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ヴェリタスの最終定理Ⅲ 野狐の偽証  作者: 王牌リウ
●第19章:破滅の時

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真理5:幸福な世界!

ゼランディアの首都、白亜の尖塔が立ち並ぶ絢爛たる大区画の最上層。

豪奢なバルコニーで、ニーア・ヴェリタスは冷たい風に金色の毛並みを揺らしていた。彼女の視線の先、はるか海の向こうには、かつて新王都と呼ばれた広大な大地が存在している。いや、正確には「存在していた」と言うべきだろう。


現在、ゼランディアの公的な地図において、あの場所を指し示す固有名詞は存在しない。ただ単に「場所」という、一切の歴史と感情を剥奪された無機質な記号で呼ばれている。

空間破壊爆弾によって文字通り概念ごと抉り取られたその「場所」は、今やゼランディアの新たな領土として、ゼランディア人の手によって、ゼランディア人のためだけの都市へと作り変えられつつあった。


かつてそこで、番号持ちと新魔道士が血みどろの抗争を繰り広げたことも。


墓守教の狂信が渦巻いていたことも。


そして、一人の不器用な飛竜が、世界を救うためにただ一人で絶望の空を舞ったことも。


すべては「場所」という言葉の裏側に封じ込められ、都合の良い真新しい歴史が次々と捏造されていた。

ニーアは今、この世界で最も高貴で、最も不可侵な存在として君臨させられていた。

ゼランディアの権力者たちは、爆心地から無傷で生還したこの狐獣人の少女を、行方不明となっていた大賢者エラーラ・ヴェリタスの正統なる後継者、あるいは、飛竜の意志を継ぐ「奇跡の聖女」として完全に祭り上げた。彼女の「ニーア・ヴェリタス」という「嘘」は、ゼランディアの熱狂によって、世界で最も神聖な「真実」へと錬成されてしまったのだ。


それは皮肉にも、戦前のニーア自身が、裏社会で生き抜くために、そして大ファンであったエラーラに少しでも近づくために吹聴して回っていた「嘘」そのものであった。

彼女がかつて探偵としてエラーラの真似事をしていたという過去の事実すらも、「やはり彼女はエラーラの意志を継ぐ者であった」という強固な証拠として扱われた。

ニーアがどれほど「自分はただの狐獣人の探偵だ」と血を吐くように真実を叫んでも、誰一人として信じる者はいなかった。

権力者たちは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、民衆は感動の涙を流して彼女を崇めた。

彼女に魔力が一切ないという明白な事実でさえも、「あの最終破壊から生き残るために全ての魔力を使い果たした尊い犠牲の証」であるとか、「魔力すら持たない非力な少女だからこそ、大賢者と飛竜は彼女の純粋な魂に世界の未来を託したのだ」という、都合の良い解釈へと変換された。


世界は、ニーアの言葉を聞いているようで、実はニーアという「記号」しか、消費していなかった。

あの消滅の日から、ニーアの心臓は動いていても、心は完全に停止していた。

彼女はゼランディアの軍用機に乗り、幾度となく「場所」へと赴いた。すり鉢状になった荒野を、泥だらけになりながら這いずり回り、大地を掘り返した。


アスナの黒髪の一本でも……。


あの細縁の黒眼鏡の破片でも……。


あるいは、彼女の体温の残滓だけでも……。


狂ったように、狂ったように、探し求めた。


だが。

そこに何かが残っているはずがなかった。

空の彼方に向かって喉が裂けるまでアスナの名前を叫び、最後は己の無力さに絶望してその場に倒れ伏し、涙と涎に塗れて、発狂した。

その凄惨な姿を見たゼランディアの随員たちは、彼女を責めるどころか、優しく抱き起こし、毛布で包み込んだ。


「可哀想な聖女様。あの死闘のトラウマが、未だに彼女の心を苛んでいるのだ」


誰もが、優しかった!


誰もが、ニーアを気遣った!


その優しさが、ニーアの「真実」を「嘘」として処理し、彼女をさらに深い孤独の底へと沈めていった!


空虚な心を埋めるため、ニーアはあらゆることを試した。


夜の闇に紛れ、スラム街で見つけたアスナに背格好の似た黒髪の竜人の娼婦を大金で買い取り、豪奢なベッドで抱きしめた。だが、その肌の温度も、怯えたような瞳も、アスナのそれとは決定的に違っていた。娼婦の体にすがりついて泣き崩れるニーアを見て、その竜人の女性はただ困惑するばかりであった。


ゼランディアの最高機密庫にアクセスし、エラーラ・ヴェリタスの残した膨大な全記録と、かつて世界を救った飛竜の伝承を狂ったように読み漁った。文字の海に溺れれば、そこにアスナの思考の欠片が見つかるかもしれないと信じて。


そして、朝が来るたびに、最高級の厨房に命じて、街角の安っぽい油で揚げたような甘ったるいドーナツを焼かせ、最高級の豆で淹れた珈琲と共に胃に詰め込んだ。アスナが愛した味。アスナの体を構成していた味。しかし、それはただの砂糖と小麦粉の塊であり、ニーアの舌には虚無の味しか感じられなかった。


何もかもが、無駄だった!


無駄だったんだよ!


「私」は取り戻そうとした!


でも、「私」がいくら探しても、そこにはもう何もなかったんだ!


