真理4:探偵の帰還!
ゼランディアの白亜の宮殿。その最上階に位置する豪奢な私室で、ニーアは窓辺に立ち、苛立ちのままに極太の金色の尻尾を床に叩きつけていた。
「……信じられないわ。あいつら、一体何やっているのよ!」
ニーアの勝気な声が、無人の部屋に空しく響いた。先ほど軍の高官から非公式にもたらされた報告は、彼女の理解を完全に超えていた。
アスナの「ナンバー」奪回のために、あの泥濘の「場所」へ投下された、ゼランディア軍。そして、キメラ兵器。それが、敵に、ナンバー所持者に粉砕されたというのだ。軍の工作員たちは、その圧倒的な暴力の前に手も足も出ず、這々の体で撤退を余儀なくされたらしい。
おかしい。絶対にありえない。
失われた魔力生成装置であるナンバーを起動し、ましてや軍用のキメラを単機で圧倒するほどの出力を引き出せる人間など、存在するはずがないのだ。
ナンバーとは、ただの兵器ではない。使用者の生体データを読み取り、魂の波長と適合しなければ、ただの重たい金属の塊でしかない。軍人が無理やり奪い取って起動できるようなものではないし、ましてやその辺のヤクザ者が偶然拾って使いこなせるようなものでもない。
「既にナンバーは完全に起動している……?そんなこと、ありえるの?」
ニーアは、窓ガラスに映る自分の金色の瞳を見つめながら、必死に思考を回転させた。
考えろ。考えなさい、ニーア。
四年前。世界が崩壊の淵に立たされたあの日、大好きなアスナが飛竜としての真の力に覚醒した日。アスナは、己の力の源泉であった「竜の涙」を返却してもらい……その代わりに自身のナンバーを誰かに託したはずだった。
その相手は、誰だったか。
「……ギデオン。そうよ、ギデオン・ヴァンツだわ!」
ニーアの脳裏に、不器用だが真っ直ぐだった男の顔が浮かんだ。もしあのナンバーがギデオンの生体データを登録したままになっているとすれば、彼か、彼の親族、血の繋がった者が起動したと考えるのが自然だ。
だが、ニーアはすぐにその仮説を打ち消した。
「違うわ。ギデオンは撃ち殺されたし、ギデオンに娘はいない。親族に該当する人間なんていないはずよ」
ならば、誰だ。
アスナ自身には子供はいなかった。ヴェリタスの血を引く隠し子がいたなどという話も聞いたことがない。では、いま「場所」でアスナのナンバーを完全に掌握し、竜の力を振るっている者は一体何者なのか。
ニーアは、絨毯の上を円を描くように歩き回りながら、過去の記憶の糸を手繰り寄せた。
アスナ・ヴェリタスは、表向きは新王都の探偵であった。しかし、暴力と策謀が渦巻く都市で生き残るため、アスナとニーアは、新王都の裏社会を牛耳るマフィアを隠れ蓑として利用していた。
あの薄暗いマフィアの事務所。紫煙の匂いと、冷たい銃鉄の感触。
そうだ。あのナンバーを作ったのは、アスナではない。
「……ヘレナ?」
その名に行き着いた瞬間、ニーアの背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
新王都最強の魔道士であったエラーラ・ヴェリタス。その実の妹であり、アスナとニーアが隠れ蓑にしていた巨大マフィアのボスとして君臨していた女、ヘレナ・ヴェリタス。彼女こそが、アスナのナンバーの設計者であった。
ヘレナは、極めて用心深く、狡猾なマフィアのボスだった。血の気の多い部下たちを束ね、裏社会の頂点に立つためには、絶対的な力と、万が一の暴走を食い止めるための「セーフティ」が不可欠である。
もしヘレナが、自身が作り上げたアスナのナンバーに、緊急時を見越して「仕掛け」を施していたとしたら。
「ヘレナの目的は、アスナの殺害だった。つまり、アスナが牙を剥いた時のために……ヘレナは、自分自身の生体データも、マスターキーとしてナンバーに登録していた……?」
