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ヴェリタスの最終定理Ⅲ 野狐の偽証  作者: 王牌リウ
●第20章:野狐の偽証

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真理5:さよなら、私の思い出たち!

空港のロビーに流れる穏やかなジャズの調べは、突如として鳴り響いた金属的な重低音によって、無残に引き裂かれた。

夕陽が差し込む大きなガラス窓の向こう側、オレンジ色の空を切り裂くようにして飛来したのは、ゼランディア軍の無機質な無人偵察機であった。それは不吉な鴉のように旋回したかと思うと、コンクリートの滑走路に向けて、巨大な「肉の塊」を投下した。


凄まじい着弾音と共に、空港の床が震える。悲鳴が上がるよりも早く、その肉の塊は、チタン合金の骨格を軋ませながら、三メートルを超える異形の殺戮兵器――キメラへと変貌を遂げた。


「……何事!?」


キメラの濁った複数の眼球が、爛々と輝きながらターミナルビルを見据える。その生物兵器のセンサーが捉えているのは、二つの強烈な「魔力生成信号」――すなわち、アスナのナンバーと、今まさにニーアが懐に隠し持っているナンバーであった。

キメラは迷うことなくガラス窓を突き破り、ロビーへと乱入した。吹き飛ぶガラスの破片を、ニーアは咄嗟にコートで防ぐ。周囲の人々はパニックに陥り、出口へと殺到する。


「ゼランディアは何考えてるのよ!こんな街中で、キメラを野放しにするなんて……狂ってるわ!」


ニーアは奥歯を噛み締めた。キメラの狙いは明確だ。それは、獲物を絞り込むように、一直線にニーアの元へと歩を進めてくる。

戦わなければならない。

だが、ニーアは躊躇した。

ニーア・ヴェリタスという、ゼランディアの平和と正義の象徴。その偶像が、公的な手続きもなしに「場所」へ降り立ち、あまつさえ戦闘行為に及んだとなれば、国際的な外交問題では済まされない。ゼランディア軍はこれを機に、一気に「場所」の武力制圧へと踏み切るだろう。それは新王都の残党たちの、完全なる殲滅を意味する。


「……あたしが戦えば、全部めちゃくちゃになるわ。でも……」


キメラが咆哮を上げた。その巨大な爪が、逃げ遅れた空港職員の男性に向けて振り下ろされる。


「でも!そんなこと、知ったことじゃないわよ!」


ニーアは懐から黒い金属のナンバーを掴み出し、それを腰に当てた。


立場、思惑、責任。


そんな「嘘」は、目の前で消えようとしている命の「真実」に比べれば、ゴミ同然だ。


「着装――


……と、ニーアが叫ぼうとした刹那であった。


「――どけ!」


ロビーの天井から、一筋の銀色の閃光が降り注いだ。

キメラの巨体が真横へと吹き飛ばされる。何が起きたのか理解できず、ニーアは目を見開いた。

砂埃が舞うロビーの中央。そこに立っていたのは、返り血で汚れた、一人の男であった。その男の手には、かつてアスナが愛用していた、あのナンバーが握られていた。


「見当違いのところに現れやがって!」


彼は迷うことなくナンバーを腰に当て、力強く叫んだ。


「――着装ッ!」


瞬間、銀色の魔力が男の全身を包み込んだ。それはニーアが誰よりも愛し、そして失った、アスナ・ヴェリタスの竜の力の輝き。

ダイモンは、一歩を踏み出す。その加速は物理法則を無視し、キメラが反応するよりも早く、その懐へと潜り込んだ。


重厚な打撃音が響き渡る。ダイモンの拳が、キメラのチタン骨格を粉砕し、内臓ごと怪物の巨体を打ち抜いた。キメラは断末魔の叫びを上げる暇もなく、コンクリートの壁にめり込み、そのまま沈黙した。

