駅を利用した隠れ家への潜伏を余儀なくされた。
冷たく湿った地下の空気の中、ニーアは一人、暗い部屋の片隅に座り込んでいた。彼女の手には、手入れ用の特注ブラシが握られている。極太の黄金の尻尾を、根本から毛先へと丁寧にブラッシングしていく。シャッ、シャッという規則正しい音が、彼女の荒ぶる心を少しずつ落ち着かせていく。この尻尾の手入れは、彼女にとって重要な精神統一の儀式のようなものだった。
「まったく、腹立たしいわね。魔力がないからって、私がただの歴史オタクだと思ったら大間違いよ!」
ニーアはブラシを置き、壁に飾られた一枚の写真を見上げた。そこには、静かな笑みを浮かべるアスナの姿が写っている。その写真を見るだけで、ニーアの胸の奥から熱い力が湧き上がってくるのを感じた。
「アスナ……負けないわよ。絶対に。……アンタが愛したこの歴史を、エラーラが遺した本当の意志を、あんな腐りきった連中のおもちゃになんてさせない。私は、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのよ……!」
彼女は自身が書き上げた『ノット・ヴェリタス』の分厚い表紙を撫でた。魔力がない彼女にとって、知識と歴史、そしてアスナへの愛こそが最大の武器なのだ。規制局への怒りよりも、今この瞬間、助けを求めているかもしれない人々に手を差し伸べられないことの歯痒さが、彼女の心を締め付けていた。
だが。
運命というものは時に、人が作り出した卑小な政治的対立などをあざ笑うかのように、圧倒的な暴力をもって世界を蹂躙する。ニーアが活動を封じられ、街の治安維持の要が失われたその機に乗じたわけでは決してないだろうが、最悪な出来事は常に重なるようにして起こる。
魔導規制局が、ヴェリタスの名を冠する特許を独占する裏で、極秘裏に開発を進めていた禁忌のプロジェクトが存在していた。
それは、かつてのエラーラの研究データを悪用し、生体細胞と魔導回路を強制的に融合させて生み出した、おぞましい自己増殖型の生物兵器であった。皮肉なことに、規制局はその悍ましい肉塊の化け物に、自らの権威の象徴として「ヴェリタス」というコードネームを与えていたのである。
その夜、隠れ家で息を潜めていたニーアの鋭い狐の耳が、遠くから響く異常な震動を捉えた。
巨大な質量が建物をへし折るような音。それに混じって、けたたましい警報のサイレンと、無数の人々の絶望的な悲鳴が地下にまで届いてきた。
ニーアは即座に立ち上がり、換気口の隙間から地上を見上げた。透き通っていたはずの夜空が、不自然な赤紫色の炎に染まっている。地下最下層にある厳重な保管施設から、制御システムを破壊して脱走した生物兵器「ヴェリタス」が、市街地へと雪崩れ込んでいたのだ。
それは知性を持たないただの捕食と増殖のシステムであった。魔力を持つ者を優先的に感知し、その血肉と魔力を自身の養分として取り込むことで、恐るべき速度で細胞分裂を開始する。一体が二体に、二体が四体に。まさに指数関数的な増殖であった。
「あいつら……!自分たちの利権と保身のために、あんな化け物を隠し持っていたっていうの!?」
ニーアの全身の毛が逆立った。極太の尻尾が、これまでにないほど激しく左右に叩きつけられる。魔導規制局がニーアという最大の守護者を街から排除したまさにその直後、彼ら自身が生み出した「ヴェリタス」という名の悪夢が、新王都すべてを飲み込もうとしている。
彼女の魔力はからっきし無い。つまり、生物兵器ヴェリタスの魔力感知センサーには、ニーアの存在は映らない。彼女がこのまま地下に潜伏していれば、化け物に見つかることなくやり過ごせる可能性は高かった。指名手配の身である自分が外に出れば、どれほどの非難と危険が待ち受けているかもわからない。
しかし、ニーア・ヴェル・リータスという女の辞書に、「逃避」という言葉は存在しなかった。
「冗談じゃないわ!私の街を、アスナの街を、あんな醜い肉塊に好き勝手させるもんですか!あんな化け物も、腐った規制局も、私が全部綺麗に片付けてあげるわ!」
黄金の狐獣人は、暗い地下室の扉を勢いよく蹴り破った。夜空を焦がす爆炎と悲鳴が渦巻く地上へと向かって、彼女は極太の尻尾を揺らしながら、ただひたすらに一番を目指して駆け出していった。理不尽な世界に抗う、真実の戦いが、今まさに始まろうとしていた……