みんな、「私」を置いて行ってしまった!


みんな、先へ進んだんだ!


「私」は、あの日に取り残されたままだ!


みんな、居なくなった!


「私」の世界から、完全に消去されたのだ!


助けて……


助けて!


誰か!


誰か助けてよ!


誰か、返事をしてよ!


誰か!


……誰か……!


「私」は!


……「私」は!


「私」は、その「真実」なんか、信じたくなかった!


信じたく、なかったんだよ……


その「真実」は「私」の──ニーアの心臓に深く突き刺さったまま、抜けることはなかった……。


・・・・・・・・・・


ある、晴れた朝。

ニーアは、豪奢な天蓋付きのベッドからゆっくりと体を起こした。窓から差し込む朝陽は、あの、何もない海岸線で見たものと同じように、希望に満ちているような顔をして、空っぽで、眩しかった。

しかし、鏡の前に立ったニーアの黄金の瞳には、かつての虚ろな絶望の濁りは消え失せていた。そこにあったのは、冷酷なまでに研ぎ澄まされた、揺るぎない、覚悟の光であった。


「……そうね。世界が嘘を望むのならば。……あたしは、最高の嘘つきになってやるわ!」


ニーアは、自らの金色の髪を乱暴に掻き上げた。

戦前から、彼女は誰よりもエラーラ・ヴェリタスのマニアであった。彼女の思考、彼女の理想、彼女の絶望。そのすべてを理解しようと努めてきた。そして何より、ニーアはアスナ・クライフォルトという、不器用で、論理的で、誰よりも優しかった竜人を、魂の底から愛していた。

「真実」を語って「嘘」として消費されるくらいなら。

この血を吐くような「真実」の愛を、頭の狂った少女の戯言として同情されるくらいなら。


ニーアは、「真実」の「ニーア・ヴェリタス」として、「嘘」をついて生きることを、選んだ。


世界が用意した聖女の座に胡座をかき、ゼランディアの権力を利用し尽くしてやる。そして、その特権階級の書斎の中で、ただ一人で、世界に対する壮大な復讐を開始するのだ。


ニーアは、ペンを取った。


それは、けして、歴史書ではなかった。告発文でもなかった。彼女が書き始めたのは、一篇の「フィクション小説」であった。

彼女は知っていた。人間という生き物は、突きつけられた不都合な真実からは目を背けるが、美しく包装された物語の中でなら、どんな残酷な真実でも涙を流して飲み込むということを。アスナが信じた「人間」の、それは最も皮肉で、最も美しい側面であった。


ニーアは、書いた。


灰色の空に覆われた新王都の匂いを。


番号持ちと新魔道士の、血で血を洗う不毛な対立を。

ヘレナ・ヴェリタスという女性が抱えていた、底知れぬ社会への愛と、それが反転した深い憎悪を。


思考蟲という冒涜的な存在を。


そして、小柄で眼鏡をかけた、ドーナツと珈琲ばかりを口にする竜人の探偵助手のことを。


彼女が実は、かつて世界を救った大賢者の妻であり、巨大な飛竜であったという、誰も信じないであろう、荒唐無稽な「嘘」を。


その竜人が、たった一人の狐獣人を抱きしめ、世界中のすべての悪意を背負って光の中に消えていった、あの日の絶望と希望という「嘘」を。


例え世界中から嘘つきと罵られようとも構わなかった。


数ヶ月後。

ニーア・ヴェリタスが執筆したその書物は出版された。

聖女が綴ったその物語は、たちまち世界中を席巻した。人々は、そこに描かれたあまりにも生々しい絶望と、息を呑むほどの美しい自己犠牲の描写に、我を忘れて涙を流した。


かつて、ニーアが血の涙を流しながら訴えた「真実」は、PTSDの痛ましい「嘘」として哀れまれた。


しかし、同じ内容を「SF小説」という体裁で世に出した途端、世界中の誰もが心を震わせ、共感を示したのである。


もちろん、それが「実際に起きた真実の歴史である」と信じる者は、相変わらず、誰一人としていなかった。

卓越した想像力と、凄惨な戦争体験が結びついて生まれた、妄想の、「嘘」の、SFファンタジー。それが、この世界におけるその本の評価であった。


それで、よかった。


ニーアは、もう、「信じてくれ」と世界に乞い願うことはやめたのだ。


人は、信じたいものを、信じればいい。


見たい夢を、見ればいい。


この、「無関心でいられる」幸福な世界が続く限り、アスナが命を賭して守り抜いた「結果」は、確かに、そこに、存在しているのだから。


夜の帳が下りたゼランディアの首都。

ニーアは一人、豪奢な執務室の革張りの椅子に深く腰掛け、刷り上がったばかりの装丁の美しい単行本をそっと撫でた。


「……これで、いいのよね、アスナ」


独り言は、静かな夜の空気に溶けて消えた。

ニーアはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。あの「場所」がある方角を。

彼女の心は、あの日から一秒たりとも進んではいない。永遠に、あの光の中でアスナの名前を叫び続けている。しかし、その凍りついた時間の箱庭の中で、彼女は最高に美しく、残酷な嘘を紡ぎ続けるだろう。この命が尽きる、その最後の瞬間まで。

ニーアは手元のグラスに注がれた安酒を、一気に飲み干した。

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