真理1:地獄!真理なき戦い!
新暦147年、夏、現在。
あの日、背中に誇り高き光の羽を広げ、希望に満ちた新王都の空へと飛び立った瞬間を、ニーア・ヴェル・リータスは決して忘れることができない。朝日に照らされ、黄金の毛並みを煌びやかに輝かせながら、彼女は自分自身に固く誓ったのだ。自分はこの街の新たな希望となり、かつての偉人たちが命を懸けて愛したこの世界と人々の笑顔を、絶対に守り抜くのだと。
空へ舞い上がったあの輝かしい瞬間は、間違いなく新しい時代の幕開けであり、人々が手を取り合う美しき物語の始まりである……はずだった。
しかし、空から舞い降りた彼女を待っていた現実は、夢見ていた希望に満ちた未来とはあまりにもかけ離れた、冷酷で理不尽な地獄の始まりに過ぎなかった。
地上で彼女を見上げる人々の瞳に宿っていたのは、熱狂でも、涙ながらの感謝でもなかった。そこに存在したのは、ただの困惑と、不気味な異物を見るような冷ややかな無関心、そしてまた余計なトラブルが起きたのかという邪推に満ちた不快感であった。
人々は空を飛ぶ狐獣人の少女を見て、賞賛の声を上げる代わりに眉をひそめ、そそくさと家路についた。
その日から始まったのは、誰に知られることもなく、誰に報われることもない、果てしない無償の奉仕と血みどろの戦いという、泥沼への転落であった。
新王都の華やかな表通りから一歩外れた暗がりでは、政府や魔導規制局が隠蔽した事故の残骸や、密かに暴走する欠陥魔導兵器、あるいは人々の醜い悪意から生まれる小規模な惨劇が、日常的に芽吹いていた。行政も警察も、自らの保身と利権のためにそれらを放置し、存在しないものとして闇に葬り去ろうとした。放置すれば、やがて大勢の無力な市民が犠牲になる。そう知ってしまったニーアは、誰に頼まれたわけでもなく、ただ一人で現場へ駆けつけ続けた。
武器など持たない。
金も名誉も要求しない。
ただ、胸に刻まれたナンバーを起動し、鍛え上げた己の肉体だけを頼りに、暗闇の中で怪物や暴走兵器と戦った。巨大な鉄塊の拳を受け止め、鋭い爪に肉を裂かれながらも、彼女は戦い続けた。爪が剥がれ、骨が折り砕かれ、黄金の毛並みが血と汚水で黒く染まっても、彼女は自分が守らなければならないという一心で、拳を振るい続けた。
戦闘だけではない。行政が見捨てた貧民街の瓦礫を一人で撤去し、行き倒れた人々を背負って病院へ運び、下水道の汚泥に塗れながら迷子の子供を探し回った。彼女の毎日は、睡眠を削り、己の命をすり減らすだけの、終わりのないボランティアであった。
だが、彼女が身を粉にして捧げた無償の奉仕と血みどろの戦いは、新王都の人々にとって、感謝すべき救済などでは到底なかった。
事件を裏で解決すれば、人々はあいつの行く先々で恐ろしい事件が起きる、あの不吉な獣人がトラブルを引き寄せてくるのだと陰口を叩いた。戦闘の余波で路地裏の瓦礫が崩れれば、余計な破壊活動をして街を汚した害獣として激しい罵倒が浴びせられた。
さらにタチの悪いことに、失政と隠蔽を重ねる新王都政府と魔導規制局にとって、無償で戦い続けるニーアの存在は格好の生贄であった。彼らは自らの不祥事や兵器の暴走事故を隠すため、街で起きるすべての不審な事件や破壊工作の陰にニーア・ヴェル・リータスという危険分子が存在するという偽りの物語を捏造し、メディアを通じて大量に流し込み始めたのである。
市民たちは、その歪んだ宣伝を大喜びに飛びついて消費した。自らの無力さ、経済の停滞、抑圧された日常の鬱屈。そうしたあらゆる不満をぶつけるための対象として、手軽で、反撃してこない悪役が喉から手が出るほど欲しかったのだ。人々は、自分たちのために影で血を流しているニーアに向かって、容易く手のひらを返し、唾を吐きかけた。
あいつさえいなければ、この街は平和なのに。英雄気取りの出来損ないめ、消え失せろ。気味の悪い獣人が、私たちの街を汚している。
人々からの言葉の刃は、物理的な暴力よりも深くニーアの心を抉った。ニーアがかつて下水道の魔物から助けたはずのパン屋の主人は、彼女の顔を見るなり汚い泥水を浴びせた。ニーアが崩落する瓦礫から身を呈して救い出したはずの子供の母親は、子供の目を塞ぎながら化け物が見てくるから近寄るなと吐き捨てた。誰も真実を見ようとしなかった。誰も彼女が流す血の理由を知ろうとはしなかった。
大丈夫、まだみんな混乱しているだけ。
いつか、私の想いが届くはずだから。
ボロボロの身体を震わせながら、ニーアは自分に言い聞かせ続けた。過去の偉人たちが駆け抜けた歴史の重みを胸に抱き、彼女は歯を食いしばって耐え続けた。自分が諦めてしまえば、この街は本当に終わってしまう。だからこそ、どれほど石を投げられようと、どれほど陰湿な悪意を向けられようと、彼女は孤立無援の戦いを止めなかった。
しかし、世界の残酷さは、たった一人の少女の青臭い善意など、容易く踏みにじっていく。
そうして、感謝されることのない果てしない戦いと、世間からの絶え間ない憎悪に晒され続けたまま、三年の歳月が流れた。
三年間。
それは、一人の少女の心と身体を摩耗させ、絶望の底へと叩き落とすには、あまりにも長すぎる月日であった。
あの日、彼女が眩しい光の羽を広げて空へ飛び立ったあの希望に満ち溢れた誓いは、この三年間という地獄の月日によって、完全に否定され、粉々に打ち砕かれているように見えた。
あの美しい夜明けには、何の意味もなかったのか。
彼女が繋ごうとした歴史も、守ろうとした笑顔も、最初からこの世界には存在しなかったのか。
彼女の三年間におよぶ果てしない奉仕と戦いはすべて無駄であり、彼女の直向きさは、ただ世界をより酷悪で、不条理なものへと変えただけに過ぎなかったのか。
三年目の、冷たく激しい雨が降る夜。
光の届かない路地裏の、汚水が溜まったアスファルトの上。一匹の狐獣人の少女が、膝を折り、小さく丸まって震えていた。
ねえ、アスナ。
かすれた声が、冷たい雨音の中にぽつりと漏れた。
私がやってきたことって、全部、無駄だったのかな。
人々からの無関心と、醜悪な悪意と、保身のための憎悪。
世界中のすべてが自分を否定し、世界中のすべてが自分の死を望んでいるのか。味方など、この広い世界のどこを探しても、最初から一人もいなかったのか。
ニーアは、冷たい雨の中に打ち捨てられていた。
だが、それでも。
私は、ニーア・ヴェリタスは、今を精一杯生き抜いてみせる。