静寂が戻ったロビーで、ダイモンはゆっくりと着装を解除した。銀色の光が霧散し、現れたのは、鋭い眼光を持ちながらも、どこか悲しみを湛えた青年の横顔だった。

ダイモンは、腰を抜かしたままのニーアに歩み寄り、無造作にその大きな手を差し伸べた。


「……大丈夫か。怪我はないか」


ダイモンの声は、暫定警察のものでも、マフィアのものでもなかった。それは、傷ついた者を本気で案じる、一人の「正義」を知る男の響きだった。


「あ……ええ、大丈夫よ」


この男だ。ヘレナの血を引き、アスナの力を継承した、呪われし「真実」の息子。

ダイモンは、目の前の女性を見て、その瞳に驚愕の色を浮かべた。


「お……お前……!ニーア・ヴェリタス……?」


その場に、言いようのない緊張が走った。

偽りの太陽として輝かされていた少女と、真実の闇の中で牙を研いでいた青年。

二人の運命が、今、この血生臭い空港のロビーで、残酷にも、そして必然的に交差した。


「そう……あたしはニーア。まあ、あんたの言う『ヴェリタス』様じゃないかもしれないけどね」


ニーアは乱れた髪をかき上げ、ダイモンの手を強く握り返した。彼女の瞳には、もはやゼランディアの「人形」としての光はなく、一人の戦士としての不敵な笑みが宿っていた。


「ヘレナの息子さん。あんたのその力、ただの復讐に使うつもりなら、あたしが黙ってないわよ?」


空港のロビーを包む焦げた肉の臭いと、電子機器が短絡する異音。

その喧騒の只中で、ニーアは瓦礫の陰に身を潜め、魔導端末から軍用暗号回線を起動させた。金色の極太の尻尾が、緊張で激しく波打つ。


「こちらニーア・ヴェリタス。ゼランディア司令部、聞こえるかしら。……ええ。今すぐキメラ投入を中止しなさい。……理由?当たり前じゃない、『アスナ・ヴェリタス』のナンバーは、たったいま、た、ま、た、ま『場所』に来ていたこのあたしが、た、ま、た、ま、回収したわ」


通信を切断したニーアは、大きく一つ、吐き出すような溜息をついた。肺の奥まで入り込んだ砂埃が、喉を焼く。

通信の向こう側で、軍の高官たちが舌打ちをする気配が伝わってきた。だが、彼らにとっても「ニーア・ヴェリタス」という偶像の言葉を無視することは、本国の支持基盤を揺るがす致命的なリスクとなる。ひとまずは、最悪の虐殺は回避されたはずだ。


「さ。……聞いたでしょ。それをこっちに渡しなさい」


ニーアは努めて冷静に、突き放すような口調で言った。だが、差し出した彼女の手は微かに震えていた。

ダイモンは、その手をじっと見つめた後、ゆっくりと首を振った。


「断る」


「なんですって……?あんた、何を言ってるのか分かってるの?それはアスナの……いえ、国の魂とも言える形見なのよ!それに、そんな危険なものをあんたみたいな素人が持っていたら……」


「素人か。……だがね、ニーア君」


ダイモンは、ナンバーを自身の胸に引き寄せるようにして、静かに、しかし断固とした意志を込めて言葉を紡いだ。


「『場所』を見てみろ。暫定警察は機能を停止し、秩序は崩壊した。そこへゼランディアはキメラを投下した。……つまり、何が言いたいか分かるか?」


ニーアは言葉に詰まった。先ほどの無人機から降り注いだ暴力の雨が、彼女の喉を物理的に塞いでいた。


「抑止力だよ。この『場所』には、今、抑止力がない。力を持たない者は、奪われるのを待つだけだ。……だが、もしここに、最強の竜人と、最強の魔道士の血を継承した『力』が残っているとしたら、どうだ?」


ダイモンの瞳に、昏い、しかし確かな光が宿る。


「飛竜とヴェリタスの力を備えた、最後のナンバーがこの地に在り続ける。それを示すことでしか、この『場所』の人間に、ゼランディアと対等に交渉する権利は生まれない。……俺は、このナンバーを、この街を護るための『剣』として残す」


ニーアの心は、激しく揺れ動いた。

理屈は通っていた。残酷なまでに、論理的だった。


だが。


そもそも、ナンバーとは何だったか。

それは本来、人を殺すための牙でも、他者を支配するための盾でもなかった。かつての新王都において、ゼランディア系の科学者たちが心血を注いで開発したそれは、魔力を持たぬ者に光を与えるための、慈愛に満ちた発明だったのだ。視力の弱い者が眼鏡をかけ、歩けぬ者が車椅子に頼り、手足を失った者が義足を纏うように。ナンバーは、生まれながらに「魔法」という恩恵を受けられなかった人々が、愛する者と同じ景色を見るために作られた、福祉の結晶だった。