それが、最も妥当な推理だった。
そして、そのヘレナの生体データと適合する、ヘレナの血を受け継ぐ者が、あの「場所」に存在していたとしたら。
「嘘でしょ……。じゃあ、いま『場所』でナンバーを起動して、キメラを粉砕したあの装甲兵士は……」
ヘレナ・ヴェリタスの、息子。
最強の竜人であるアスナの力。それを駆動させるナンバーのシステム。
そしてそれを操っているのが、最強の魔導士の血を引き、裏社会の頂点に立った、ヘレナの息子なのだとしたら。
近代兵器とキメラの力で圧倒できるような相手ではない。
軍は、眠れる巨大な竜の尾を踏みつけてしまったのだ。
ニーアは鏡台の前に立ち、そこに映る自分自身の姿を見つめた。
金色の美しい毛並み。豪奢なドレス。ゼランディアの民衆から崇め奉られ、安全な鳥籠の中で保護されている、聖女としての姿。
「あたしの名前は……ニーア・ヴェル・リータス」
彼女は、鏡の中の自分に向かって、ひどく掠れた声で呟いた。
彼女はヴェリタスの一族などではない。魔力などこれっぽっちも持っていない。
……だが。
アスナの残り香が、あの泥濘の街で泣いている。
ニーアは、クローゼットの奥底に隠していた分厚い革のコートを引っ張り出した。それはかつて新王都の裏社会をアスナと共に駆け抜けていた頃に着ていた、血と硝煙の匂いが染み付いた古びたコートだった。
彼女は部屋の隅にある重厚な金庫の前にダイヤルを合わせ、扉を開いた。
中には幾重にも布で厳重に包まれた、金属の塊が安置されていた。
ニーアは震える手でそれを取り出し、布を解いた。鈍い光を放つ、もう一つの「ナンバー」。四年前、彼女がアスナたちと共に戦場に立っていた時に使用していた、彼女専用の魔力生成装置であった。
「あたしは……弱いわ」
ニーアは自嘲気味に笑った。
事実だった。彼女自身には魔力がない。このナンバーの補助がなければ、ただの運動神経の良い獣人でしかない。
だが、それでも。
魔法が完全に失われたあの「場所」において、失われた因果律を捻じ曲げ、魔力を生成して互角の土俵に立てるのは、この世界でもはや、最後のナンバーを持つ自分しかいないのだ。
「けどね……あたしは今でも、新王都のニーア・ヴェリタスなんだから!」
ニーアは、ナンバーを強く握りしめた。
ゼランディアから「場所」へと向かう旅客機は、無機質な静寂に包まれていた。ニーアは、窓の外に広がる厚い雲海を睨みつけながら、手元の端末に表示された膨大なアーカイブを指先でなぞり続けていた。かつて新王都を揺るがしたマフィアの女帝、ヘレナ・ヴェリタス。彼女の遺した足跡を辿ることは、ニーアにとって自身の傷口を抉るような作業だった。
ヘレナは暴力団のボスでありながら、その心の奥底では新王都人とゼランディア人の「調和」という、あまりにも壮大で、あまりにも残酷な夢を見ていた。結果として彼女が選んだ道は、双方の破滅を伴う「共倒れ」という名の等価交換。それもまた一つの調和かもしれないと、ニーアは自嘲気味に口角を上げた。
だが、問題はその先だ。
ヘレナの夫、ガゼル・オータム。そしてその息子、レン・オータム。
公式な記録では、レンは数日前に死亡している。しかし、その後にアスナのナンバーが起動したという報告がある。幽霊が戦っているとでもいうのか。ニーアは思考の海に深く沈み込んだ。
「隠し子……?」
ヘレナという女は、冷酷なマフィアの首領である前に、一人の計算高い魔道士だった。もし彼女が、自分の実の子には血塗られた極道の道ではなく、全く別の光の当たる道を歩んでほしいと願っていたとしたら。ニーアはガゼルの家系図をさらに深く掘り下げた。そして、一つの歪な真実に行き当たった。
レン・オータムは、ガゼルの前妻の息子だった。いわば、ヘレナにとっては血の繋がらない義理の息子。
そして、ガゼルとヘレナの間に生まれた「真の実子」の名前が、アーカイブの深層から浮かび上がった。
ダイモン・オータム。
その経歴を追うのは容易だった。暴力団の家系に生まれながら、彼はその対極にある組織――新王都警察へと身を投じていたのだ。
ニーアは冷や汗が背中を伝うのを感じた。皮肉という言葉では片付けられないほどの、悍ましい運命の悪戯。
ヘレナの暴走はゼランディアによる新王都侵略の完璧な口実となり、かつて市民を守る誇りだった新王都警察は、侵略者たちの手によって再編された。それが今の「暫定警察」だ。
新王都人でありながら、たまたまゼランディアに出向していたがために、あの爆発を生き延び、そして新王都の同胞を迫害するためのゼランディアの組織に組み込まれた息子。
その息子が、母ヘレナの生体データという「許可」を得て、母が最も恐れた宿敵アスナ・ヴェリタスの力を獲得する。
「なんてこと……。これが、あんたの望んだ調和だって言うの、ヘレナ?」
新王都の血を引き、ゼランディアの制服を着て、伝説の竜の力を振るう。それは、二つの国が最も醜い形で混ざり合った、この時代の縮図そのものだった。
「場所」の空港に降り立ったニーアを待っていたのは、かつての煌びやかな王都の面影を失った、灰色に沈んだ「新しい」空気だった。
一般市民に紛れるため、彼女はドレスを脱ぎ捨て、地味なパーカーのフードを深く被っていた。自慢の極太な金色の尻尾も、コートの裏側に不自然にならないよう隠している。
本来であれば、すぐにでもダイモンの足取りを追うべきだった。
だが、空港の到着ロビーを歩くニーアの足は、無意識のうちにある場所へと向かっていた。
ガラス張りの向こう側に見える、馴染みのドーナツチェーン店、ミスター・マジック。そこから漂ってくる甘い香りと、香ばしいコーヒーの匂いは、ニーアの凍てついた記憶を強引に解きほぐした。
「……とりあえず、休憩よ。お腹が空いてちゃ、まともな推理もできないわ。そうよ、あたりまえじゃない」
自分に言い聞かせるように、誰に宛てるでもなく強気な口調で呟く。彼女はカウンターに座り、コーヒーと、一番甘そうなチョコレートのドーナツを注文した。
出されたコーヒーを一口啜る。
豆はゼランディアからの輸入品だろう。新王都の物流は完全にゼランディアに握られているのだから。
だが。
この「場所」が。この故郷の空気が、その味を決定的に変えていた。
「……あの日と、同じじゃない」
喉の奥を焼くような苦味の後に、微かな酸味が残る。
それは、あの日、アスナと一緒に飲んでいたコーヒーの味そのものだった。事件の捜査に行き詰まった時、あるいは些細なことで喧嘩をした後、二人はいつもこうして安いドーナツ屋で時間を潰していた。
アスナはいつもブラックだった。ニーアは砂糖をたっぷり入れたミルクコーヒーを好んだ。
「……ニーア、そんなに甘いものばかり食べてると、自慢の毛並みが悪くなる」
……そう言って笑っていた、アスナの低くて心地よい声が、耳の奥で蘇る。
ニーアはコーヒーカップを両手で包み込み、震える指先を温めた。
窓の外では、大きな夕陽がゆっくりと地平線へ沈もうとしていた。かつての王都を照らしていた美しい黄金色の光ではない。瓦礫の山を赤黒く染め上げ、影を長く引き延ばす、滅びゆく世界の残光。
だが、その光を浴びながら歩く人々の姿があった。
暫定警察に怯え、キメラの脅威に晒されながらも、人々は今日を生きるために重い足取りで家路についている。その泥臭い、しかし力強い命の鼓動。
「……馬鹿ね、あたし。何しに来たのかしら」
一筋の涙が頬を伝った。