だが、その純粋な祈りは、当初、新王都内において「ゼランディア人にのみ、その使用を制限する」という血の制約が課された瞬間、ナンバーは愛の道具から、差別の象徴へと成り下がった。

後に規制は緩和されたが、規制が減るほど、本来不当な扱いだったことが際立ってくる。


純血の新王都人と、移住してきたゼランディア人の対立。


さらには新王都に根付いたゼランディア人と、本国に留まるゼランディア人との間の、特権を巡る反目。


その果てに待っていたのは、すべてを焼き尽くす無慈悲な戦争であり、この「場所」に横たわる果てしない死の山だった。

ニーアは、二つのナンバーを見つめ、静かに、しかし揺るぎない結論を下していた。


「そう。ならいいわ。私はナンバーを奪還しない。『本当』よ。……でも、それがまるっきり『嘘』になる、一番私らしい方法を、今から提案する」


ニーアの提案は、一見するとお花畑のような、甘っ端な夢物語に聞こえるものだった。


それは、ナンバーの技術情報を完全に公開し、全世界へ「オープンソース化」すること。


そして、この戦いの火種であり、生き残りのアスナのナンバーと、自身のナンバーを、ゼランディアへ返却せず、ゼランディアの顔を立てるために今や死に絶え、物理法則の檻に閉じ込められたこの「場所」の地脈へと投下して、破壊すること。


思い出のナンバーを破壊し、魔力の源である地脈を強制的に復活させ、この、思い出の「場所」に住むすべての人々に、等しく「魔法」の可能性を再配布するのだ。


「世界に、この力がばらまかれる。また争いが起きるかもしれない。でもね……」


ニーアは立ち上がり、ダイモンの方を向いた。


「奪い合いが起きるなら、呼吸をする空気みたいに、誰もが当たり前に持てるものにしてしまえばいい。それが、このナンバーを義足や眼鏡として作った、最初の発明者たちの願いだったはずだから」


ニーアのこの「嘘のような提案」を、彼女は即座に暗号通信で世界へと発信した。ゼランディアの聖女としての権限を、その最後の瞬間に行使したのだ。


驚くべきことに、世界はその「物語」のような、「嘘」のような提案をあっけなく、そして静かに受け入れた。


世界は、ニーアが思っていたよりも、ずっと優しかった。


あるいは、皆が誰かに……「もう、大丈夫だよ」と言ってほしかったのかもしれない。


ニーアは、地脈の吹き出し口である、旧・新王都の心臓部へと向かいながら、かつてこの地を支配した二人の女性に思いを馳せていた。


ヘレナ・ヴェリタス。あの、美しくも残酷だった悪女。

彼女は、自分だけが不当に迫害されていたという、誰にも否定できない確かな痛みから歪んでしまった。人種や種族の垣根を壊し、他人の痛みに無関心な者を決して許さない。その果てに彼女が辿り着いた「全人類の平等な抹殺」という結論。それは間違いなく狂気であったが、その根底にあったのは、誰よりも深い、しかし行き場を失った「愛」だった。


一方のアスナ・ヴェリタス。

彼女は、「目の前に立ちふさがる敵と、隣にいる仲間の痛みは許さない」という、あまりにも普通で、あまりにも尊い「愛」に生きた。彼女はヘレナの巨大すぎる理想と真っ向から激突し、目の前の平穏を守るために、その身を粉砕して世界から消滅した。


二人は、正反対でありながら、同じ「愛」という名の呪縛に囚われ、共倒れになったのだ。


「今、あの二人がここにいたら、なんて言うかしらね」


ニーアは、地脈の深淵を覗き込みながら、くすりと笑った。

ニーアはダイモンから、アスナのナンバーを受け取った。ダイモンは何も言わず、ただ静かに頷き、そのナンバーを彼女に託した。

ダイモンは、ニーアの背中を最後に見つめた後、無言で踵を返した。

彼は役目を終え、ただの一人の人間として、街の雑踏へと消えていった。

彼のこれからの人生が、穏やかな色であることを、ニーアは心から願った。


ニーアは、二つのナンバーを胸に抱き、システムを起動させた。

オープンソース化された設計思想が、衛星通信を通じて全世界の端末へと同期されていく。そして、彼女は迷うことなく、自身のすべてと、アスナの残り香を、地脈の裂け目へと投下した。


「ただいま、新王都。そして、さよなら、私の思い出たち」

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